第三章 アンゲリカのフルコースはいかが? 1
第三章 アンゲリカのフルコースはいかが?
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食欲、性欲、睡眠欲。何かの授業で聞いた人間の三大欲求とか言う奴だ。
睡眠欲とは常日頃から戦っている。こいつはいつだって臨戦態勢で、こっちがちょっと隙を見せると一個師団率いて総攻撃を仕掛けてくる。しかもその攻撃たるや冷酷無比で、捕虜に取ろうって考えはなく獣のように蹂躙し尽くしてくれる。たまったものじゃない。
性欲もなかなか手強い相手だ。まあ、いくら僕が若く健康な青年男子とは言え、女子が圧倒的多数を占める男女共学高に通っていれば、それなりに理想と現実の違いを見せつけられ、もはや妄想の世界にしか救いはないのかって気持ちにさせられることもある。自然と性欲との折り目正しい付き合い方ってのも心得てくる。
一番制御しやすいのは食欲だ。食欲との戦闘において必要不可欠な物資や軍資金が僕の自由にならないってのも理由にあるが、何よりもグロいものを脳に見せつけてやれば食欲は一気に消沈してしまう。問題は、そのグロさ加減か。あまりに強力なものだと食欲だけではなく本体もダメージを受けてしまう。
「こちらはアンゲリカのナマビネリでございます」
と、かわいい声で給仕の子が運んできた大皿は、僕を制圧しかけていた食欲とおまけに少しの性欲と眠っていた睡眠欲をも根こそぎ刈り取っていった。
まだまだ短い僕の人生において、ソレを形容するには経験が足りな過ぎると言うべきか、とにかく想像を絶する一皿から晩餐会は始まってしまった。あえて僕の持つ語彙を総動員して描写するなら、真っ赤なユッケを飲み込んだ白濁した細長いゼリー状の生き物がカラメルソースをぶっかけられて悶えている、ってところか。
「何だよ、アンゲリカ食ってないのか。動いてるうちが美味いんだぞ」
僕のテーブルに来るなりグラン少佐は隣の子のオヤツを羨ましがる子供のように言った。僕が「胸がいっぱいで」と大皿を彼に勧めたら、グラン少佐は遠慮なんてモノはこれっぽっちも見せずに手掴みで口一杯に頬張った。動いてるソレを。
大広間での晩餐会は賑やかなものだった。軽く百人は越えるだろう国の重鎮達が集まり、毛足の長い絨毯に直接腰を下ろし、大きなクッションに思い思いの姿勢でくつろぎ、低いテーブルにこれでもかと並べられた大皿から手掴みで飲み食いしていた。
壁にかけられた篝火のみの薄暗い広間で、テントのように緑がかったシルクを幾重にも張った個室に通され、僕は独りで晩餐会の喧噪に耳を傾けていた。
見れば幾つもシルクのテントがある。お偉いさんの特等席なんだろう。シルク越に見る篝火の揺らめきは幻想的で、広間をオレンジ色に染めてざわめきを彩っていた。
広間にある小さなステージでこの国の楽士達を率いてよもぎ先輩がギターを掻き鳴らして歌っている。よもぎ先輩ってあんな風に穏やかに歌えるんだ。知らなかった。いつものよもぎ先輩とはどこか違う。弦楽部での演奏も楽しそうだけど、今日のよもぎ先輩は安心しきってこたつで丸くなっている猫みたいだ。
戦争代理人としての戦闘終了後、湯浴みで汗と砂埃を洗い流す時間を貰えた。さすがによもぎ先輩と一緒ではなかったが、十分に広い風呂を独り占めできた。そのまま休む間もなく連れまわされ、何人かの兄王国のお偉方と挨拶し、ようやくひと心地つけたのが晩餐会のテーブルについた時だった。
究極にお腹が減った状態で、僕の夢だろうがよもぎ先輩の夢の中だろうが関係ないっと暴食スイッチが入ったところで、最初の出会いがアンゲリカのナマビネリだったのだ。ナマビネリってことは、アンゲリカって奴を生で捻ってるんだろうな、たぶん。
「イブキ、おまえはもう少し肉を食え、肉を。草食動物かおまえは」
グラン少佐は近所に住んでいる少し年の離れた兄貴分な友達って感じだ。気兼ねなく話すことができるどこかやんちゃな雰囲気をまとっている。
そんな兄貴分に思い切り肉を差し出されたって、ゼラチン状の蠢く生肉を食うくらいならもしゃもしゃと草を食んでいたいよ。僕は野菜っぽいのが入ったシチューと果物を甘じょっぱく煮詰めたものを塩気のあるパンに挟んだもので飢えを凌いでいた。
それでもグラン少佐は僕のテーブルに肉料理を目一杯運ばせた。普通に串焼きにした肉っぽいのもある。たぶん鳥系なんじゃないかなってリアルな脚の形をした蒸焼きっぽいのもある。でも、アンゲリカって奴かもしれないと思うとどうにも手が出ない。スパイスの効いたいい匂いはするんだけどな。
「ヨモギもそうだが、おまえらの世界じゃ肉って食わないのか?」
グラン少佐が肉汁のしたたる焼肉を手掴みで口に運んだ。大皿から取り分けるためのフォークやナイフはあるのだが、基本的にこの世界の住人は手掴みっぽい。
「食べるには食べるけど、めでたい席なんかじゃ魚のナマビネリの方が多いかな」
適当に答えてみた。そもそもナマビネリってなんだよ。
「おお、そうか。じゃあ用意させよう」
待て待て。
シルクのテントから首を出して危うくナマビネリ料理を注文しかかったグラン少佐の服を引っ掴む。
「いやいや、それよりちょっと聞きたいことがあるんだ」
何とか話の軸をずらそうとグラン少佐を座らせる。
「闘技場で遠くにちらっとだけ兄王様っぽい人を見たんだけど、さっき国のお偉方に挨拶回りした時は王様には会えなかったんだ。やっぱり、なんか、まずいのかな?僕みたいな異世界人が王様に会うのは」
四本の指を舐め舐めグラン少佐は僕を見つめた。ひょっとして指が四本しかない世界だからあんまり器用じゃなくて手掴みで食べる習慣なのか?楽士達の楽器もシンプルに弦を張ったものばかりだし。
「そうだなー」
長くふさふさした耳をくるくると動かしてグラン少佐はシルクのベールの外を見廻した。個室と言ったってシルクで覆っただけのテントだ。中も透けて見えるし声だってだだ漏れだ。でも暗黙の了解か、誰も個室の中には注意を払っていないように思える。
「兄王様は病に伏せっておられるんだ。すぐどうこうなるって重い病ではないようだが、ずいぶん長く患っている」
グラン少佐は声のトーンを落として人懐っこい笑顔を曇らせた。
「この国のことは、誰かに聞いたか?」
僕は首を振る。よもぎ先輩にちらっと聞いただけで、何も知らない。アンゲリカって奴がどんな生き物なのかすら知らない。
「先代の王が崩御されて今年で35年になる。俺が生まれる前の話だ」
グラン少佐はグラスに深い赤色したとろりと粘性のある液体を満たした。そしてそのボトルを僕の方へ向ける。お酒、かな? シナモンっぽい香りがしているけど、あれがアンゲリカの体液とかって可能性もなくはない。僕は再び首を振ってシチュー皿を自分の方に引き寄せた。
「後継者争いが国を割ってしまってな。もともと兄弟王子達も仲が良くなかったらしいし、何しろ若く野心的だった。国のお偉方も兄王子派と弟王子派とが真っ二つに割れて、国の東西に勝手に自分の城を作っちまった」
グラン少佐は大皿のステーキっぽい肉の塊にフォークを突き刺し、ナイフで大雑把に二つに切り分けた。一つを自分の皿に、もう一つの塊を僕の取り皿に持って来る。こんがりとよく焼けているけど、そもそも何肉だよ、これ。
「困ったのは俺ら国民さ。ある日突然国の真ん中に壁が作られて、東西お互いの通行を禁止するなんて言われたんだ」
男らしく手掴みでかぶりつくグラン少佐。
「でも、闘技場ではどっち側もけっこう盛り上がってて、そんな雰囲気はなかったけど」
肉の塊をフォークで突いてみる。うん、動かないな。この焼肉は死んでいる。
「そりゃあ35年も経てば緊張も緩むさ。もともと俺達国民には東西に分かれる理由なんてないんだ。10年くらい前から自由に行き来してる」
「じゃあ、異世界人を召喚して戦わせるのって、何のためにやってるのさ」
フォークに肉を刺す。抵抗なくするする入っていく。見た目はおいしそう、だが。さて。
「祭みたいなもんさ、今では。もともと同じ国民、同じ兵士だ。いくら国が割れたからってまさか戦争する訳にもいかないだろ。家族で東西に分断された人達だっているんだ。そこで戦争代理人って仕組みができたんだ」
美味そうの赤い液体で満たされたグラスを煽るグラン少佐。きついお酒なのか、ため息をつくように息を吐き捨てて首をふるふるさせる。
「東西で戦闘状態だった時は、それこそまさに代理戦争だった。港を含む領地を兄王が獲得すれば、弟王は丘陵地帯のブドウの生産地を支配する。その決定権を賭けて、お互い異世界人を召喚して戦わせる。この国は小さい国だったが、昔から魔術には強い国だったんだ」
「お祭化した今でも領土を奪い合ってるのかな?」
よーく焼けてる部分をフォークで取ってみる。見た目は豚肉の塊っぽい。全体的に筋肉繊維っぽく見えるし、これはあのグロいアンゲリカの肉じゃないだろう。
「食ってみろって。アンゲリカの胃壁は珍味中の珍味だ」
いやいやいや危ない危ない。異世界の珍味中の珍味なんか食べたら僕はどうなってしまうんだ。て言うか、この厚さで胃壁って。アンゲリカってどれだけでかいんだ。
僕は口に運ぶ途中で、ふと思い付いた、と言うふりをしてフォークを戻してグラン少佐との会話を再開させた。
「よもぎ先輩、もう何回か一人で戦ってるの? ずいぶん手馴れた感じだったけど」
「確か、今日ので8戦じゃなかったかな。8連続引き分けだ」
グラン少佐はアンゲリカの胃壁にかぶりついて答えた。肉の塊なのにするすると口の中に入って溶けるようになくなっていく。あんまり噛んでるようには見えない。ものすごく柔らかいお肉なのか?
「8回も戦ってるの? たった一人で?」
アンゲリカのせいでうっかり聞き逃してしまいそうだった。
「ああ。こんなに引き分けが続くのも初めてだが、回を増すごとに観ているこっちが楽しくなってくる。ヨモギも、弟王側のエルミタージュも素晴らしい奏者だな。聞き惚れてしまうよ」
「8回連続引き分けか。あのよもぎ先輩が」
今日の戦いも、よもぎ先輩から引き分けを持ちかけていたはずだ。戦闘内容では僕のハイペリオンの無敵さを考えれば圧勝と言ってもいいと思う。よもぎ先輩だって全然本気の音楽じゃなかったし。
「それよ、それ」
グラン少佐がさらに声を潜めた。残っていたアンゲリカの胃壁を手に取ってぐいと近付いてくる。匂いは悪くないんだよな、この胃壁料理。
「生で食ったら逆にこっちの胃が溶かされちまうこの胃壁のように食えない奴だな、ヨモギは」
いやいやいや無理無理無理。こっちの胃が消化されるような危険な物体を食べるなよ。って、またアンゲリカのせいで大事なところをスルーしかかった。よもぎ先輩がどうしたって?
「それってどういう意味?」
「ああ。アンゲリカってのは動いてる物なら何でも食って消化しちまう獰猛な奴なんだ」
「いやいやそっちじゃなくて、よもぎ先輩がって」
グラン少佐はその獰猛な奴の胃壁に噛みついてニヤリと笑った。
「わかってるって。ヨモギ、わざと引き分けにしてるだろ?」
うん。僕もそう思う。よもぎ先輩は全然本気で戦っていない。むしろ楽曲を創作することを楽しんでいる。しかしそれをグラン少佐に知られていいものかどうか。
迂闊にも僕はその迷いを表情に出してしまったようだ。すかさずグラン少佐は言う。
「やっぱりな」
「アンゲリカってどんな生き物なんですか?」
「無理矢理話題を反らす必要ないって。安心しろ。俺はおまえらの味方だ」
「いやいや、わりと本気でアンゲリカってのが気になるんだけど」
「大丈夫だって。観衆だってもっとおまえらの演奏を聴きたいって思ってるはずだ。この戦いに決着がつくなんてもったいない」
全然人の話しを聞いちゃいない。まあ、聞いていないのは僕もおなじだが。
「だがな、イブキ。そう思っていない奴もいるぞ」
「そりゃいるだろうね」
「それにおまえ、今日の戦いで弟王側の奏者に何かアドバイスしてただろ?」
やっぱり気付いていたか。いや、あれだけ堂々としゃべってたら気付かない方がおかしいか。
「うん。つい」
「戦争の相手に助言与えてどうするんだよ」
ケラケラと笑いながらグラン少佐は言った。人をイラっとさせることのない、こっちも笑いたくなるような気持ちいい笑い方だ。
「だって、もったいなかったんだよ。あの二人、てんでバラバラなんだよ。もっと気持ちを重ねればもっといい音楽ができる」
「まあ、おまえらの音楽があれ以上に素晴らしくなるんだったらいくらでもアドバイスしてやれって言いたいとこだが、あのお方はなんて言うかな」
くいとグラン少佐が顎で僕の後ろを指した。振り向くと、シルクのテントの向こうにモウゼン執政代行官が歩み寄ってくるのが見えた。
「うわ、あのおっさん嫌いだ」
「ストレートにモノを言う奴だな。ヨモギと言い、おまえと言い。覚悟しとけ。毎試合引き分けにご立腹だ。おまけにおまえのアドバイスも不愉快だとおっしゃってたぜ」
さて、どうしようかな。ここは大人しく下手に出るか。それともハイペリオンの影をチラつかせてやるか。