第一章 三話
調停官と黒い牛
それは、こんな怒鳴り声から始まった。
「貴様ッ‼懲りずにまたなにしに来た‼」
数はそんなにいなかったものの、燕を発見した牛が怒声を張り上げると、根城の入口から数頭の牛達が殺気を立てて出てくる。
牛部族の根城前、燕はまさかもう一度この場所まで戻ってくるとは思わず、周りには重苦しい空気と、謂れのない怒声が自分に浴びせられるのが、こうも精神的にくるとは思っていなかった。
しかし、ここに行くと言い出した張本人である東花の姿はなく、根城の前に立っていたのは燕の一羽だけ、燕はなんで自分がここにいるのか、なんでこうも流されやすいのか、後悔と自分自身の弱さに辟易しながらも、
「い、いえ私はべつにあなた達と喧嘩をしに来たのでは・・・・・」
なるべく笑顔を作り、牛達の警戒を解くのに併せ、なんとか事を荒立てないように燕は丁寧な口調で説得するが、
「だったら、なにをしに来たんだ‼」
殺気立った牛達には燕の言葉は届かず、
「そ、それは・・・・・」
自分でもなんでこんなところに立っているのか上手く説明ができない燕・・・・
徐々に自分の逃げ道がなくなっていくことに冷や汗を流しながら、燕は数分前のことを思い出す。
根城のところまで戻った東花と燕。
さっきまで飛んでいた上空から、根城の近くにある茂みへと隠れて辺りの様子を覗っていたのだが、来たのはいいものの、なにをするのか分からない燕は、
「ここまでは何事もなくたどり着けましたが、これからどうするんですか?」
改めて隣で一緒に隠れている東花に尋ねるも、
「とりあえず君から先に行きたまえ」
説明もなく、なにをしていいのか分かっていない燕に、東花は無謀すぎる指示を出す。
それには今まで文句を言いながら、それでも指示に従ってきた燕も、
「なにを言っているんですか‼ここに来たいと言ったのは調停官でしょ?それなのになぜ私だけを行かせようとするんですか‼」
隠れている意味がないほどの声を荒らげながら東花に詰め寄る。
しかし、東花は燕の怒鳴り声を鼻にもかけず、
「私がいきなり出て行ったら問答無用でやられるだけだ。しかし、君みたいな人畜無害な者なら奴らも多少は油断するだろう?」
自分が標的にされていることを自覚しているのに、平然とした表情を見せる東花に、ある意味で尊敬の念を抱く燕だが、
「そ、そうかもしれませんが、その油断だって数秒くらいしか持ちませんし、相手がその時間を与えてくれるかどうかも分かりませんよ‼」
血が上った牛部族に時間稼ぎが通用するのかどうか分からない。
燕が気後れするのも無理はなかったが、そんな燕に東花は笑みを向け、
「安心したまえ、そうなる前に私が出ていく」
安心させるために言ったんだろうが、どうせ後から出てくるのなら、今行けばいいんじゃないかと思った燕は、異議を申し立てようとしたのだが、
「出ていくって・・・・それなら私じゃなくて―――」
「いいから行きなさい!」
東花は横暴な命令をすると同時に、
「きゃっ‼」
燕のお尻をばしっと叩いて茂みの外へと追い出す。
「な、なにをするんですか!」
足をもたつかせながら茂みから出された燕は、まだ後ろの茂みに隠れる東花へ怒りを露にするが、東花は茂みの中から早く行けと指示を出すように燕に向かって手を振るい、上司からの圧力と牛部族からの圧力、両方の圧力に挟まれた燕は、
「はあー・・・・」
とても深くて重い溜息を吐き、重い足取りを牛部族の根城へと進める。
そして現在、諦めてこんなところまでのこのこと出てきたことを燕は後悔しながらも、
「あ、あの、もうちょっと歩み寄りませんか?」
無理だとは思ったが、いまだ殺気を立てる牛達の説得を試みる。
「歩み寄りだと?」
案の定、燕の説得は目の前の牛達を苛立たせるだけだったが、
「そ、そうです。私達はあなた達牛部族と争う気はないんです」
それでも燕は説得を続ける。
「ふんっ!そんなもの信じられるか‼あの調停官は俺達を侮辱したに等しい行為をしたんだぞ」
「そ、それは・・・・・」
なんとか場を収めようとしても、数十分前に東花が牛部族に対して行った行動を思い出すと、自分の説得する言葉なんて無力に近い。
燕は牛達の言い分になにも返すことができず、言葉を詰まらせていたまさにその時、
「それはあなた達牛部族が馬鹿であり、私は一つも間違ったことなど言ってはいないからです」
突然外にいる燕を威嚇していた牛達の背後、根城の中から声が聞こえ、牛達が一斉に振り返ると、
「なっ‼」
いつの間にそこにいたのか、自分達が開けた天井の大きな穴から射し込んだ光が、その根城の中央を映し出すと、そこには堂々と胡座をかく東花の姿、
「ただ、力づくで物事を進めるようなあなた達は愚かで無能な存在に過ぎなく、いざ戦になったとしてもあっという間に無駄死にするような連中だからです」
驚きのあまり、呆然とする牛達に笑みを向け、懲りずに喧嘩を売るような言葉を東花は口にする。
だが、最初は突然現れた東花の姿に驚いていた牛達も、東花の言葉で驚きが怒りへと一気に変換され、
「貴様‼一度ならず二度も俺達を侮辱したな‼」
牛達が声を荒らげたその瞬間、さっきまで人の形をしていた牛達の体が見る見ると形状を変え、まさにこれこそが牛だという体躯へ変化した。
世界政府が行った動物を人間化するという実験は、この村の住人を見れば成功したと言ってもいい。
だが、目の前にいる牛達を見て分かるように、感情が昂ぶった動物の中には本来持つ野生の力が実験の成果を上回り、人の形を維持するのが難しくなって、このように元の姿へと戻ってしまう動物が後を絶たない。
ただ、このように元の姿に戻るのは大抵、自我を抑えることのできない力が弱い者や、頭があまり良くないと言えるような者ばかりで、大体は部族の中で下っ端と呼ばれるような連中ばかりだった。
それを証明するように、牛部族の長である紅牙も怒りを露わにしていたにも関わらず、元の姿に戻らず人間の形を維持し、その周りにいた取り巻きの牛達も力があるのか、紅牙と同じく東花に殺意を見せていたが姿を維持していた。
そして、力がある者の特徴として、人間の形は維持したまま体の一部を元の姿へ変えられるというものがあり、先ほど根城から逃げる際、燕が見せた人間の姿のままで翼を生やしたのもその特徴と言えるだろう。と同時に、燕自身もかなり実力者ということが分かる。
そんな下っ端連中と思える牛達が元の姿に戻り、まるで赤い物へ突っ込む闘牛のように殺気を立てながら東花へ詰め寄ろうとしたが、
「おっと、君達のために忠告するが、私に手を出さないほうがいい」
詰め寄ろうとした動きを止めたのは、手の平を大きく広げ自分の前に突き出した東花の右手。しかし、東花の言葉には牛達を引き止めるような効力はなく、
「はっ!もうその手は効かねえんだよ」
牛の姿なのにモーとは鳴かず、人間の言葉を使う牛達は、東花のその言葉がはったりだと鼻で笑い飛ばし、さらに近寄ろうとする。
すると、突然気が狂ったような声で東花は笑う。
「はーっはっはっは、君達は本当に馬鹿だな。我々が一度ならまだしも、二度目も丸腰で敵地へ乗り込んでくると思っているのかい?」
「ど、どういう意味だよ?」
その笑い声と、余裕を見せる東花の態度は牛達を躊躇わせ、
「言葉通りの意味だよ。君達は調停官というものをまったく理解してないようだ」
そして、牛達が怯んだところを見計らったかのように、自分が余裕でいられる理由を牛達へ教え始める。
「いいかい、調停官というものは多種多様な生物の間でいざこざが起きないよう公正公平な判断をし、種族が違う者同士でも安全と安心のもとに暮らせるようつくりあげられたのが調停官というものであり、その調停官にはありとあらゆる権力が与えられ、異種族同士の揉め事に、外部の力を使うことも許可されているんだよ。無論、人間もその枠に当てはまり、君達牛部族と人間の間にトラブルが起こった場合や、起こりそうになっていると見なされれば、調停官である私の権力によって第三者鎮圧行動を命じることも出来るのだよ」
尽きることのない脅し文句を次々と繰り出し、東花は牛達の反応を見る。
「だ、だから、なんだって言うんだよ‼」
するとその脅し文句は効いたようで、牛達は威勢のいい声を出すものの、完全に東花の言葉に呑まれてしまい、さっきままでの殺気立った威勢の良さが失われていた。
それを見越した東花は、さらに追い打ちをかけるように言葉を続ける。
「つまりは、私に手を出した時点で第三者鎮圧行動が発動するということだよ。言っただろう?私は丸腰ではないと」
「そ、そんなのはったりに決まっている‼」
「だったら私に手を出せばいい」
東花の余裕はな笑みと言葉は効果絶大だったのか、牛達は頭数も、力さえも勝っているはずなのに、明らかに口調が弱々しいものへと変化していき、躊躇って手を出せないでいる牛達をさらに煽るような言葉で戸惑わせ、それが牛達の進行を妨げる。
しかし、喧嘩を売るような言葉から一転、
「私もこういう強引な手は極力避けたい。だから少し話し合いませんか?」
物腰を柔らかくし、唐突に出てきた東花からの提案に牛達は勿論、その後ろで存在自体も忘れ去られていた燕も戸惑うが、牛のある一頭が戸惑いながらも、
「な、なにを話し合うって言うんだよ?」
さっきまで出していた威圧的な態度とは違い、東花の言葉に耳を傾け始め、その意外な展開は燕の戸惑いをより一層膨らますが、燕の気持ちとは裏腹に、東花は牛達の質問に答えるべく、少し考える素振りを見せると、
「そうですね、例えばあなた達の中で妻を娶っている方はどれぐらいいますか?」
またもや予想だにしない言葉を東花は口にし、
「きゅ、急になにを言い出すんですか‼」
後ろに立っていた燕が声を荒げる。
「なにって、ここにいる者達の中で既婚者はいるかと聞いたのだよ」
「内容は分かってますよ!私が聞いているのはなぜそんな話を突然したのかと言うことですよ‼」
「これはとても重要なことだよ。彼らの中に万が一家族がいるとしたら、この戦いに巻き込むのは酷だろう?」
意外にも、まともなことを言う東花に牛達も顔を見合わせ、戦意を完全に削がれたのか、牛達は本来持つ牛の姿から、また人間の姿へと変わっていく。
だが、今まで東花の言動や行動を見てきた燕にとって、そんな牛達の変化よりも、東花から出されたその言葉自体が気になり、絶対になにか裏があると思い込み、言葉の意図を深く読みすぎた結果、
「もしかして、家族を出汁に脅すつもりですか?」
どうしたって悪いようにしか解釈できず、燕は勘ぐるように聞くが、東花はそれを笑い飛ばす。
「はっはっは、君も馬鹿だな」
「なにがですか?」
笑い飛ばされたことと、馬鹿と言われたことで、燕も本来の調子が戻ってきたのか、さっきまで牛達に気圧されていた様子とは打って変わり、語気を強めて聞き返すと、
「彼らにそんな脅しをすれば逆効果なことは目に見えている。私がするのはその逆の提案だよ」
「逆?」
不機嫌ながらもその意図を聞いてくる燕を見ながら、ここでようやく、ここへ来た本当の目的を東花は明かし始める。
「なんでも、この村の牛部族は階級制になっており、雌牛も上位の階級を持つ者にしか与えられず、下級の者達には雌牛どころかそのおこぼれさえも与えられないそうじゃないか」
哀れむような表情で言う東花に相対し、話しを聞いていた燕は顔を赤くし、
「そ、そんな卑猥なことを聞いてどうするんですか!」
赤らめた顔で燕は異議を申し立てるが、そんな燕に東花は鼻で笑い、
「卑猥?なにを言っているんだ。欲望はすべての生物が持つ立派な感情の一つで、その中でも性欲は誰もが持ち、そして欲望の中でも優先順位が高い部類に入るものだよ?これは誰にも止めることは出来ないし誰にも否定することは出来ない。別に隠したり恥ずかしがるものではないんだよ」
「で、ですが、この場でそんな話をしてなにがしたいんですか?」
多少の持論は入っていたが、生物が本来持つ性の知識について語る東花、しかし、間違いではないが、女性である東花が臆面もなく性について語る姿は、燕だけでなく、その場にいる牛達すらも困惑させていたのだが、東花の突拍子のない言動はまだまだ続き、
「私には、彼らの満たされない欲求を満たせられるだけの力を持っているということだよ」
「はあ?」
唐突に東花の口から出てきた淫靡な言葉、その言葉は燕の顔をさらに赤くするが、
「もう一度聞きます。この中で妻を娶っている者はいますか?」
乙女のように恥じらう燕を無視し、東花は再度牛達に同じ質問投げかける。
すると、牛達は困惑した表情を見せ合い、
「どうやら、ここにいるのは下級の牛だけのようですね」
なにも言えない牛達のその様子が答えだと受け取った東花に、
「そ、それがなんだって言うんだ!」
図星を突かれて動揺したのか、牛達は思わず声を荒らげてしまう。
しかし、それこそが東花の狙いであり突破口でもあった。
「さっきも言ったように、私にはあなた達の欲求を満たせられるだけの力を持っている。例えば・・・・あなた達一頭、一頭に雌牛を与える。とか」
例え話を混じえながら、具体的な案を東花が出すと、微かではあるが、牛達の表情が綻んだように見えた。
一枚岩で出来た壁も、階級制を敷くことによって欠陥ができる。
人間社会でも見られる現象を知っているからこそそれを利用し、東花の思惑通り牛達の中には迷いが生じ、東花のなにげない言葉で術中に嵌っていく。
上から崩すのではなく下から崩す。戦略の基本を体現する東花によって、牛達は気持ちを激しく揺さぶられていたが、それに燕が待ったをかける。
「待ってください!」
「なんだい?」
「そんなことをしたらここの生態系が崩れてしまい、調停倫理規則に抵触する恐れがあります」
不用意に生態系を操作することは禁じられており、東花がやろうとしていることはこの街の生態系バランスを崩す行為だった。
「だからなに?」
「なにって・・・・」
しかし、規則すら恐れない東花の態度は、燕に不気味という感情を芽生えさせ、
「それにいくら調停官の力を使ったとしても、そんなに多くの雌牛を連れて来るなんて不可能です」
これ以上好き勝手に言わせないよう、燕は現実的な考えを述べるが、
「ふっふっふ、舐めてもらっては困る。ここにいる者達全員分の雌牛を用意することぐらい私にとっては造作のないことだ」
東花は自分に不可能などないと言わんばかりの言葉を口にし、
「ここで宣言しよう。私はあなた達全員に雌牛一頭をプレゼントします。しかも、この雌鳥よりさらにスタイルが洗練された雌牛を」
あろう事か、燕を引き合いに出しながら東花は言い放ち、
「なっ‼なにを言い出すんですかっ‼」
燕は隠すように自分の体を手で覆うが、燕のスタイルも決して悪いものではなく、その燕の体に牛達の視線は釘付けになった。
そんな牛達に東花は最後の仕上げを施す。
「よーく考えてみなさい。より良い品種を残すためなのだろうけど、上級の牛にしか雌牛が与えられず、彼らみたいな下級の牛には雌牛さえも与えられない。持ちたいと思っている子供も持てない。やっていることは彼らが嫌っている人間そのものじゃないか」
牛達の心理を揺さぶるように、東花は言葉を巧みに使い分け、対象を燕から人間へと変える。
「人間は牛を家畜として扱う際、家畜の価値を高めるためにより良い血統同士を組み合わせる。それがこの村でも行われ、力がない下の者は不満を言うことさえ許されない。しかし、彼らは家畜ではない。生物一つ一つに感情があるように、彼らにも立派な感情があるんだ。それなのにここで彼らが受けている扱いは家畜同然、不憫だと思わないか?」
牛達に直接言っても反発される可能性がある。
そう考えた東花は、同情するような言葉を牛達にではなく、あえて燕に問いかけ、
「そ、それは・・・・・」
問いかけられた燕も、東花の言葉を否定することができなかった。
今まで東花が言ってきたことに対し、自分の感情に嘘をついてまで否定する牛達に、第三者を通すことで牛達に考える隙を与え、同時に、この提案に反発する燕を黙らせるため、東花は二重三重と考えを張り巡らせ、改めて牛達に向き直ると、
「もう一度言います。あなた達には妻を持ち、子供を持つ権利があり、私がその為の手助けをしましょう。ただし、私達の味方に付き、こんな思春期丸出しの反抗期みたいな態度をやめることが条件です」
さっき出した提案をいつの間にか交換条件へと変え、
「早めに決断をしないと、いい雌牛が減っていきますよ?」
思考が定まらず、正常な判断ができないように、東花は牛達の返答を急かし、牛達も戸惑いを見せるが、東花の囁きはがっしりと牛達の心を掴む。
しかし、このまま東花の思惑通りに事が進むと思われたまさにその時だった。東花や燕、ましてや目の前にいる牛達でもない、もう一つの聞き覚えのない声が根城内に響き渡る。
「すごいですね。今度の調停官はやることが大胆だ」
どこに隠れていたのか、薄暗い根城の奥から一つの影が現れ、その影は東花と同様、天井に空いた穴から入る陽の光によって姿を現す。
黒い髪に黒い瞳、背格好は他の牛達と大差はないのに、醸し出す雰囲気は他の牛達とは違い、どこか不気味さを感じさせる男。
「君は?」
「名乗るほどの者じゃありません。私はあなたが言うところの身分が低い牛ですよ」
その黒い牛は落ち着いた様子で東花の問いかけに答えるが、
「身分が低い牛ねぇー・・・・・」
腹の底が見えない黒い牛に、東花はさっきまで出していなかった警戒心を見せると同時に、
「しかし、うちの補佐官は、そうは言ってないように見えるが?」
男の姿を見て唖然とした表情を浮かべる燕を見ながら、東花はもう一度尋ねるように言うと、
「えっ?」
間の抜けた反応をする燕に、
「彼は何者だい?」
東花は黒い牛の正体を尋ねると、燕は少し迷った表情を見せながら、
「彼は・・・・・・・私と同じ、元調停補佐官です」
恐る恐る黒い牛のほうへと目線を向けながら、燕は正体を明かす。
しかし、黒い牛の正体を聞いた東花は一つの疑問が浮かび上がる。
「ほう、元とはいえ、補佐官だった者が低い身分っていうのは疑問が残るねぇ」
腹の底を探るように東花は黒い牛に語りかけるが、
「別に地位が低くても補佐官は勤まりますよ。それに私はこの地位に不満はないし、むしろ動きやすくて自分に合ったものだと思っていますよ」
黒い牛の言葉は本音なのかどうか分からず、それが黒い牛の不気味さをさらに際立たせていた。
本来、調停補佐官というのは言葉の通り、調停官を補佐する役職であり、それなりの知識や能力も必要とされ、大体は部族内で優秀な者が務めるもの。
実際に補佐官である燕も、自分の種族である鳥類族の中では上の位に立っていた。
だが、目の前の黒い牛は自分が補佐官だったことを認め、その上で、下級の地位に収まっていることを明かし、この矛盾した点が、どうしても東花に大きな疑問を抱かせてしまう。
ただ、まだ腹の底見せない黒い牛を見ながら、とりあえずは抱いた疑問を頭の片隅に置き、東花は角度を変え、再び探るように話しを始める。
「なるほどね、確かに君は現状に不満や文句はなさそうだ。しかし、他の者は違うだろう?」
「確かにそうですね。だけど、私達は強制などしていません。彼らがやりたいことをやればいい。人間から解き放たれた存在が我々であり、自由に生きることはなにも悪いことじゃない」
「そんなことが出来るのかな?」
「私が頭領を説得して見せますよ」
下級と言っておきながら、頭領である紅牙を説得できると言う黒い牛だったが、その言葉は嘘をついているように思えなく、
「君は厄介そうだ」
東花はこの黒い牛を、牛部族の前に立ちはだかる最大の壁と見なし、
「お互い様です」
黒い牛も東花の存在と強みを理解したのか、東花を完全な敵として認めた。
すると、認識を改めた東花は、これ以上の話し合いは時間のロスにもなるし、他の牛達が帰ってくる危険性もあると判断したのか、
「今日のところは出直したほうが良さそうだ」
ここは一旦、引き上げようと言う東花に、
「賢明な判断だと思います」
黒い牛も賛同する言葉を口にするが、やはり他の牛とは違い、わざわざ喧嘩をもう一度売りに来たのに引きと止めることもしないその態度は、東花の警戒心をさらに上昇させる。
東花はそんな黒い牛を横目で見つつ、今度は何重にも貼り付けた笑みを他の牛達に向け、
「もし、気が変わったというならいつでも言ってください。それじゃあ」
さっき出した提案について言葉を残すと、早々に根城から立ち去ろうとする。
「えっ、えっ?このまま出て行くんですか?」
しかし、なにも解決がされていないこの状況に燕は戸惑うが、東花はここに留まろうとする燕に、諭すような言葉を投げかける。
「これ以上引き延ばしても時間の無駄だ。それにウダウダやっていたら血気盛んな牛達が帰ってきてしまう」
「そうかもしれませんが・・・・・」
それでも元同僚である黒い牛が気になって、東花からの忠告にも二の足を踏んでしまう燕。すると、
「燕、別に俺個人は同僚だったお前に危害を加えたくない。ここは大人しく調停官の言う通りにしたほうがいい」
東花の意見を尊重するように言う黒い牛は、それが元同僚の燕だったからなのか、さっきまで東花には決して見せなかった優しい表情を浮かべ、燕に引き上げるよう促すと、東花はもう一度その表情を横目で確認しつつ、そのまま外へ出ていった。
だが、東花が出ていっても、燕だけはその場に残り、
「黒孤君、もう補佐官に戻る気はないの?」
自分の足を止めていた気掛かりを、燕は意を決して黒い牛に尋ねると、黒孤と呼ばれた黒い牛は空を見つめ、
「悪いな。もうあそこには俺の求めるものはないんだ」
どこか寂しそうにも見える表情で答えるが、燕は黒孤のその表情に納得ができず、
「で、でも―――」
「早くここから出たほうがいい、もうすぐ頭領が帰ってくる」
なにかを言おうとした燕の声は、すぐに黒孤からの忠告でかき消され、
「・・・・・う、うん」
まだ納得が全然できていない顔をする燕だったが、今さらになって仲間意識を持つ自分勝手さと、黒孤を説得できるような力や資格が無いことに気付き、燕は渋々ながらも根城の外へ出る。
その燕の後ろ姿を見ながらなにか思うことがあったのか、黒孤は燕が見えなくなるまでその後ろ姿を目で追っていると、黒孤の背後から、申し訳なさそうな声が聞こえてくる。
「わりぃ、不覚にもあんな提案に俺達が揺らいじまって」
それはさっきまで東花一人に呑まれていた牛達の弱々しい声、決まりが悪そうな口調で黒弧に謝罪をする面々だったが、
「気にしなくていい。それにあの調停官が言っていることも一理ある」
黒弧は本当に気にしていない様子を見せ、あえて東花の言い分を認めるような言葉を口にする。だが、一瞬でも東花に惑わされた牛達にとって、黒孤の言葉は深く突き刺さり、
「あ、安心しろ。もうあんな安い提案には乗らねぇ」
改めて気を引き締めなおす牛達は、全員で真剣な眼差しを黒孤に向ける。
しかし、黒弧の言葉はすべてが布石、
「無理をしなくてもいい。もし現状が嫌だったら、俺が頭領に掛け合ってなんとかするから」
「なに言ってんだ‼下っ端には下っ端のプライドってもんがある。例え頭領が倒れたとしても俺達はお前に付いていく。それだけだ」
強制的にではなく、自らの意思で強固な壁を作るための布石、それは黒孤が前調停官から学んだことである。
自分の考えを押し付けても相手は付いてこない。
だからこそ、自分達の意思で決めたという事実は、壊れにくい壁を作る。
その結果、目の前の牛達はさっきとは違う。揺るぎない決意がこもった目をし、東花が一番崩しやすいと思っていた下級の牛達の壁は、当初の目論見とは大きく異なり、さらに強固な壁を作ってしまった。
そんな牛達を黒孤は見ながら、
「・・・・・頼もしいねぇ」
本当にそう思っているのかどうか分からない表情で呟く。
そして、恐ろしい学習能力と応用力を持った黒孤は、また敵として現れるであろう東花のことを考え、先を見据えるように前を見た。
牛部族の根城から出た東花と燕は、鬱蒼と草木が生い茂る森の中を歩いていた。
調停官室へ戻るにも、まだ牛部族に占拠されている可能性があったため、二人は行き場を失っていたのだが、その行き先がない足取りは燕の気持ちまでも暗くしていた。
すると、どこか暗い表情を浮かべる燕に、
「なーにセンチメンタルな表情を作っているんだ。もしかして君はあの牛男に惚れていたのか?」
突然、自分の前を歩く東花から、無遠慮な言葉が飛んでくる。
「そんなんじゃないです。ただ、一緒に働いていた存在がどこか遠くへ行ってしまったような・・・・そんな感じがして」
無遠慮な東花の言葉に燕の反応は弱々しく、どこか寂しそうな表情を浮かべるが、そんな燕を東花は笑う。
「ふふっ」
「なにがおかしいんですか?」
「だから君は補佐官止まりなんだよ」
「どういう意味ですか」
これでも少しは落ち込んでいるというのに、それをデリカシーなく笑われた燕はムッとした顔で聞き返すと、東花は今日初めて会ったはずなのに、まるで当時の黒孤を見ていたかのように話し出す。
「あの男が補佐官になっていたのも、他の部族と仲良しこよしがしたかったわけではない。あの男は自分が求めるものをそこに見つけたから補佐官になったんだ」
見透かしたように言うが、東花のその言葉は確信めいたものがあり、燕もさっき話した黒孤の言葉を思い出す。
「黒孤君も言っていたけど、なにを見つけたんですか?」
進めていた足を止めた燕が東花へ尋ねる。すると東花も足を止め、燕のほうに振り返ると、
「知識だよ」
「知識?」
「あの男は前の調停官から知識を得るために補佐官になったんだよ。前の調停官も人間が担当していたんだろう?」
「そ、そうですが」
自信満々に言う東花は自分の見解を述べると、その見解に至るまでの考えも明かし始める。
「生物界で最も知恵と知識を持っているのが人間だ。あの男はそれらを吸収するために補佐官になり、そして知識と知恵を持ったからこそ補佐官を辞めたんだ」
「そ、そんなことは」
「ないと言い切れるかい?」
元同僚がそんなことを考えていたと思いたくないのか、燕は東花の考えを否定しようとしたが、即座に返された東花の言葉に対し、燕は否定しきれなかった。
東花は考えた。人間が嫌いなはずの牛部族がなぜ補佐官になったのか、なぜ下級の地位に就いているのか・・・・・
それらを照らし合わせ、黒孤の真意を掴むため東花は考察を続ける。
「あの男は補佐官というそれなりに地位の高い役職に就いた。それにも関わらず自分達の部族の中では下の地位で納得している。おかしいと思わないか?」
「それのなにがおかしいんですか?彼は地位なんかより自分達の部族を守りたいから、より厳しい環境に身を置いて頑張っているんじゃないですか?」
「それは君の憶測だろう?」
なにかを言う度に尽く東花に否定される自分の言葉、燕はやけになったのか、それとも悔し紛れなのか、
「そ、そうですよ。これは私の希望であり憶測です。だけど、さっき調停官が言ったことも憶測じゃないんですか?」
「はっはっは、確かにそうだが私の憶測にはちゃんと根拠がある」
開き直るように言った燕の言葉だったが、意外にも東花の受けがよく、また馬鹿にされると思っていた燕は戸惑ういながらも、
「なんですか根拠って」
東花が言った根拠について尋ねると、その根拠を伝える前に、東花は前説と一つの疑問を燕にぶつける。
「どんな生物にも欲望はある。人間だってそうだ。どんな聖人君子でも小さな欲望があり、それには誰も逆らえない。あの男がなんの見返りもなく身を削るような者にはどうしても見えない。知識を得たあの男はその知識をフルに活かせるところを探すだろう。そこで目を付けたのが動かしやすく操りやすい下級の牛達だ。自分が上級の地位に入り下級の牛達を動かすことも出来ただろうがあの男はそうしなかった。なぜだかわかるかい?」
「それは・・・・・彼が下の者の気持ちになって働きたかったからですか?」
ぶつけられた疑問に、燕は少し考えてから答えるも、
「違う。それも君の希望的観測だろ?」
「ぐっ‼・・・・・」
燕の答えはまたもや否定されるが、東花は気にすることなく続けて根拠を示す。
「あの男は誰かを動かすには上から命令するより、同じ立場に立って言ったほうが効果的だということを知っている。多分、それも人間である前の調停官から得た知識なんだろう」
「だったら、これからどうする気ですか?調停官の憶測通りなら、上も下も強固な一枚岩で出来た牛部族は崩すどころか、説得すらも難しいですよ」
言いたい放題言われた燕は、なんとか一矢報いろうと反論をするが、それさえも想定済みだったかのように、
「ふっふっふ、壁を壊す方法は一つじゃない」
東花は怪しい笑みと自信に満ちた言葉を口にする。