写真立て
2010年7月18日
蝉の鳴き声が妙に空虚に聞こえた。日差しが顔面に直撃するあたり、なんとも自然は性格が悪いなと思う。普段の自分なら、今頃お昼時を前に、時計をちらちら確認している頃だろうか。地縛霊のように自分をこの場に留まらせる者は他でもない娘なのだろうが、その手に力はない。もう少し椅子が固ければすぐに動く気になったかもしれないけれど、目線は地面との内積をゼロに保ったままだろう。
娘は脳死した。自分は脳死と植物状態の違いをさきほど知ったばかりだ。不可逆的に回復不可能となったその体には、もはや心臓の拍動や呼吸といった、いかにも生命力を感じさせる言葉は感じられない。すぐそこに置いてあったのは冷たいコーヒーのはずだ。なのに明らかな冷たさが感じられないのは、娘の手が既に冷たいからだろうか。シャワーのようにノブを捻ればすぐに温度を変えることができれば、少しは気持ちは楽になるだろうかと思ったが、すぐに無駄だと気付いた。
ドナーのいないレシピエントはたくさんいるという。もちろん私の娘本人に臓器提供の意思はないし、無論臓器提供とは無縁の場所にいたのだ。私もそんなことを考えたこともない。過りもしていなかった。
「昨日、改正臓器移植法が施行されました。」
医者の言葉が私の頭にのしかかった。天秤の片方にいたずらに分銅が置かれているような、思考と現実の不均衡が視界に広がっていくのがよくわかった。
「それはどういった……。」
言葉を絞り出すのがやっとだった。医者は無責任な表情をしている訳でもなく、少しばかりの落ち着きを取り戻したように感じた。
「今までは本人の同意なしに移植をすることが不可能でしたが、昨日の改正によって、ご家族の同意があれば可能になりました。」
その言葉は、亡くなったはずの娘に再び生命力を宿らせるような気がして、瞼に熱を感じた。涙はゴミを浄化するというが、この涙にはそういった不純物は含まれていない。娘の笑顔が思い出された。写真立てを玄関に置いてある。娘の臓器が、誰かの家に一つ写真立てを増やすのだ。
「はい、娘の臓器の提供に同意します。」
書類には、今までで一番丁寧に名前を書いた。
お読みいただきありがとうございました。
高校生の小説にすぎませんが、命を見つめる機会に力添えすることができたなら光栄です。