中編
兄の問いかけに答えたアンジェラは、彼のことをおかしな人だと内心で思った。
『アンジェラ』がアンジェラでないことは、知っている人は知っている事実だ。
アンジェラ自身は滅多に表に出てこず、年に一回出るかどうかの夜会でも家族と共にいることもなければしゃべることもないので、その他大勢の中に紛れ込んでしまっている。
学校に通っていた時も成績は良くも悪くもない地味で目立たない存在だったので、誰かの記憶に残っていることもないだろう。
今回がほんの少しだけおかしいのだ。あの兄がアンジェラが馬車から降りるまで待っているとは思わなかった。
「……おかしな人……」
最初に手を離したのはあちらの方だ。なのになぜ今になって、アンジェラの存在を気にし始めたのだろう。
今まで一度たりとも目が合わなかったのに、今日は兄の目が時折こちらを向くので、ふとした瞬間に目が合ってしまう。
アンジェラは兄の視線が離れた瞬間に、部屋の片隅に出来た人の輪の後ろにそっと隠れた。
アンジェラがほんの少し目を離した隙に消えた。
あせって探そうとした瞬間に友人が話しかけてきたので、仕方なく相手をした。
「よう。お前、今日は珍しく女性をエスコートしていたな。親戚か何かか?」
「え?親戚……?いや、あれはアンジェラだ」
「アンジェラ?あぁ、あの娘もそういう名前なのか」
……その言葉で、自分が考えていたことが事実なのだと思い知らされた気がした。
アンジェラを見ても、この友人は『アンジェラ』だと思っていない。
ネックレスをねだられたことがあるはずなのに。
「……俺には妹が三人いるんだ。アンジェラは真ん中の妹だ」
「あぁ、らしいな。ベルナルドと婚約したんだってな。見たことないけど、似てるのか?」
見たことないも何も、今日はそのベルナルドの家での夜会だ。本来ならベルナルドの隣にアンジェラがいなくてはいけないのに、一緒にいるのは下の妹だ。
「妹たちは似ているよ……」
「へぇー、そうなのか。まぁ、ベルナルドも良かったよな。婚約者がその真ん中の妹で。名前だけは知られてるけど」
まるで自分が婚約者のように振る舞う下の妹と、当たり前のようにその妹をエスコートしているベルナルドを見ながら、友人が皮肉気味にそう言った。
一家そろって、まるで道化師のようじゃないか。
「なぁ、お前の知る『アンジェラ』の瞳の色って……」
「瞳?そんなのお前と一緒だろ。二人とも、よく似ているしな」
二人とも。それだけで『アンジェラ』が誰だか理解した。やはり妹たちは『アンジェラ』の名で遊び歩いているのだ。
「……『アンジェラ』は二人、いるんだな?」
「あれ?知らなかったのか?てっきり知ってるもんだと思っていたよ。俺が知ってるのは妹の方だけど、姉の方もその名前を名乗っているらしいぜ。遊んでる時はアンジェラって呼ぶようにって言われてるからなぁ。間違って本当の名前で呼んだ日には、罰だとか言われて高いもん買わされるんだ。だから、俺たちだって気を付けてるんだぜ。まぁ、お前の妹たちはそれなりに用心深くやってるからな。あんまり遊んでいないベルナルドなんかは知らないだろうが。でもすごいよなぁ、実の姉妹の名前を平気で使ってるんだもんな」
笑う友人を見て、怒鳴りつけたくなった。
なぜ、もっと前に教えてくれなかったのだと。
……いや、違う。俺が知ろうとしなかったのだ。
『アンジェラ』の名前だけで、真ん中の妹だと決めつけた。
家族の中で一番虐げてもかまわない存在に、全てを押しつけた。
だから、気が付かなかった。
友人たちの言う『アンジェラ』は、あの妹だと最初から決めつけていたから。アンジェラが家族への当てつけにやっているのだと思っていたから。
……たった一晩で、今まで見てきた全てが壊れた。
そう思った時、そっと腕を引かれた。
そこには、アンジェラが立っていた。
無言で腕を引かれて、そのまま友人の前から人気のない場所まで連れ出された。
何をするんだ!、と今までの自分なら間違いなく怒っていた。だが、今の自分には何も言えない。
「……貴方が何を聞かれたのか、予想は出来ます」
静かなその声は、いつもと変わらない口調。
「アンジェラ、俺は……」
「……このまま何も聞かなかったことにしていただけませんか?」
「……え……?」
呆然としたままのろのろと頭を上げると、アンジェラが自嘲気味に小さく笑った。
「今更なんです。もし貴方が騒ぎ立てたら、それだけで私にはいい迷惑でしかありません。お兄様、お姉様にどうして婚約者がいないと思っているんですか?」
「どうしてって……」
そうだ。去年、上の妹の婚約の話が持ち上がった時、『アンジェラ』は無理だ、と言って断られた。そのことで父がアンジェラを咎めて頬を叩いていたはずだ。
だが、そこに違う意味があるのだとしたら?
相手は知っていたのだ。誰が『アンジェラ』なのか。
「妹もです。あの子が今、ベルナルド様に纏わり付いているのは、あの子の行き先がそこしかないからです。知っている人は知っているんですよ。『アンジェラ』が誰なのか」
「……俺は知らなかった」
「そうですね。アンジェラという名前だけで判断されていたようでしたから。あの人たち、自分たちを守るための悪知恵には長けているのですよ」
「なぜ言ってくれなかったんだ」
「言ってどうなります?幼い頃から私はすでにそういう対象でした。虐げても殴っても何をしてもいい存在。アンジェラという名前と存在は、一種の免罪符ですから」
「……そんな……あいつらは……」
「……お父様とお母様もですよ。たとえば、お母様がお父様に内緒で宝石を買うときなどは、私の名を使います。お父様にバレた時に、アンジェラが勝手に買ったと言えば殴られるのは私です。お父様は愛人の家に出掛ける口実に私の名を使います。お母様にはアンジェラの件で出掛けてくる、というだけです。あぁ、愛人への贈り物も私の名で買っていますね」
家族はすでに破綻しているのだ。上っ面だけが整っていたことを、知らぬは自分ばかりなのだ。
こんな時でも、アンジェラの言葉は静かだ。
そこに恨みなどはなく、ただ事実をありのままに伝えているだけだ。
「アンジェラ……」
「お兄様、その名前はあまり言わない方がいいですよ。その名前はあの家に必要な名前ですが、その名前を使う人は、内容を追及されたくないのです。ですから、そういう時以外にその名を出すと警戒されますよ?特に貴方は、今までその名を使って何かをしたことがない方ですから」
後ろめたい人間だけが使う名前。それが『アンジェラ』。
妹は、己の名前であるはずなのに、呼ぶなという。
その名前は出すな、と。
ならば、自分は彼女に何と呼びかければいいのだろうか。
「呼ばなければいいのです、今まで同様に」
言われて、はっとした。
そうだ。今まで彼女のことを名前で呼ぶことなど滅多になかった。
「おい」「お前」、そんな呼びかけばかりしていた。
名前を呼ぶのが、汚らわしく感じたのだ。
今日一日で、今まで呼んだ回数以上に、アンジェラの名前を呼んだ気がする。
「……すまない……」
それは何に対する謝罪だったのだろう。
今までの扱いについてだったのか。それとも、噂を鵜呑みにして真実を知ろうともしなかったことに対するものなのか。
自分でも分からなかった。
だが、今、この時に謝らなければ、そんな機会は二度と訪れないのだと思ったのだ。
「……知りませんでした。案外、お兄様は生真面目な方だったのですね」
「……俺も知らなかった。お前はこんなにしっかりした妹だったんだな。それに、俺を兄と呼んでくれるんだな」
「…………私にとって、貴方はその名を持つ存在ではありますから」
「そうか……」
だが、それだけなのだ。その呼び方に他意はない。身内に対する呼びかけでも何でもなく、血が繋がっていなければ「貴方様」と呼んだのだろうが、ただ血の繋がりがあるというだけでそう呼んでいるだけにすぎないのだ。
アンジェラの口調からそれを察し、自分勝手にそのことに絶望も覚えた。
「アンジェラ、ベルナルドとは会っているのか?」
ベルナルドが家に来た時は、いつも下の妹が相手をしていると聞いている。
父も、アンジェラがいなくなったら二人を結婚させると言っていた。
「……思えば、あの方もお可哀想な方ですわね。我が家の犠牲になられたようなものです」
「そうかもしれない。だが、ベルナルドが真実を知れば……」
「知ったとしてもどうなると思いますか?貴方と一緒です。知ってもどうにもなりません」
アンジェラの真実を知った今でも、自分は動けない。もはやこの国では『アンジェラ』の名前は、取り返しがつかないところまで浸透しているのだ。
そう思って気が付いた。
この国では、アンジェラは生きている必要もないのだ。
その名前さえ、あればいい。
「……アンジェラ、まさか……」
ならば、どうする?もし自分がそうなったら、どうするか?
何にも囚われずに生きるには、他国に行くのが一番、簡単なことだ。
「……そこに友人はいるのか?」
「……ご心配なく。その方に連れて行ってもらえることになっています」
肩をすくめて言ったアンジェラに、もう無駄なのだと悟った。
アンジェラはもうそこまで準備している。おそらく後は出て行くだけの状態なのだろう。
だからアンジェラは、何も聞かなかったことにしろと言ったのだ。
今更、何を騒いだところで、アンジェラはもうここからいなくなる。
アンジェラが出て行った後、家族が何日目で気付くのか見物だな、と皮肉にも思った。
自分だって、ここでこうして話さなければ、きっと何日経っても気付かなかった。
「俺は、何も聞かなかった。そうだな」
「はい。そうです」
最後くらい、せめて彼女の邪魔をせずにいよう。自分が出来るのは、それくらいだ。
「もう二度と、こうして話すことはないだろうな」
「そうですね。お兄様とは一生分のおしゃべりをしたと思います」
一生分。
このたった短い時間の会話をそう言ってしまえるほど、自分たちは向き合ってこなかった。
違う。一方的に、アンジェラを嫌った。
こうして話をしてみると、彼女は他の妹たちよりもしっかりした女性だった。
理知的でもある。
「さっきの質問に答えていないぞ。ベルナルドとは会っているのか?」
「……いいえ、でもあり、はい、でもありますね。アンジェラとしては、会ったことがありませんので」
「図書館か?」
「はい。アンという名前を名乗りました」
「そうか。アン、か」
仲がよければ、きっと自分も妹のことをそう呼んだのだろう。だが、呼ぶ機会はすでに失われている。
「……言わないのか?」
「お兄様、ベルナルド様にとって、アンはもの珍しい存在だったのだと思います。他の令嬢とは違う。だからこそおしゃべりするのも楽しかったのでしょう。私も楽しかったですよ?もし家族仲が良くて、婚約者との仲も良かったのなら、こうしていられたのかと思うと……ですが、それは夢でしかありません」
「夢か。そうだな。その夢の中では、俺もお前のことをアンと呼んでいたのだろうな」
「ふふ、そうかも知れませんね」
だが、夢はしょせん夢。もう起きる時間だ。
「分かった。いつ出るのだ?」
「明日です」
明日。そう言えば、先ほど挨拶をした他国の貴族が、明日には国元に帰ると言っていた。
「そうか。息災で」
「お兄様も」
それが兄妹の最後の会話となった。