#1[迷夢]-2-
何度もうしろを見てしまう。
だれかが追いかけてくる気配はなかった。
さすがに疲れて立ちどまる。
だいぶ走った気がする。苦しいのが落ち着くまで、近場の壁にもたれかかった。
余裕がでてきたところで人の気配に気づいた。
上着を着て、あたりを見まわす。
さっきまでせまい道だったのがウソみたいだ。
大通りを行きかう人々、店頭で客引きをする大声、行きかうクルマ、聞きなれない数々の音。
唐突に知らない世界に投げだされた気分を味わう。
視界がひろくて、とまどった。
せまい路地裏の世界とはちがっていて、道ばたで寝転がる浮浪者の姿がない。ゴミもチリすらも落ちていない。
ふりそそぐ太陽の光のせいなのか、強い日射しがまぶしくて、クラクラする。
――気のせいだろうか、なぜか空が近い。
なんとなくだか、悪い気分はしなかった。
突然、道のすみで露店を広げている男に声をかけられて、おどろいて、カレルは逃げるように露天商の前を通りすぎた。
なにかにぶつかって、あわててふりむくと嫌そうな顔をした通行人と目が合う。
びっくりして立ちのくと、なにかにひっかかって、うしろによろめく。
バランスが取れなくて、ドンガラガッシャンとすっころんでしまった。
一驚のほうがまさって痛みなんて感じない。いや、やっぱり痛い。
すみに停めてあった自転車を巻き込んで、転んだらしい。
奇妙なものでも見るような目をむけて、通行人たちが通りすぎていく。
「大丈夫か」と声をかけてきた人もいたが、どうしていいかわからず惚けていると、いなくなってしまった。
尻もちをついたままでもどうしようもない。走った疲れもあいあまって、よたよたと立ち上がる。
「――おい!」と怒鳴り声が後頭部に突きささって心臓がちぢこまった。
見やると自転車の持ち主がもどってきたらしく、怒り心頭のようすでカレルにむかって突進してくる。
ぎょっとしてとび上がりそうになった。
カレルは倒れた自転車からはなれると、脱兎のいきおいでその場から逃げた。
持ち主の大声がうしろから矢のようにとんでくる。
脇目もふらずに走った。
捕まらない自信だけはあった。
大通りの歩道をまっすぐ進む。ときどきだれかと衝突しそうになって、たたらを踏む。
踏みとどまって、通行人たちの横すれすれを切り分けて走った。
道は坂道になって、心臓をしめつけにかかってきた。
きつい。気道がギシギシたわんで悲鳴を上げた。
喉の奥が冷たくなって、口から長い鉄パイプをねじこまれたみたいなへんな感じがする。
へこたれて立ちどまった。
体を折り曲げて酸素をかきあつめようと、吸って吐いてをくり返す。
汗がだらだらとあとからもあふれて流れ落ちてきてうっとうしくなって、服のそでで額の汗をぬぐった。
きた道をふりかえっても追っ手の姿はない。逃げきったみたいだ。
ほっと安堵の吐息をもらす。
坂道はいつの間にかせまくなっていて、二台のクルマがおたがいすれちがいあって、ぎりぎり通れる幅しかない。
人の気配も少なくなっていた。さっきの大通りにくらべて比較的静かだ。
さらさらと風が吹いていて、火照った体を冷やすのにちょうどよかった。
ふと、気づくと手にまかれた包帯が汗を吸ってしめっぽい。
気持ち悪い感じがして邪魔になったので、包帯をといた。
包帯が手から離れると、一段と強い風がやってきて包帯をさらっていく。
目で追いかけた。手をのばしたのに、舞い上がってどこかへ行ってしまった。
望んで取ったものなのに、なくなったとたんに心細くなる。
首をまわしてあたりを何度も確認してみたけれど、包帯は見つからなかった。
あきらめるしかないみたいだ。
ふと、道の反対側から、子供がキャッキャとはしゃぐ声がした。見るとちいさな男の子が母親に手をひかれて歩いている。
「おウチに帰ろうか」という母親の声が聞こえた。母親が抱えた紙袋を見て、買い物の帰りかもしれないなと思う。
……ああ、そうだ。帰らないといけないんだった。
思い出して、途方にくれてしまう。
帰り道がわからない。
ひとりで街中を歩くなんて、ありえないことだった。
――でも、どこに?
母親と子供は、カレルの姿を気にもとめず、青い看板がある十字路を曲がって消えてしまった。
曲がった先に家があるのかもしれない。
親子を見送ったまま、立ちつくす。
あたたかさのない手枷の感触を思い出して、胸がしめつけられた。
手首にふれて枷がないことをたしかめる。
あんな場所に帰りたいなんて、うそだ。
脳裏のむこうでつぶやきが聞こえたが、またたく間に、かき消えていった。
突然、風がざらざら鳴った。音のしたほうを見やると、風が樹木の枝をゆらしていたのだと気づく。
樹木は建物の頭やすき間からチラホラと顔をだしていた。
坂道をたどるように視線を動かす。
樹木の密度は坂の上に行くにつれて濃くなっていて、坂道の先は高台になっていた。
どういうわけか高台にある緑の群集が気になる。
追い風に背中を押されて、足を前にだした。
手をつないで歩いていた母親と少年の姿が、網膜に焼きついてはなれない。
二人が、自分たちの家を知っているから?
それとも、手をつないでいるから?
疑問をふやしていくたび、胸のなかがもやもやした。
脳みそのなかが整理つかなくなってきて、思考の流れをとめる。
とにかく、歩くことだけ考えた。
道をまっすぐ進んでいくと大きな壁が立ちはだかった。袋小路らしかった。
壁はカレルの背よりも高い。手をのばしてみてもとどかないほどだった。
なんだか、とおせんぼのイジワルをされてるみたいでイラっとする。
数歩うしろに下がって、ぴょんととんでみる。壁しか見えない。
壁の上が目的地なのに。
こうなったら、なにがなんでも壁をよじのぼってやろうと、さらに数歩もどって助走をつけてジャンプした。
中指だけてっぺんの角にとどいた。
やった、と思った瞬間にたえきれなくて指はすべり落ちた。
中指の顔がこすれて、火がつきそうになるんじゃないかと思うほど熱くなる。
ぎゃっと声を上げそうになって手をひっこめた。中指にふーふー息をかける。中指の顔に火はついていないが、赤くなっていてヒリヒリした。
壁の頂上を睨みつける。
あともうちょっとだったのに。
何回かくり返し挑戦したけれど、結果は同じだった。
負け犬みたいにがっくり肩を落として壁に背をむける。仕方なく、歩いてきた道をもどるしかなかった。
――どうしよう。
空はびっくりするほど快晴なのに、心のなかの雲行きはひどくあやしい。
結局、親子が道を曲がった十字路まで、もどってきてしまった。
さっき見た四角くて青い看板があるので間違いない。
いよいよ雨がふり出しそうだった。
空はカンカン照りだから、よけいに身につまされる。
大きな石の塊を抱えて立たされているみたいだ。視線を動かすのも億劫になってきた。
頭をぎこちなく動かして、まわりを見わたす。
十字路は今まで歩いてきた坂道と交わるように、親子が行った道、反対側に階段になっている道といったふうにわかれている。
ビーッと大きい音が片耳にとびこんできた。
びくついてとっさにふりむく。目にとびこんできたのはクルマがこっちにつっこんでくる姿だ。
「わっ」とおどろいて、身をひいた。
キーッと、ひきつった嫌な音がする。びっくりして目を閉じた。体がこわばった。
「バカ野郎! 道のド真ん中に突っ立ってんじゃねーよ!」の罵声で、目を開ける。
運転手が吐いた言葉だと気づいた時には、クルマはカレルのすれすれのところを通りすぎようとしていて、親子が歩いていった道を曲がっていってしまう。
言われてみれば十字路の真ん中に立っていたかもしれない。
なんか、散々だ。
だが、棒きれみたいに立っていてもどうにもならなかった。
階段を上れば、上までいけるだろうか。
すがる思いでゆるやかにのびる階段の道をのぞきこむ。
どこにつながっているか、わからない。
さっきの出来事を思い出す。嫌な思いをしたことも、いっしょに思い出す。
苦い味が口のなかに広がった。
かといって大通りにもどるのも気がひけた。
ごちゃごちゃしていて、わけがわからなくなるからだ。
おそるおそる階段の道に足を踏み入れる。
なにか大きなものがころがり落ちてきたら嫌だな、という妄想が脳裏をよぎった。
足をとめても、なにも、ころがってこない。
歩くのを再開する。しばらく、ゆるめの階段だった。道が折れ曲がると階段の段差が高くなって、勾配もきつくなる。
さざなみに似た音がいっそう近くなる。長い髪がくしゃくしゃになびいた。
見上げると、あともうすこしでてっぺんだとわかった。
頂上にたどりつく。
入り口で待ち構えていた、緑のアーチをくぐった。
ひらけた場所にでた。緑にかこまれた公園みたいだった。
不思議なことに、大通りや街中とはちがって、まったく人の気配がない。
どうしてこんなところ、気になったんだろう。
ぼうっとしながらも、カレルはキョロキョロまわりを見まわす。
公園の真ん中には緑が生い茂っている屋根をかぶった大きなドームがあった。
ドームの下はくぐりぬけられそうで、立派なエントランスホールを連想させる。
左手には植木がぽつぽつたたずんでいて、かたすみにベンチが設置してあった。
右手に視線をやるとブランコや平均台などの遊具が立ちならんでいるのが見える。
地面はうすい茶色をしており、公園の入り口からドームまで乳白色の石畳がまっすぐのびていた。
石畳に足を踏み入れるとひやりとした感触がする。靴をはいていないことに今さら気づいた。
だが、あわてても仕方ない。素足でペタペタと歩く。
ドームの内部に入ったところで、ふと天井を仰いだ。
つぶさに観察すると、緑が生い茂ったドームの丸い屋根は鉄骨でつくられた骨組みに植物のツタがからまっていて、たくさんの葉っぱが幾重にも重なってできていた。
見上げていると、ときどき木漏れ日が天蓋の葉っぱのすき間から落ちてキラキラ光っている。
なぜか息がつまった。
突然、雨粒がぱらぱらと落ちてきた。
目をこする。
おかしい。はじめは雨かと思ったのに、ちがう。
目の下がぬれていた。
手ではぬぐいきれなくて、服のすそで水分をふきとった。
どうして泣いているんだろう。
落ち着かない。へんだ。わけがわからない。
重圧感に耐えかねて、うつむく。
後味の悪い情景を思い出して背筋が寒くなった。血のにおいと赤い色だ。
……だめだ、早くでよう。今すぐに。
かぶりをふる。ずっしりと重い。
命令を足に伝えて、さっさとドームからでた。
ドームから脱出した先はこぢんまりとした展望台になっていた。手すりの向こう側に広がっていたのはミニチュアみたいな街並みだ。
自然と立ちどまってしまう。
どうしてか、動悸がして息がつまりそうだった。
ぼんやり棒立ちのままでいると、公園の入り口からだれかがやってくるのが見えた。
はっとなって、とっさに視線に入ったかたわらの茂みをかき分けて入る。
茂みの奥は雑木林になっていて、ここからも街を一望できた。
どうやら公園の裏手にまわったらしい。
閑散としていて、こっちにはだれもいなかった。
安堵して、息がぬけた。
――思ったそばから人の気配がして、あわててふりむく。
赤毛の少女と目があった。彼女は、木の幹に体重をあずけるような感じで、地面に座っている。
少女は新緑色の目を見開いてカレルを見ていた。
おどろいているみたいだった。
意図していないのに、おたがい見つめあう状態になってしまう。
こっちもびっくりして、固まるしかなかった。
少女は自分とくらべて、なにもかもがちいさかった。華奢で線が細い。ストレートにのびる髪は、ちょうど腰にかかるくらいの長さだ。
彼女のひざの上には大きなスケッチブックがのっかっている。右手に鉛筆を持っているところを見て、絵を描いていたのだとわかる。
なんとなく年は近い気がした。
おじおじと見返していると、少女はあわてふためいて、すぐにスケッチにもどってしまう。
なにかされたわけでもないのに、心もとない気持ちになる。
カレルは、しおれた気分のままあたりを見まわした。
古ぼけたベンチが目に入った。
誘われるようにふらふらと近寄ってベンチに腰掛ける。
どっと疲れが、押しよせてきた。
胸のあたりがざわざわとして、落ち着かないのはまだつづいていた。
もう、なにも考えたくない。ひざを抱えてまるまった。なにも聞きたくなかったし、見たくなかった。
顔を伏せたので、目の前が真っ暗になる。
周囲の風景と、自分を切り離したおかげで、なにも聞こえなくなった。
意識が、ふわふわ綿毛みたいにとんでいく。
――いつもみたいに寝てしまえばなんでもなくなる。
ざわざわしていた感覚が、遠のいていった。
なにかをさがしていた気がするのに。
思い出せない。