#1[迷夢]-3-
手や足に冷たい空気を感じて、はっとした。
意識が、にごりのない透明な色になっている。寝ていたらしい。
ふわふわした感覚のなか顔を上げる。
さっきの少女がカレルの顔をのぞきこむように見ていた。腕にしっかりとスケッチブックを抱きしめて鞄を手にしている。
スペアミント色のスケッチブックを抱えた片方の手のひらには、なぜかハンカチが握りしめられていた。
目が合うと、少女はひるんだ姿を見せて後ずさりする。
びっくりしてカレルもつい「わっ」と大きな声を上げそうになった。
「あの」
少女がうわずった声音で話しかけてきた。
カレルはきょとんとして少女の顔を見上げる。
「えっと」
彼女は視線をおよがせてから、うつむいてしまう。
なにがしたいんだろう。問いただす発想もなくカレルは首をかしげる。
「これ」
言って、少女はハンカチを差しだしてきた。
よくわからなくて、カレルはハンカチと少女の顔を交互に見る。
「その、もっと早くわたしてあげたかったんだけど……」
彼女はもうしわけなさそうな顔で言った。
くれるって、ことなんだろうか。
きょとんとしながらも手をだして、ハンカチを受け取った。
小花がたくさんプリントされた可愛らしいハンカチだった。
なんでハンカチをくれたんだろうと考えていると、少女は「じゃあ」と言ってきびすを返した。
行ってしまう。
待って、と言おうとして声がでなかった。とっさに彼女の腕をつかんでしまう。
少女が体をびくつかせたのが腕から伝わってきた。
あわててカレルは手をひっこめた。おどろかすつもりはなかった。
彼女は頭だけ動かして、おずおずとこっちの顔を見た。
気管にひっかかっている言葉をだそうとしても、うまく声にならない。息を吐く時みたいに無理やり押しだす。
盛大にむせてしまった。
「――えっ、大丈夫?」
すかさず少女が聞いてくる。
カレルは咳きこみながらも反射的にコクコクとうなずいて見せた。
落ち着いても、まだ喉のあたりがガラガラして不快感が張りついている。しゃべることなんてしばらくしてなかったせいか、要領を得ない。
彼女は、ずっとカレルの顔をうかがっていた。
狼狽の色を浮かべた少女の瞳に見つめられて、同じように、うろたえてしまう。
「あ、だ……だい、じょうぶ」
ひさしぶりに聞いた自分の声は、しゃがれていた。
だが、今度はすんなりと声がでた。
「そっか」と、ほっとしたようすで少女がちいさく笑う。
会話が途切れたせいで、すぐに少女の笑みはしぼんでしまった。
おたがいギクシャクして、目も合わせられなくなる。
居心地が悪い。
ガチガチに固まって石ころになってしまいそうだ。
「キミは……帰らないの?」
少女が遠慮がちに口火を切る。
「かえ、る?」
惚けたように答えた。
カレルの切り返しに、少女がきょとんとする番だった。
「だって、もう夕方だよ?」
彼女の言葉で、あらためて雲がコーラルレッドに染まっていることに気づく。
空はガラス細工のようなスモークブルーとにじむような赤い色が重なりあって、うすいラベンダー色にかわっていた。
風が冷たいのも太陽がかたむきかけているせいだろう。展望台から見える麓のちいさな街並みにもポツポツと明かりがともりはじめている。
取り残されたような気分になった。
「どうしたの?」
少女が心配そうに聞いてくる。
まごついてうまく言いあらわせない。口のなかで音だけがとどまって、うめくだけで終わってしまう。
「どこに、いけばいいか……わからなくて……」
やっとしぼりだした声といっしょにカレルはうつむいた。
伝えたいことはいっぱいあるのに、言葉にならない。
もどかしくて、目もとから涙のつぶが落ちてきそうになる。
少女が「えっ」と息をのむのが聞こえた。
「まさか、お、おっきな迷子……さん?」
「おれ、そんな名前じゃない」
顔を上げて、すかさず言い返す。
「――あっ、そう……だよね。ごめんね」
あやまられた理由がわからなくて、カレルは眉をひそめた。
鼻水がでてきそうになる。空気を吸って押し戻した。
少女はまた「えっと」とつぶやきながら、なにか考えているみたいだ。
目が合うと、遠慮がちに彼女は話をつづける。
「行きたいところの住所とか、わかる?」
「じゅうしょ?」
意味不明のキーワードを持ちかけられて、疑問符が頭のなかでいっぱいになった。
なんのことだか一生懸命に脳みその引き出しをさぐってみたが、思い当たるものは見つからない。
「あの……わかるところまでなら教えてあげられるかなと思って」
おずおずと少女が言う。
カレルがだまったままでいると、少女は必死になったようすで話をつづける。
「じゃあ、キミのおウチって、どこにあるの?」
質問をなげかけられて、カレルは打ちのめされた気分になった。
うつむいてしまう。
首を左右にふることしかできない。
少女が口ごもった。気配でわかった。
足もとの地面の色が、さっきよりもこくなっている。
冗談ぬきで目の前が真っ暗になりそうだ。
少女に「あのね」と声をかけられて、カレルはゆっくり視線を上げた。
彼女はためらいがちに言葉をつむぐ。
「暗くなっちゃうとあんまりここにいるのよくないから、大通りに行かない?」
一瞬、彼女がなんのことを言っているのかよくわからなかった。
カレルは面食らったまま、返答もせずに少女の顔を見る。
突然、彼女は「あっ」と声を上げたかと思うと、あわてふためいて、そわそわしはじめた。
「あの、えっとその……へっ、へんな意味じゃなくてね? だれかに相談とかすれば、ちょっとはちがうかなあって」
妙にうわずった声で少女が言った。
視線もあっちこっち行ってさだまらない。
どうしたんだろうと不思議に思ってしまう。
カレルがぽかんとしたまま少女を見ているだけだったのにもかかわらず。
とたんに彼女の顔が、みるみる耳まで真っ赤になる。
少女は、抱きしめていた大きなスケッチブックを盾にしてかくれてしまった。
「えっ」と、カレルはあっけにとられた。
悪いことでもしてしまったのだろうか。
見ちゃいけなかったのか。
なんか、よくわからない。
少女が、おっかなびっくりスケッチブックから顔をだした。
目と目が行きあうと、彼女はすこしだけ首を動かして視線をずらす。
かと思えば、少女はおずおずとこっちを見てくる。
「どう、かな?」
ぽかんとしたまま、カレルは目をぱちぱちさせた。
「……うん」
うなずいてしまう。
すぐに後悔した。
彼女についていっていいものか、不安になった。
ぴしゃんと思考がこわばる。
このあとのことを考えるとこわい。
嫌なイメージが浮かびそうになって、ぞくりとする。
昨日の出来事をまざまざと思い出してしまった。
「……どうかしたの?」
見やると、少女が表情をくもらせている。
カレルは首を横にふった。
――きっと、飼い主は死んだのではないだろうか。
なんでもないと彼女に伝えることで、不安を、胸の奥底にひっこめた。
助けてもらって得た、ちいさな安堵を、あの包帯みたいに手放してしまうほうがこわかった。
「行こう」と少女にうながされて、カレルはベンチから立ち上がる。
ただ、彼女についていけばいい。
軽い思考で片づけることにして、ふかく考えるのはやめた。