#2[不穏]-1-
Al perro flaco no le faltan pulgas.
(やせ犬にはノミがたかっている)
*
外はさらさらと小雨がふっていた。
夜中だというのに空き部屋が見つからなかったら、今ごろじわじわとちいさな水滴どもに体温をうばわれているところだった。
家具も一切なく、街灯のたよりない光だけがさしこむ手狭なアパートの一室。
大家の許可などもらうわけがない。不法侵入というやつだ。
窓の鍵を壊しっぱなしで放っておくほうが悪い。
部屋のすみで、気分がすぐれないと言っていたシプリアノが背中をむけて横になっている。
ダミアンは腕組みをして座ったままいらだたしげに歯ぎしりしたり、うなったり舌打ちをしたりと落ち着きがない。
重苦しい空気に逃げ出したくなる。
と思っても、一番下っ端のペリコには、ほかの行き場所なんてないからできるわけがない。
無性にダミアンがだす騒音が気になってしょうがなかった。だまって聞きながしてもよかったが、落ち着かない。
「お、親びん……」
ペリコのちいさな呼びかけに応じて、ダミアンが鼻息をあらげてふりむく。
怒髪天をつくほどの形相で睨んでくるもんだから、ついしりごみしてしまった。
「あ、あんまりうっさいとアイツ……お、起きちゃいますって。ね?」
キョドりながらも、ペリコは一生懸命になだめたつもりだった。
いっぽうダミアンの表情は、さらに険しくなってみるみる熟れたトマトみたいに真っ赤になってゆく。
「じゃかあしいっ!」
あわててペリコは耳をふさいだ。紙一重でふさぐのが遅かったらしく、鼓膜がキーンと悲鳴を上げる。
げろげろにオカンムリだ。
「もとはといえばキサマがドジったせいでっ! このっ!」
「ひっ、ひえええっ!」
ばっと飛びかかってくるダミアンにビビってペリコは地を這うように後ずさる。
逃げきれず、胸ぐらを両手でつかまれて引っぱられた。めちゃくちゃチビのくせに、力はまともにあるもんだから息苦しい。
突然、壁を乱暴にドンッ、ドンッ、と殴打する物騒な物音がした。
鈍い音だったにもかかわらず、ペリコとダミアンはびくりと反応して部屋のすみへ首をめぐらせる。
シプリアノは横になったまま二人をじろりと睨みすえていた。
「……ウルサイ」
忌々しく吐きだされたシプリアノの声には、今にもどちらかの首をねじきってしまいかねない殺気がにじみ出ていた。
ペリコはあわててダミアンのほうを見る。
ダミアンが苦虫を噛みつぶしたようなになって、胸ぐらをつかんでいた両手をはなした。
首回りが自由になって苦しいのがぬける。
ほっとしたのもつかの間、シプリアノのギラギラした双眸がはっきりとこちらをとらえているのに気づく。
ぞくりと寒気がした。
狭苦しい檻のなかに不機嫌なライオンといっしょにされて閉じ込められてるみたいだ。
――いつ喰われてもオカシくない。
うすら寒くなって視線をそらした。とにかく相手をしないほうが身のためだ。
なぜかコイツは不機嫌になるとよく血をほしがった。
どうやらなにかの精神疾患が原因らしいが、くわしいことはよく知らない。
話を聞くかぎり、まるで映画にでてくる吸血鬼みたいだと思う。
近づくだけでも気味が悪い、と組織のだれかがウワサしていたのを思い出す。
どうして親びんがこんな化物に愛想をつかさないのか理解できなかった。
よく平気でいられるよなと思う。
ダミアンを見やると、目を三角につりあげた顔で睨まれてしまった。
「キサマのせいで大損だっ!」
ツバをとばして怒鳴る親びんに気圧されて、ペリコは「ひっ」と息をのんでちぢこまる。
「……で、でも、もとはと言えば親びんがアイツらのブツ横取りしようとか言い出すから」
「――言い訳するな、この腰ヌケっ! お前が捕まらなければゼッタイに大金持ちになってたんだぞっ! なのにこのザマだ!」
噛みつかんばかりのいきおいでダミアンか怒鳴る。
ブツもとい麻薬の横取り失敗して捕まったあとのことを思い出しただけで身震いがして、涙と鼻水がでそうになった。
「でっ、でも……ぜったいケンカ売る相手まちがってますって……もうこんなのオレ、イヤっスよぉ」
「ああん? 文句あるのか?」
青筋を浮かべたダミアンの顔がずいっとせまってくる。
「文句がでたのはこの口か? どうなんだ、あん?」
ちっちゃな手がペリコの左頬をつまみ、ひねった。
「ひ、ひふぁいふ、ひゃへふぇふあ、ほひゃひんっ」
やめてと懇願してるのに、ちっちゃな指はさらに頬の肉をしぼりにかかる。
ガマンならならなくて、ペリコはダミアンの手を無理やり引きはがした。
左頬がじんじんする。涙目になりながら鼻をすすって左頬をさすった。
「だっ、だって、あの店にいた赤いヤツ、<緋色>じゃないスかっ。はじめはアレ? って思ったけど。もしかしたら裏切ったオレらを追っかけてきたかもしんないスよ?」
ダミアンの表情が一瞬だけぴくりとこわばったが、すぐにもとの怒った顔にもどってしまう。
「んなわけあるか。アレは自分の意思で動かないって聞いたぞ? そんな飼い犬が脱走したとでも言いたいのか、キサマは」
「た、多分、間違いないですって! 相手の顔、この目で見てんスから。ってゆーかもう逃げちまいましょうよ……オレ、もうこんなの耐えられな」
ダミアンがぶるぶる肩をふるわせて歯ぎしりしだしたのに気づいて、言葉がとまってしまった。
「青二才の分際で口ごたえするなっ! 先立つものは金だろうが!」
これでもかという大声がツバといっしょにぶっとんできて、ペリコは「ひい」とうしろに退いた。
シプリアノが<緋色>にブン殴られたあと、あっさりと逃げることしかできずに収穫一切なしだったなんて、ダミアンが怒らないほうがおかしい。
ふいにまたドンッ、ドンッ、ドンッ、と神経質に壁をたたく音が部屋のなかを闊歩しはじめた。
「うるさいぞ、シプリアノっ!」
ダミアンが歯をむきだしにして吠える。
シプリアノがこちらにむけた眼光のするどさに、ペリコは思わずチビりそうになった。
「だっ、だからさっき言ったのにっ」
ペリコか泣きそうな声で言うと、ダミアンはギッとこちらを睨みすえた。
おびえたまま顔色をうかがっていると、ダミアンはシプリアノを一瞥して、またペリコのほうを見て、大げさに舌打ちする。
「……キサマの血でもくれてやれ」
「へっ?」
なにを言われたのかよくわからなくて、ペリコはまじまじとダミアンの顔を見つめてしまった。
ダミアンはメンドクサイものを見るような目つきでシプリアノのほうにアゴをしゃくって見せる。
「ひっ、いや、ちょっと待って、えええっ、イヤっスよっ。なんでっ?」
ぶんぶん頭を盛大にふって見せたが、ダミアンの態度はいっこうにかわらない。
「アレは血のませりゃ落ち着くんだ。ちょうどケガしてんだし、すこしくらいーだろうが」
死刑判決を下された気分だった。ショックで硬直していると背後からデカイ影がせまっているのに気づく。
泣き声まじりのぶざまな悲鳴が部屋中に響いた。
ダミアンは平然と悲鳴を聞きながして、ただいらだたしげに歯ぎしりしただけだった。
「あの店の女、調子に乗りやがって……今に見てろ、仕返ししてやる」