後編
読んでいただいてありがとうございます。
朝早く、まだ夜も明けきらぬ暗いうちに、アンジェラは裏門から家をそっと出た。
持っていくものは、僅かな手荷物だけだ。
この家には、何の良い思い出もない。
出て行く時に多少は寂寥感のようなものを覚えるのかと思ったが、そんなことも一切なく、ただ毎日図書館に出掛けていた時と同じようにしか思えなかった。
もう二度と、帰ってくることのない場所。
ふと見ると、二階の窓から兄が一人でこちらを見ていた。
最後の見送りのつもりなのだろうが、昨日少し話をしただけの仲なのに、やはり根は生真面目な人なのだろう。
アンジェラは、そのまま少し離れた場所に停止していた質素な馬車へと乗り込んだ。
「さようなら」
振り返りもせずに、アンジェラはそう言った。
アンジェラが乗った馬車が出発する様子を屋敷の窓から見守ると、誰かに見とがめられる前に自分の部屋へと戻った。
「……元気でな、アンジェラ……」
おそらく、もう二度と会うことのないであろう妹。
昨夜、アンジェラは先に帰ったようで、気が付いた時にはもういなかった。
ぼんやりとベルナルドと下の妹を眺めていると、ポケットの中に小さな箱が入っていたのを思い出した。
それは、友人の一人に頼まれて持ってきたネックレスだった。
小ぶりだが稀少なスターサファイアのネックレスが手に入ったという話をしたら、友人が見せてほしいと言っていたので持ってきたものだ。
……そうだ、今日は、アンジェラの誕生日だ。
突然、そのことを思い出した。
だからアンジェラは明日、出て行くのだ。
今日が誕生日、明日からは成人。基本的に親の許可がいらない年齢。
踵を返すと、明日、帰国するという大使を急いで探した。
彼がもう帰ろうとして馬車に乗り込む寸前で捕まえて、「明日、貴方が連れて行く女性に誕生日おめでとうと伝えて渡してほしい」とお願いしてその小箱を渡した。
大使は、少し考える素振りを見せたあと、「渡しておこう」と言って受け取ってくれた。
大使の表情は特に変わらず、こちらに事情を尋ねることもしなかった。
彼は全てを知っているのだから、当然と言えば当然だった。
「後始末は全てやる。お前がもしこの国に帰って来た時には、我が家はもうないかもしれんな」
それも仕方がない。父母と妹たちは、己のやったことの全てをたった一人の娘に押しつけた。
これから先、きっとアンジェラがいなくなったことに気が付くまで、今まで通りにアンジェラの名前を使い続けるのだろう。
滑稽だ。この国にいない存在に全て押しつけるなど。
「……あいつらには言っておくか」
何も知らない弟とベルナルド。信じてもらえないかもしれないが、それでも兄の言葉に少しは耳を傾けてくれるだろう。
特にベルナルドは、アンジェラとずっと図書館で会っていたのだ。
彼女がそんな女ではないことぐらい、分かるはずだ。
深いため息を吐くと、そっと窓の外を眺めた。
いつの間にか日が昇って、雲一つない青空が広がっていた。
……旅立つには、良い朝だった。
「……信じられません……」
「何に対してだ?ベルナルド、アンジェラと図書館で会っていたお前なら、分かるよな」
アンジェラの兄が告げた真実に、ベルナルドは呆然となった。自分だって、友人である彼女の兄の言葉に共感したい。だが、ベルナルドは知っている。『アン』が、毎日図書館で勉強していたことを。
「……昼間、屋敷の人間が誰もアンジェラの姿を見たことがなかったのは……」
「そうだ。閉館までずっと図書館にいたからだ。これは、図書館の司書の方にも確認したから間違いない。ベルナルド、お前がアンと会っていたのは図書館だったんだろう?」
「……そうです。アンは毎日、図書館にいました」
「ならば分かるだろう?あの子は、噂のような子ではない」
「はい、それは分かります」
ならばあの噂は何なのだろう。大勢の人間が直に『アンジェラ』に会っているのだ。
着ている服は派手で、宝石をねだり、楽しい事が大好きな享楽的な女性。
ベルナルドが知っている『アン』は、物静かで常に本を読んでいて、草花を眺めるのが好きな女性。
全てが正反対ではないか。
「ベルナルド、俺たちは知らなかったが、アンジェラが誰なのか知る者は多いのだ。だから、俺の妹たちには婚約者がいない」
「……まさかっ!」
妹たち。そしてアンジェラ。本当のアンジェラではない存在。
「そうだ。妹たちはアンジェラの名前を使って好きに遊んでいるそうだよ」
「実の姉妹でしょう?」
「……あぁ、だが、物心が付いた時より、アンジェラはずっと虐げられてきた。誰もが、アンジェラにならば何をしてもかまわないと思っていたんだ。その名前を使うことに、何のためらいもなかっただろうよ」
その言葉にはっとしたのは、友人の方だった。
弟として、心当たりが有り過ぎるのだ。
なぜなら彼もまた、アンジェラをそう扱ってきた人間の一人なのだから。
「姉上……」
兄の言葉を聞いてもまだ信じられない。
だが、兄が嘘を言うとも思えない。
わずか数日で、兄がアンジェラ擁護に回った理由は、他者から『アンジェラ』について聞かされ、本人と話をしたからだ。そして、兄はアンジェラの言い分が正しいと認めている。
「……二人だけではない。父上と母上もまた、アンジェラの名前を好き勝手に使っていた。お前も心当たりがあるだろう?母上が見たことのない豪華なネックレスを持っていて、父上にとがめられた時、母上はアンジェラが勝手に買った物を取り上げたのだと言っていた。父上は、それを聞いてアンジェラを殴っていたが、あれは、母上が買った物だったんだ。父上もそうだ。愛人への贈り物を、いつもアンジェラの名を使って買っているそうだ」
実の両親ながら反吐が出る。
「……嘘だ……」
まだ信じられない弟に哀れみの瞳を向ける。だが、ほんの数日前までは、これが自分の姿だったのだ。
「本当だ。先日の夜会の時のアンジェラの服を見たか?」
「いえ、ちらっとしか」
「そうか。あれは数年前に俺が買ったものだったんだが、すでに流行遅れのドレスだ。サイズも全く合っていなかった。装飾品も何も身に付けていなかったんだ」
「……え……?」
のろのろと弟が頭を上げた。
同じ馬車に乗っていたというのに、姉の姿をろくに確認もしていなかった。
見れば納得しただろうに。
「ベルナルド、アンジェラは図書館で会うお前が自分の婚約者だと知っていたよ。そして、お前は我が家の犠牲者だと言っていた。あの子は俺たちに哀れみの目は向けても、家族や婚約者としての情など欠片も持ち合わせていなかったんだ」
その言葉にベルナルドは信じられない気持ちになった。
アンジェラとは図書館で穏やかに会話し、彼女も自分に対して心を寄せてくれているのだと信じていた。
だからこそ、誰と結婚しようが、真に愛する存在は彼女なのだと言って囲おうと思っていたのだ。
だが、アンジェラがベルナルドに向けていたのは、哀れみの心だけだった。
「…………嘘だ…………」
先ほど、友人が放った言葉と同じ言葉を呟いた。
『アンジェラ』と結婚させられる己が可哀想だと思っていた。その後も、妻になるのは彼女の妹だと親に決められていて、そこに自分の意志はなかった。だからこそ、せめて、心惹かれた女性を愛人という形でいいから傍においておきたかった。それが許される立場だと思っていた。
「ベルナルド、アンジェラは自分の意志で出て行ったんだ」
アンジェラの意志。
そう言われて気が付いた。
己の立てた計画に、アンジェラの意志は含まれていなかった。
そして、一度たりともアンジェラの意志を確認したことはなかった。
「……ははは、そうか。俺たちは最初から間違えていたのか……」
誰もがアンジェラの意志を放置した。
誰も何も聞かなかった。
アンジェラのことを、物事を考えることが出来る人間だと認識していなかった。
だからこそ、今こうして、アンジェラの意志が示されたことに対して衝撃を受けているのだ。
「アンジェラが出て行ったことは、しばらくは公にはしない。アンジェラが出て行ってからまだ数日しか経っていないからな。一応、貴族の娘だ。国が騒ぎ立てる可能性だってある。もっとも、相手は大国だ。腐った我が国の抗議など鼻で笑われて終了だろうがな」
その言葉で彼がアンジェラの行く先を知っているのだと分かった。
婚約者の自分は知らないのに、なぜ?
そんな思いにも駆られたが、それこそ身勝手な感情だった。
ベルナルドは、アンジェラと正式に会ったこともなければ贈り物一つしたことがない。
それでよく婚約者だと言えたものだ。
「父上や母上が気が付くまでは放っておく。二人とも、もうアンジェラの邪魔だけはするな」
アンジェラの邪魔。
ベルナルドはうなだれるしかなかった。
アンジェラは、船の上で空を眺めていた。
「アンジェラ」
声をかけてきたのは、アンジェラを救ってくれた大使だった。
一般的な父親というものはこういう感じなのだろうかと、アンジェラは勝手に想像していた。
「寒くないか?」
「大丈夫です。風が気持ちいいです」
「そうか……これを預かってきた」
大使が差し出したのは、小さな箱。
「これは?」
「あの夜会で預かったんだ。彼は、誕生日おめでとう、と言っていたよ」
くすり、とアンジェラは笑った。
ならばこれはきっと兄からの贈り物だ。
あの日、兄が真実を知った日。彼は色々とおかしかった。
おそらくこれだって、アンジェラのために用意された品物ではないはずだ。
たまたま持っていた物だろう。
それでも、妹が誕生日だということは思い出したらしい。
開くとそこには、小ぶりだが美しいスターサファイアのネックレスが入っていた。
「ほう。良い物だな」
「そうですね」
アンジェラは、そのネックレスをつけた。
「似合うよ」
「ふふ、ありがとうございます。生まれて初めて誕生日プレゼントという物をいただきましたわ」
「そうか。では、来年からは私がたくさん用意しよう」
「誕生日プレゼントを欲しがる年齢ではありませんが、お気持ちは嬉しく思います」
何も持たずに国を出たアンジェラに思い出の品という物はなかったのだが、ここにきてこのネックレスだけが出来た。
「あの国での最初で最後の思い出が、まさか兄からの贈り物になるとは思いませんでしたわ」
「おや、婚約者からの贈り物ではないと分かっているんだね」
「ベルナルド様とは、そんな仲ではございませんでしたもの」
「図書館で会っていたのだろう?」
「アンとしてですわ。アンジェラとしてお会いしたことはありません」
アンとして会っていた時は、多少は楽しかった。
好意のようなものは感じた。
けれど、アンジェラがあの国に留まる理由にはならなかった。
もし、自分がアンジェラだと知ったのならば、ベルナルドはどうしていたのだろうか?
もしかしたら、助けてくれたのかもしれない。
だが、存在そのものを否定されて生きてきたアンジェラには、それを確かめる勇気はなかった。
助けてもらえると思ったら、もっと酷い目に合って心が折れる。
今までのアンジェラの人生は、それの繰り返しだった。
いつの頃からか、アンジェラは心を閉ざしていた。
そんなアンジェラに、大使は辛抱強く接してくれた。
逃げてもいいのだと、教えてくれた。
「……今の私が信頼出来るのは、あなただけですわ」
「おや、嬉しいことを言ってくれる。ならば私は、君の幸せを見届けなければね。よければうちの息子なんてどうだい?父親の私が言うのも何だが、けっこう良い男だよ」
「ふふ。しばらく婚約者は要りませんわ」
「そうか、気が変わったらいつでも言ってくれ。息子じゃなくても、君の好みの男性を紹介するよ」
「えぇ、その気になったらお願いします」
これから先、アンジェラは全てを自分で決めて生きていかなくてはいけない。
時には辛い決断をしなくてはいけないのかもしれないが、それでもあの家にいるよりはずっとましだ。
静かに微笑むアンジェラの周りに吹く風は、とても穏やかだった。