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異世界の夜空は透き通った群青色だった。一つの大きな月が白く光り、遠くに欠けた赤い月が小さく見える。土星の表面から宇宙を見上げたらこういう風に見えるのかってくらい見事なリングが群青色を真っ二つに割っていた。二つの月と、淡くオレンジ色に光るリングがあるのにも関わらず、星がやたらキラキラと自己主張している。この世界の夜はとても明るい。
少しだけひんやりする夜風を浴びながら、よもぎ先輩は黒髪をなびかせて軽やかに鼻歌まじりで歩いていた。石造りの中空の渡廊下はコツコツとよもぎ先輩のヒールの音を夜に染み渡らせる。時たま、まるで鼻歌のリズムを取るようにスキップするよもぎ先輩。一緒に歩くテテもハミング。彼女が跳ねれば金髪の三つ編みも揺れて、手に持つカゴからかちりとガラスが触れる音がする。
よもぎ先輩は背中が大きく開いた戦闘用装甲ドレスから、この国の民族衣装に着替えていた。僕が身に付けている男性用衣装は上下分かれていて、下には厚めの生地だがゆったりとしたズボン状のものを、上には首を通すだけの肌着にどこか羽織に似た薄い上着を重ね着するだけの、きっちりとした上品な作務衣のような格好だった。色合いも黒く縁取りされた藍色などの地味な感じでみんな統一されていた。それに比べて女性の民族衣装は華やかなものだ。下着なのか、頑張って眼をこらせば素肌が見れるんじゃないかって薄い絹のような生地を胴体に巻き付け、裾はふわりと足首まで自然に流し、スリットのように片側を太もも辺りまで緩めて歩きやすいようにしている。胸元は生地をリボンのように結びつけて、そこにベールみたいな、ショールみたいなのを各々好きにアレンジして肩を覆い、首、手首、足首には細いベルト状の金で装飾されたアクセサリーを飾っている。身体のラインが解るようなぴったりとした衣装で、夜の明るい群青色に映えるオレンジ系統の色合いが健康的な色っぽさをかもしている。
「このお部屋を、使ってもらってます……。ちょっと、離れで寂しいけど……」
テテが城のような宮殿の角に位置する塔状のでっぱりを指差した。
「外国の要人を招待した時に、使っている客室で……。自由に使ってください。ちょっと、広過ぎるかも……」
離れとも呼べるこの塔に移動するには、この中空の渡廊下を通るしかない。下を覗いてみると、ビルの三階くらいありそうな高さで、塔そのものに出入り口はこの渡廊下以外になさそうだ。
「幽閉するにはぴったりじゃん」
僕は率直な感想を言ってみた。テテはぴくっと三つ編みを揺らして振り返り、申し訳なさそうな泣き顔のような笑顔で言った。
「やっぱり……、そうなっちゃいますよね……」
しかしよもぎ先輩は違った。鮮やかなオレンジ色の生地を身体に巻き付け、ガールブラストのような袖が長いゆったりとしたガウンを羽織り、スリットのようにはだけた裾からすらりとしたナマ足を覗かせて僕の太腿にローキックをかます。
「まじで痛いですってば!」
脚が長くてモーションも大きいからきれいな軌道の蹴りでけっこう効く。
「何をネガティブシンキングしてんのさ。ポジティブに考えな」
歌うようによもぎ先輩は続ける。
「引き篭もるには最適じゃないの。この橋さえ守れば誰も侵入できないよ」
引き篭もるって。せめて篭城と言って欲しいもんだが。
「テテ、ここでいいよ。今日も一日ご苦労様」
よもぎ先輩はそう言うとテテからカゴを手渡してもらった。そして自然と僕がよもぎ先輩からカゴを受け取る。一応断っておくが、主従関係とかじゃなくて、紳士としての行動だ。
「それでは……、明日またいつもの時間に起こしに来ますね。おやすみなさい」
テテがぺこりと頭を下げる。くるっと背中を見せたかと思うと、再びくるっと。結局一回転しただけで僕に向き直る。
「イブキさん……。私、頑張ってポータルを開けるようになりますから、その……、メガネの約束、お願いします!」
そして三つ編みをはね上げるようにぺこり。
「うん、わかってるよ。おやすみ」
「ふうん」
パタパタと走り去るテテの小さな後ろ姿を横目に、よもぎ先輩は腕組みをして冷え切った声で言った。
「意外にも、伊吹くんって手が早いんだ。もうテテを手懐けるなんて」
「誤解を招く表現はやめてください。僕は誰とでも友達になれるんです」
「さあ、どうだか?草食系を装って無警戒の女の子が近付くの待ち構えてるんでしょ?」
よもぎ先輩はニヤッと笑って塔に通じる扉をくぐった。僕は背中にコントラバスのケース、右手によもぎ先輩のギターケース、そして左手にけっこうな重さのバスケットを持ったまま取り残されたしまった。
と、扉の大きなドアノブに眼が行く。扉はこちら側に引くようだが、そのドアノブに少し加工するだけで閂をかけて簡単に扉をロックできそうだ。
ドアノブを見つめたまま考え込んでいると、ひょいと扉が開いてよもぎ先輩が顔を出した。
「何してんの? 入りな」
「あ、うん」
扉をよもぎ先輩に支えてもらって塔に入ると、予想通り扉の内側にはノブも取っ手も、指の引っ掛かりになりそうな箇所はなかった。
やっぱり中から扉をロックすることはできない造りになっているか。テテは客人用の離れみたいなことを言っていたが、はたして本当はどうだか。モウゼンがそう言うように仕向けたのか。
「なかなか素敵な部屋でしょ?」
よもぎ先輩が両手を広げてみせた。塔内に窓はなかったが、すでに幾つもの燭台に火の灯った蝋燭が用意されていて、そんなに暗くは感じなかった。
塔の中は思ったよりも広く、教室くらいの大きさはありそうだ。扉をくぐってすぐ右手に上りと下りの階段があり、それぞれ扉に行き当たっている。
部屋には靴を脱いで歩くと気持ちよさそうなふかふかの絨毯が敷かれてあって、大きなテーブルが一つと、それを囲む合計十個の椅子が真ん中に配置されている。今の季節には使っていないんだろう、薪も灰も残っていない立派な暖炉があり、その側に毛皮っぽいローソファーが置いてあった。
「居心地良さそうな感じですね」
「上が寝室。下が倉庫になってるっぽい。薪木とか、保存食っぽいのがしまってあったよ。さらにその下が、水回りかな」
「水回りって?」
下りの階段を覗き込んでみる。水回りって聞いたせいか、少しひんやりした空気を感じた。
「小さな井戸があって、軽く煮炊きができそうなかまどがあるの。さらに奥にはお風呂とトイレ。勝手にお湯を沸かして使っていいってさ」
バストイレ付き。おまけに暖炉付き倉庫付きの四階建て物件か。ただし外から鍵をかけられたらもうどうにもなりませんっていう特典付き。
「楽器は上に置こう」
よもぎ先輩が僕の手からバスケットを取って階段を登っていった。僕もコントラバスのケースを背負い直して階段に脚をかける。上は寝室って言ってたけど、塔は確か先細りの構造になっていて、この部屋よりも狭くなっているだはず。
階段の扉を開けると、群青色の光が溢れ出てきた。寝室の壁には一方に窓が開いていて、吹き抜けのように高い天井が一面天窓になっていて月と星の明かりが部屋中にこぼれ落ちていた。雨だれみたいに光が降り注いでいる。その光の雨の中を、よもぎ先輩は長い袖のガウンを脱いで床に置いたバスケットに放り込んで窓際に歩いていった。身体に巻きつけただけのオレンジ色のシルクのような服が月の光に透かされて、彼女の身体のラインをくっきりと浮かび上がらせる。白く大きな月がよもぎ先輩のシルエットをふわりと漂わせた。
窓際の小さなテーブルによりかかるようにして窓の外を眺めるよもぎ先輩。窓の側には僕とよもぎ先輩の制服がきちんとかけてあった。そうか。よもぎ先輩も学校に来ていた時にこの異世界に無理矢理召喚されたのか。
部屋をくるりと見回す。さっきよりも小さな部屋だった。と言っても、僕の部屋なんかよりも大きく、寝室どころかうちのリビングぐらいの大きさがある。特に目立つものはなく、窓際のテーブルと大きな天蓋付きのベッドが一つ置いてあるだけだった。
僕はコントラバスとギターを壁に寄り掛け、ベッドにぽんと飛び乗ってみた。少し固めだったけど、こんな映画でしか見たことがないような天蓋付きなんて、すごく豪華で寝心地良さそうに思えてしまう。
さて、この部屋の大きさを想像した時から一つの問題にぶち当たっている。さっきからそれを言おう言おうとタイミングを計っていたが、黙ったまま窓際で二つの月を見つめているよもぎ先輩の細い背中に言えないでいた。だからと言ってこのまま沈黙を守ったままでも居心地が悪い。えーい、聞いちゃえ。
「ねえ、よもぎ先輩。僕はどこで寝ればいいの?」
ベッドは一つ。ダブルベッドと言うよりも正方形に近いベッドだ。二人どころか三人でも問題なく横になれそうだ。
よもぎ先輩は白い月を背にして、ゆっくりと僕に向き直った。少し俯いて、いつもの意地悪い笑顔でもなく、演奏している時の楽しそうな顔でも、真剣な顔でもなく、見たこともない不安げな表情をしていた。形のいい眉毛を寄せて、口を少し開き、上目遣いに僕を見つめる。
「……私みたいなのと一緒じゃ、イヤだよね」