前編
読んでいただいてありがとうございます。「犠牲になった婚約者」よりは、苦さが薄めになると思います、たぶん……
思い出すのは、いつも真剣に本を読み勉強をしている姿。
あの頃は知らなかった、君がなぜあんなに一生懸命に勉強をしていたのかを。
……知ろうとも思わなかった。
静かな図書館の中に微かに俺の靴音が響くと、顔を上げて小さく会釈してくれた君。
もう二度とこの手の届かない場所にいってしまった人。
「姉上……」
彼女の弟の後悔しているような声が聞こえる。
だが、彼女はもう帰ってこない。
どこで間違えたのだろう。
アンジェラは、ベルナルドの婚約者だった。
初めて見かけたのは、たまたま用があって行った王立の図書館だった。
あまり人が通らないような場所に置かれた机で、真剣な表情で本を読んで勉強をしていた。
本をめくる音とペンが走る音が響くその場所で、アンジェラは閉館時間ぎりぎりまでずっと勉強をしていた。
気になって翌日も行くと、同じ場所に彼女は座っていた。
近くを通りかかった司書にこっそりと聞いたら、アンジェラは毎日ここで本を読み、勉強を続けているのだという。
図書館の閉館時間は夜の八時頃。
毎日、アンジェラはその時間まで図書館にいたのだ。
その時のベルナルドは、彼女が誰だか知らなかった。
ただ、何度か見ているうちに、彼女から目が離せなくなり恋心を抱いた。
色あせた古い型のドレスを着ていたが、立ち居振る舞いから貴族の教育を受けているのは分かったので、彼女の素性を探ろうと考えていた頃、ベルナルドに婚約の話が持ち上がった。
相手は友人の姉。
今、王都でもっとも身持ちが悪いと噂されている女性だった。
もちろんベルナルドは抗議したが、共同事業のために必要な婚約だと言われ、結婚したとしても放置してかまわないと言われた。
どうせ、あの女のことだから、すぐに家を出て行くさ。
父は侮蔑をこめてそう言った。
相手の父親も、共同事業のためと言いながら、実際のところは厄介払いの意味が込められていた。
悪い意味で有名になった娘を家から追い払い、婚家の規律に耐えられなくなった娘が逃げ出そうが何しようが、一切関知はしない。野垂れ死んでもかまわない。
そちらで引き受けてもらえれば、事業に有利な条件で事を進める。
つまり、そういう理由でベルナルドの家からも追い出せということだった。
単純に、自分の手で始末したくないがための言葉だ。
父親として結婚までさせてやったのに、やはりダメな娘だった。
そう言いたいだけの婚約だった。
なら自分は?そんな女を押しつけられた俺は?
そう父に言うと、強欲な父は、事業の拡大とあの女関係の同情が買えるのならばかまわない、と言い切った。
お前の感情など二の次だ。それにその後には、若く可愛い娘が嫁に来るのだ。何の問題がある。
父親同士の話し合いで無事にアンジェラが出て行った後に、愛嬌があって可愛らしいと評判の妹を改めて嫁がせる、そんな約束をしていた。
友人だった彼女の弟は、わざわざ家まできて、すまない、そう謝ってくれた。
その上で、アンジェラの噂を事細かく教えてくれた。
毎晩、誰かと遊び歩いているようだ。
昼間からどこかに行ってしまい、いかがわしい場所に出入りしているようだ。
なぜなら、昼間、まともな場所で彼女を見かけたことのある人間がいない。
彼女が姿を見せるのは、朝と夜遅い時間だけだ。
何て女だ。
素直にそう思った。
家族の集いにも出ず、どこで何をしているのか分からない娘。
そんな女が一時でも自分の妻になるのかと、憤った。
彼女の姉と妹も、ベルナルドに会った時に謝ってくれた。
特に妹は、アンジェラがいなくなった後にベルナルドと結婚することになっていたので、可愛らしく距離を詰めてきた。
姉と妹はこんなに素晴らしい女性なのに、なぜ婚約者だけはそんな女なのか。
会ったこともない婚約者に怒りしか湧いてこなかった。
顔合わせの日に、しぶしぶ彼女の家に行ったのだが、出てきて相手をしてくれたのは、妹の方だった。
お姉様は体調が悪いのですって、そう言われて、正直、顔を合わせずに済むと思ってほっとした。
そのまま体調不良でどこかに行ってしまえばいいのに。そんな風にも思った。
何度か会いに行っても妹ばかり出てきたので、彼女も会いたくないのだと理解した。
妹の相手をしつつ暇を見つけては図書館に通った。
毎日同じ場所にいる彼女を見つけるのは容易く、遠くから眺める日々だった。
そんなある日、高い場所にある本を取ろうとしている彼女と出くわし、ベルナルドはその本を取って渡した。
驚いたような顔をした後、うつむいて小さく、ありがとうございます、と言って逃げて行った。
たったそれだけであんなに顔を真っ赤にするほど、初心な女性なのだと感動すら覚えた。
それからあえて彼女の前に姿を現し、挨拶をするようにした。
彼女は、「アン」と名乗った。
しばらくすれば、アンとは読んでいる本について会話をするくらいの仲にはなれた。
小さく澄んだ声、顔を隠すように長い前髪をしているのは、瞳の色が家族と違うことを疎まれていて、隠すように言われているからだと言っていた。
少しずつ、アンのことを聞いた。
家族とは上手くいっておらず、いつもこの図書館に逃げ込んでいるのだと。
その話を聞いて、ならば自分がアンを囲ってもいいのではないかと考えた。
どうせ会ったこともない婚約者は、結婚したとしてもすぐに出ていくのだ。
妻に出て行かれたのだと大げさに嘆いてみせれば、心優しい彼女のことだ、きっと慰めてくれる。
卑怯な心は、そんな計画を立てていた。
アンジェラは、食事は全て自分の部屋で食べ、必要最低限の接触以外は部屋に籠もるか、図書館で過ごしていた。
瞳の色が両親とは違う、たったそれだけのことで幼い頃から両親は何となく彼女を避けた。それが他の家族にも当たり前のことになり、使用人さえもそれに従った。
悪いことは、全てアンジェラのせい。
この家では、それが絶対的な正義だった。
「アンジェラ」という名前は、一種の免罪符だった。
その名前を使って誰が何をしていようが、もうすぐこの国を出て行くアンジェラには関係のないことだった。
アンジェラの友人が他国の貴族で、もうすぐ帰国の途につく。その時に一緒に連れて行ってもらえることになっているのだ。
友人といっても、大使の任に就くその人は父親のような年齢の男性だった。
アンジェラの境遇を知り、自らの祖国に彼女のことを掛け合ってくれた。
アンジェラが明日には成人年齢に達することも有利に働いた。
明日のことを考えてアンジェラは憂鬱になった。
明日は、婚約者の家で夜会が開かれることになっている。
会ったこともない、否、正確にはアンジェラとして会ったことがない婚約者だが、家族でいかなければならない。そうなると必然的に彼と会うことになるので、妹は何とかアンジェラを行かせないように父母に訴えていたが、さすがにそれは父母の体面に傷が付くらしく、アンジェラも絶対に行くように言われていた。
行ったところで、どうしろというのだろう。
婚約者が家に来た時だって、アンジェラにそのことを教えてくれる者はいなかった。
だから、アンジェラは彼がいつ来ているのかも知らないし、何かを持ってきてくれたことがあるのかも知らない。
いつも会うのは、日課の図書館でだけだった。
名前を聞かれて「アン」と名乗った。
友人だけが呼んでくれるこの愛称を婚約者にも呼んで貰いたい、そんなたわいもない思いからだった。
どうせ、別れるのだ。ほんの一時、夢を見たところでかまわないだろう。
すでに、未来は決まっている。
来月には、アンジェラの傍に彼はいない。
細すぎていつ切れてもおかしくないくらいの細い糸でしか繋がっていない。
けれど、会話はそれなりに楽しかった。
数少ないこの国での楽しい思い出として記憶しておこうと思えるくらいには。
翌日、部屋の中に運び込まれたのは、おそらく姉のお古のドレスだった。とはいえ、さすがに他家に行くのにあまりみっともない姿はさせられないとでも思ったのか、型は古いが綺麗なドレスだった。
アクセサリーの類いなどはない。
侍女も、適当に髪の毛だけ整えるとすぐに出て行った。
一人で仕度をするのは慣れている。
さっさとドレスを着ると、憂鬱で仕方なかったが、馬車へと乗り込んだ。
馬車は一台目に父母と姉、妹が乗り込み、二台目に兄と弟、そしてアンジェラが乗り込んだ。
「今日くらいは大人しくしててくれよ!」
同じ馬車に乗った兄が、アンジェラに目もくれずに窓の外を眺めながらそう言い放つと、弟がうんうんとうなずき返した。
「……大人しく?私はいつも何もしていませんが?」
今まで反論などしたことのないアンジェラが小さく呟いたその言葉に、兄がはぁ?という顔をしてアンジェラの方を見た。
そしてさらなる文句を言おうとアンジェラを見て驚いた。
男をたぶらかす悪女。
妹は、そう噂されている存在だったはずだ。
事実、彼は友人たちから何度もその噂を聞いた。
だが、久しぶりにしっかりと顔を合わせた妹は、そうは見えなかった。
とても男をたぶらかすとは思えないくらいの細い身体。
ドレスもサイズが合っているとは思えなかった。
なにより、彼にはそのドレスに見覚えが有った。
何年か前、上の妹にねだられて彼が購入したものだ。
翌年にはもう流行のドレスではないと言っていた物。
「……お前、そのドレスは……?」
兄がドレスについて聞こうと思った時に、カタンと音がして馬車が止まり、扉が開いた。
「兄上、着きましたよ」
「あ、あぁ」
弟に促されて馬車を降りると、先に降りた弟がさっさと両親に合流する姿を見ながら、馬車を降りようとしていたアンジェラに手を差し伸べた。
その手を見てアンジェラは怪訝そうな顔をした。
今まで一度としてそんなことをしたことのない兄が、手を差し伸べている。
気でも狂ったのかしら?
そう思ってアンジェラは兄の手を無視した。
「共に行かれなくていいのですか?」
「いや、お前……」
アンジェラは、アクセサリーを何一つ身に着けていなかった。
何度、友人に聞かされた?
『アンジェラ』にアクセサリーをねだられて、ついつい買ってやったことがあるという話を。
アンジェラが好むのは豪華な品物。
ネックレスもイヤリングも大きめの宝石を好み、それが似合う姿をしている。
お前の妹はすごいな、はっはっは。
そんな風にからかわれた。その度に、自分は嫌悪感しか浮かばなかった。
今、目の前にいる妹は、そんな豪華な装飾品が似合う姿をしているだろうか。
サイズの合わない姉のお古のドレスを着たほっそりした女性。
彼女に似合うのは、小ぶりで可憐な装飾品だろう。
むしろ、そういった大ぶりの宝石が似合うのは……
ぱっと前を見ると、流行のドレスを着て、大ぶりな宝石の付いた装飾品を身につけた妹たちがいた。
「…………まさか…………」
姉妹だけあって、アンジェラたちはよく似ている。
噂を思い出しても、いくらお金を使った、何かを買わされた、身持ちの悪い女性だ、そんな話は聞いても、彼女の容姿に関する具体的な話は何一つ聞いたことがない。
「……アンジェラ、答えろ。お前、昼間はどこにいるのだ?」
強引に手を取ると、妹にそう質問をした。
アンジェラは困惑した顔をしていたが、再度同じ質問をした。
「……答える必要が?」
「ある。いいから答えろ」
「……図書館ですわ。私は、毎日、そこにおります」
「閉館時間までか?」
「図書館の本は多岐にわたっているので、飽きることがありませんから」
「……証明出来るか?」
「さぁ?司書以外の方で証明出来る方は一人おりますが、あの方が私の味方になることはないでしょう。そもそも私に有利な証言をしてくださる方などおりませんでしょう」
淡々と言った妹の言葉に、兄はなぜかショックを覚えた。
嫌悪はしていても、心のどこかで妹だという意識はあった。
だが、妹は味方は誰もいない、と言い切った。
妹の中で、すでに家族という存在はいないのだ、そう感じた。