#2[不穏]-3-
大きな古時計から振り子のゆれる音がする。
べつの古時計たちからもかちゃりかちゃりと時を刻む音がして、すこしさわがしい。
だというのに、しんとした沈黙のままという状態が、重かった。
振り子たちの音だけが店内を徘徊している。
雰囲気は、鉛玉をのみこんだみたいに重い。
店の一角に設置されている来客用のソファセットに身をゆだねたまま、だれも口を開こうとしない。シェパード犬も空気を察しているのか、ラキアの車イスの横で置物のようにおすわりをしている。
犬のアンバルが何度も吠えつづけたのは、フロレンシアがただごとじゃないようすで駆けこんできたせいのようだった。
なぜかカレルも呼ばれて、どうしてか同席をもとめられた。
はじめは二階にいていいって聞いていたのに、ここにいてくれと言わんばかりにフロレンシアに手招きされたのだ。
「――おばちゃん、アイツらの単なるイヤガラセってことはない? だって、昨日あんなことあったばっかだしさ」
ミゲルの声で、フロレンシアが面を上げた。
「アタシもそう思って、イタズラ電話だろってあしらったんだよ。でも、二回目の電話でエミリオの声、聞かされたし……まさか、誘拐されただなんて」
フロレンシアの泣きそうな声音が、周りの空気をいっそうこわばらせてゆく。
エミリオというのは、昨日フロレンシアの腰にひっついて甘えていた少年のことだろうか。
重苦しい話だということは理解できたし……一瞬だけ、嫌な想像までしてしまった。
「まさかイヤガラセとして誘拐、とか?」
ラキアが平坦に発言する。
「そんなの冗談がキツすぎるよ。ここに住んでる人たちがいわくつきだからって……」
フロレンシアが口ごもると、しんとあたりは静まりかえってしまった。
いわくつき、とはどういうことだろう。はたと首をかしげるが、だれも説明してくれそうになかった。
「誘拐って言うくらいだから、やっぱりいくらか持ってこいっていうハナシ?」
ミゲルが聞くと、彼女はふかくため息をついた。
「百万エウロ持ってこいって。豪邸が買えそうな大金、用意できるわけないのに」
「めまいするレベルの金額だなあ、また」
会話が途切れる。
なぜか鬱積して、よどんだ空気が肺のなかいっぱいにひろがって息苦しくなる。
「――しかも<緋色>に身代金もってこさせろって、言うし」
フロレンシアの発言に、いきなり手のひらを針でつっつかれた気がした。
一瞬、フロレンシアと視線が合って心臓がぎゅっとちぢこまる。
「えっ、なにそれ? ……おばちゃん、ホントにアイツら、そんなこと言ったの?」
「うそ言ってどうするんだよ。こっちは何度も聞き返したんだから。『昨日、店にいた黒い長髪のヤツに金をもってこさせろ』って一方的に言われたんだよ」
「昨日、店にいた黒い長髪のって……」
ミゲルの視線が、つづいてフロレンシアとラキアの視線がカレルのほうにそそがれる。
目が合って、とたんに居心地が悪くなった。
フロレンシアに同席をもとめられた理由がわかった気がした。
――長い沈黙。
針のムシロに座らされている気分だった。
「……うーんと、へんなこと聞くけど、まさかお前さんって昨日の強盗と顔見知りなん?」
ミゲルの問いになんと答えたらいいかわからなくて、カレルはただ首を横にふる。
半分は本当のことで、半分はうそだ。
でも本当のことを言うのがこわかった。知られてはいけない気がした。
「警察には連絡した?」
ラキアの声に、フロレンシアは「していないよ」と返答する。
「警察に連絡したらヒドイことするって。そんなこと言われたら連絡なんてできないよ」
ミゲルがうめくのが聞こえた。
「なんというか……ヒネリのないお決まり展開だなあ」
「のんきなこと言わないでくれよ。子供の命がかかってるって言うのに……!」
フロレンシアからの非難を「わるい、わるい」とミゲルは軽い調子で受け流して、ちらりとこっちに一瞥をくれた。
「さて、どうするよ」
ミゲルが話をふった相手はラキアだった。
「どうするって。どうにかするしかないだろ」
「だなあ。……こまったなあ」
「そういわないでたのむよ。アンタここらへんじゃ顔が広いし、いつも面倒事になれば首つっこんで解決してくれるじゃないか。刑事の友達だっているんだし……なんとかしとくれよ。ちゃんとお礼はするからさ」
フロレンシアが懇願する。
ミゲルは腕をくんで、ため息をついた。
「そうだなあ。でも一応さ、警察には連絡しておこうよ」
「一応って……あたしが連絡したって警察はすぐきてくれないんだから! 偏見のせいでこっちの話もまともに聞いてくれない時だってあるし、信用できないよ」
「わかってるって。形だけでいいからたのむよ。その、連中が言う「ヒドイこと」される前に、なんとかするからさ」
柔和ながらも淡々と言うミゲルに対して、フロレンシアは語調をにごしながらもちいさく「……わかったよ」と仕方なさそうに答えた。
「――で? 結局のところ、お金払うわけ?」
ラキアが口をはさむ。
「んなもん、あるわけないじゃん。まあいいさ、なんとかするしかねーんだからさ。――つーわけで、わるいんだけど。にーちゃん、手伝ってくれるよな?」
突然、軽い口調で話しかけられて、反射的に体がびくつく。
景気よく破顔しているものの、ミゲルの眼差しはまっすぐカレルをとらえていた。
どんな意図で問いをふられたのか理解できなかった。
「――おれが、手伝う……?」
首をかしげて聞き返す。
なにを手伝えというのだろう。
「うん、そう。誘拐犯にご指名食らっちゃってるってのもあるけど、お前さん、強いみたいだからさあ」
「それって……『壊す』ってこととは、ちがう?」
一瞬、ミゲルが目を見開いたような気がした。
ほかの二人は、それぞれ訝しむような表情でカレルを見ているようだった。
すぐにミゲルがへにゃっと笑って訂正する。
「ちがうって、助けるんだよ」
「たす、ける?」
――なにを?
聞こうと思ったけど、即座に「そうだよ」とミゲルに肯定されて聞きそびれてしまった。
「調子よく言うのはいいんだけどさ、これからどうするかちゃんと考えてんの?」
「んっ? そりゃお前の担当じゃねーの?」
「は? なんだよ、それ」
ラキアのあきれた声が遠くで聞こえる。
かかわらないほうがいい。
心の底で黒い影がうずいた。
気持ち悪い。よくわからないけど、無性に吐き気がする。
迷っていた。
かかわってはいけないとわかっているのにもかかわらず、流されている自分がいる。
都合上、必要とされたからか。それとも、いつものように要求されたからなのか。
考えても、わからない。
「……話、聞いてた?」
はっとする。あわてて声のしたほうに顔をむけた。
動揺が手伝って、手のなかにあるものがいきおいよくころげおちた。おどろいて声にならない悲鳴を上げてしまう。
あわててひろおうと腰を上げる。シェパード犬も落ちたものに反応したのか身を起こす。
すぐにラキアが「アンバル」と犬の動きを制した。
落としたのは黒色をした折りたたみ式のケータイ電話だった。傷が多いのはさっき落としたせいだけじゃない、と思う。
「すこしくらい落としても壊れないと思うけど、連絡用のケータイだから壊さないでほしいんだよね。予備、それしかないから。あと絶対、肌身離さないこと。それと、なくさないように気をつけて」
おだやかに話しかけられているはずなのに、言葉じりにこめられた語調が妙に強い。
カレルは必死にコクコクとうなずいて見せた。
ラキアは、カレルの反応を見て、言葉を返さずに口の端を上げた。多分、納得してくれたのだろう。
立っているのも落ち着かなくなり、カレルはいそいそと一人用のソファにもどって腰をしずめる。
いつの間にかフロレンシアやミゲルの姿はなくなっていた。席をはずしたのか、姿が見えない。
ぼんやりしていたというよりも、また意識がとんだのかもしれない。
店内にいるのはカレルとラキア、あとは犬のアンバルだけだ。
なんだか緊張する。相手に観察されているような、気がしたから。
ラキアの表情からは笑顔が消えている。
「……嫌なら、べつに断ったっていいと思うけど」
だしぬけに言われて、きょとんとしてしまった。
なんの話かピンとこなかったけど、ぼんやりと『手伝う』のことじゃないかと察した。
視線を手のなかのケータイに落とす。
『手伝う』ことを承諾した証しだと、なぜか瞬時に悟った。
どうしてこうなったのか、よくわからない。
耳の奥でダメだと影が言っている。断れと意識が命令してくる。
カレルは首を左右にふった。
「たすけることは、わるいことじゃないと……思う」
――自然と口をついてでた言葉だった。意外だった。
内心、おどろいている自分がいた。
「……まあ、たしかにね」
会話が終わってしまって、静かになる。
外の日射しは、いつの間にかうすらいでいた。夕刻が近づいている。
「疑問に思っていたこと、聞いても問題ない?」
ラキアに呼びかけられて、カレルは彼のほうを見やった。
「帰る家がわからないって、本当の話?」
返答に考えあぐねる質問だった。
「……わからない」
カレルの言葉に、ラキアが眉根をしかめる。
「なんだそれ。――まさか、今までなにをしてたか、おぼえてないとか?」
息が詰まった。
なにをやっていたか、なんて言えるはずない。
苦しかった。答えることなんてできない。だまっていることで返事を返した。
気まずい時間がすぎていく。
――逃げたほうがよかったのだろうか。
今さらながら、心のなかで後悔の片鱗を見いだしてしまう。
気を許したら黒い影にのまれそうな気がした。
のまれるのは嫌だと思いはじめている自分がいる。
「……できそこないでも」
「ん?」
小首をかしげられた。
無意識にもれたつぶやきは相手にとどかなかったらしい。あわてて言葉をのみこんだ。
自分は、なにを言ってるんだろう。
伝えるべきことがあるなら、他のことを言ったほうがいいんじゃないか。無性に切実な思いがせり上がってきた。
意に反して、声がでない。無言の空気が重かった。
「話したくないなら追求しないけどね」
ラキアはため息まじに言った。
怒らせてしまったかと不安になる。彼の表情は、つきはなすような冷たいものではなかった。
ラキアは視線をちょっとだけそらして考え込むそぶりを見せる。
「まさか<緋色>が本名ってわけじゃないんだろ?」
聞かれて、カレルはうなずいた。
――そのまま自分の名前を伝えると、ラキアの動きがぴたり、と静止した気がした。
だが「……ふうん、そうなんだ」と平然とした表情で、ラキアはうなずき返しただけで。
気のせいだったらしい。
「今夜、動くってさ。すこし休んでおけば?」
言うと、ラキアは手慣れたようすで車イスを動かして店内をあとにしようとする。
今までおとなしくしていたシェパード犬が立ち上がって、ラキアのあとをついていこうとした。
「……――おねがいがあるんだ」
思い切って吐きだした自分の声音は、やけにちいさかった。
ふりむいたラキアの受け答えも「なに?」と事務的で起伏がない。
ためらいもなくカレルは言葉をつづけた。
相手が表情をこわばらせておどろきをかくせないようすでも、かまわなかった。
答えを待たずにカレルはその場を離れた。もちろんケータイは手にしたまま。
『おれがもし、へんなふうになっちゃったら……その時は、殺してほしいんだ』
たったひとつの心配事だったから、お願いしただけにすぎなかった。
もう終わりにしたかった。