第4章 ピアノ協奏曲第5番「皇帝」 1
第4章 ピアノ協奏曲第5番「皇帝」
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天窓に四角く切り取られた空は、時が経つにつれて群青色が赤みがかってきて、やがて黄色い光が混じって瑪瑙色の一瞬が訪れて、そしてそれがどんどん澄んでいって遠くまで透き通った青空に変わっていった。
スズメ、かな。スズメ系か。小鳥が鳴いている。ちゅんちゅんさえずっている。窓から斜めに射し込んでくる陽の光はどこの世界もおんなじで触ったら切れてしまいそうなほどくっきりと眩しかった。
どうやら無事に夜が明けたようだ。
僕は人間抱き枕と化して身動き一つ取れずに、とうとう一睡もできないうちに朝日が昇ってしまった。よもぎ先輩の長い両手両足でガッチリとロックされてしまって、下手に身体をよじれば彼女の身体をまさぐってしまいそうで気を付けの姿勢のままだ。この辺の離れ業は草食動物特有のものだな。つくづく自分が情けなくも、同時に誇らしくも思う。ゆうべのあの状況で草食動物が女王様に下剋上を起こさなかったのは、何よりも僕の勇気と忠義心と理性と意思の強さの賜物だが、もしも学校の男どもに話そうものなら、女王様攻略の唯一無二にして千載一遇のチャンスを見過ごした大馬鹿者として学園史に名を残せそうだ。馬も鹿も草食動物だし。そもそも話したって信じる訳がない。
今僕は異世界にいてあの女王様ランキング第一位の輪王寺よもぎとベッドで抱き合っているんだー。誰が信じるって。
昨日、部活の練習中、突然女王様女子高生に連れ去られた草食系男子生徒。そのまま翌日も姿を見せず。ああ、どんな噂が立てられているやら。
ちらっとよもぎ先輩の寝顔を拝見。僕の肩にあごを乗せるようにして寝息をかいていて、半開きの唇から前歯がちょっとだけ顔を出している。僕の首よ、折れろ! と、ばかりに捻りを加えれば、そこにある唇を奪うこともできそうだけど、首の方が大事なので止しておく。
閉じられた瞼は長いまつ毛に彩られて、鼻も唇も全体的に作りが小さくて切れ長の目とよく似合っていてまるで日本人形のような寝顔だ。
そのまま視線を下ろしてみる。胸を押し付けるようにしてぼくの腕にしがみついているので、寄せて上げて効果なのか少し開いたローブの胸元からかすかな胸の谷間が拝めた。さらに視線をなだらかな曲線に這わせると、がしっと僕をロックしている太ももが朝日を眩しく反射させていた。月明かりでは気付かなかったけど、ローブがはだけてけっこう太ももの付け根辺りまで露出しちゃっていた。眼鏡をかけっぱなしでベッドに入った幸運に感謝せずにはいられない。文明の利器、眼鏡よ、ありがとう!
全然眠ってないまま朝日を迎えて妙にテンションが高くなってきて、もっと別な角度から鑑賞できないかと、そうっと首を持ち上げてみる。ふと、よもぎ先輩の寝顔に目が行き、ばっちりとよもぎ先輩と視線がぶつかり合った。
あれ、なんで目が開いてるの?
「おはよ」
とりあえず 爽やかに目覚めの挨拶を投げかけてみる。
「ひゃん!」
突き飛ばされた。かわいい悲鳴とともに両手で突っ張り連打。脚のロックも解除されて両手両足を総動員してよもぎ先輩は僕をベッドから押し出した。
「で!」
けっこうな高さから転がり落ちて胸を強打して思わず変な声が漏れてしまった。
「何? 何で? 伊吹くん、だよね?」
他に誰がいるって言うのか。なかなか起き上がれないでいた僕に、よもぎ先輩はベッドからそうっと顔を出して恐る恐る声をかけてきた。
「ごめん、大丈夫?」
あんたのせいだよ。胸を打ったせいか咳き込んでしまって、僕はまだ四つん這い状態だ。そんな僕の背中をぽんぽんと叩くよもぎ先輩は、頭に浮かんでいるクエスチョンマークをがんがん投げつけてきた。
「何で私と伊吹くんが一緒に寝てる訳?」
あんたのせいだよ。
「そもそも何で伊吹くんに抱きついてた?」
あんたのせいだよ。
「えっと、その、何かしちゃったりした?」
残念ながら何もなしだ。やっと咳が落ち着いた僕は絨毯にべたりと座ってベッドにもたれ掛かるようにして事情を説明してみた。
「ゆうべ、ベッドでお喋りしてたら、急によもぎ先輩が抱き枕になれって言ったじゃん。命令通り抱き枕を忠実に再現したから、僕から触ったりはしてないからね」
「私が? 抱き枕? 何故?」
いろんな意味でこっちが聞きたい。
「知らないよ。お酒飲み過ぎて酔っ払ってたから?」
「酔っ払った? 私が?」
きょとんとするよもぎ先輩に、枕元に転がっているワインボトルを指差して見せる。
「ほぼ空っぽだよ。全部よもぎ先輩が飲んじゃった」
「……記憶にございません」
「ずいぶん喋ってたけど、何にも覚えてない?」
恥ずかしながらここぞとばかりにけっこうかっこつけちゃったぞ。事細かに覚えてるってのもアレだけど、全然覚えていないってのもちょっと悲しいものがある。
「あーっと、確かに」
よもぎ先輩はローブの乱れも直さずにベッドの上で正座して頭を抱えた。僕は絨毯に座ってベッドにもたれ掛かっているので、ちょうど目線の高さがよもぎ先輩のはだけた膝元にある訳で。この見えそうで見えないチラリズムが朝からまた強烈な攻撃力となってしまう。
「えっと、バンドの名前が『トラとコジカ』に決まった辺りまでは記憶に
あるよ」
いやいや、ないない。
「そこら辺からもう記憶が曖昧なのか」
エルミタージュとの出会いのくだりなんて、絶対僕が守ってあげなきゃって気持ちになったのに。どうしてくれる、この男心。
「あ。違う。そうだ」
「思い出した?」
「バンド名は『アンゲリカとシェヌー』だ」
いやいやいや。アンゲリカはもういいって。
「64日間!?」
思わず大声を上げてしまった。食堂にいた数人の衛兵達が食事の手を止めて何事かとこっちを見た。よもぎ先輩は慣れた感じで彼等へにこやかに手を振って答えてやった。兵士達も嬉しそうに思いきり手を振り返す。アイドル並の待遇だ。
「そう。しっかり数えていたから間違いない。私がこの世界に来て今日で65日目」
よもぎ先輩はテーブルの真ん中に山と積まれた焼きたてパンの一つを手に取って、何でもないことのようにさらっと言ってのけた。
よもぎ先輩とテテと一緒に朝食を摂りながらこの世界のことを話していたら、そんなとんでもない発言が飛び出したのだ。65日目って、二ヶ月以上も、よもぎ先輩はこの世界に一人きりだったのか。
「でも、夏休み初日に部室で会ってるから、僕には二、三日振りってしか」
「違う世界だもん。違う時間が流れていてもおかしくないって」
小さなパンをひと千切。よもぎ先輩はバターナイフで千切ったパンにバターをこれでもかと塗りたくって口に放り込んだ。僕は牛乳、もとい、シェヌー乳で口を湿らせてからテテに尋ねた。
「今までの異世界からの奏者もそんな長い期間いたの?」
しかしテテはびくっと身体を震わせるだけで答えなかった。代わりによもぎ先輩から返事が来る。
「そんな答え難い質問しちゃダメだって。大抵その日のうちに試合も終わるでしょ。たぶん」
ちなみによもぎ先輩が食べているバターもシェヌーの乳から作られたものだ。シェヌーはこの兄王の宮殿でも飼育されている家畜で、ひょろい牛みたいな奴だった。正体さえ解れば食うのに何ら問題ない。アンゲリカはまだ未確認動物だから食べたくない。
「……はい。ほとんど一日で、代理戦総会は終わります。稀に戦争が長引いたりもするけど……」
戦争。そうだ。僕達奏者は戦争代理人として戦争しているんだ。戦争に決着がつく時、それはどちらかの奏者が倒れる時だ。
「伊吹くん。解ってると思うけど、私達は最高の音楽をこの国の人達に届ければいいの。結果は後でついて来る」
よもぎ先輩は軽く微笑んで片目をつぶってみせた。
よもぎさんはとても強い人だ。こんな命のかかった状況で65日間もたった一人で生きてきたんだ。ゆうべのことは本当に覚えていないのかも知れないけど、僕は決めたんだ。よもぎ先輩を絶対に守るって。
「ほら、伊吹くんとっとと食べちゃえ。今日は街を案内してあげるって言ってたでしょ」
「え? 聞いてないよ」
「寝る前に言った」
「言ってないよ。今初めて聞いた」
「言ったって。ねえ、テテ」
「……え? はい、……たぶん」
ああ、この様子じゃゆうべのこと、ワイン飲み過ぎで完璧に忘れてる。