#1[迷夢]-1-
Ojos que no ven, corazon que no siente.
(目では見えず、心でも感じない)
*
息が苦しくて飛び起きた。
声にならない悲鳴を上げて、酸素を無理やり肺に押し込もうとした。
うまくいかなくて、はげしくむせる。
落ち着いても、口でぜいぜいと息をするのが精一杯だった。
ひどく汗をかいている。喉もカラカラに渇いていた。
夢を見ていたと気づくまでにすこし時間を要した。ひどい夢だった。
呼吸が落ち着いてきたところで、自分が知らない部屋にいることに気づく。ベッドの上で寝ていたみたいだった。
手や腕にいつもとはちがう感触がして、見てみると包帯がまかれていた。頭のなかはもやがかかっている感じがして、はっきりしない。
カレルは、ぼんやりと周囲を見まわす。
――ここ、どこだろう。
窓からさしこむ光で、昼間だとわかる。
こざっぱりとした飾り気のない部屋だった。ベッドがあるせいなのか、せまく感じる。
窓が近い。ベッドから降りて、二、三歩ほど進めば到達できそうだ。
窓ぎわの反対、ベッドをはさんだむこう側にイスがある。赤色の上着がかけられていたせいで、イスだとすぐに気づかなかった。
上着は自分のものだ。間違いない。
窓のむこうを見ると建物の一部が目に入った。
外は市街地のまっただなからしく、景色のようすから、この部屋が一階でないことも確認できた。
ドアのきしむ音にはっとして、身がすくむ。
「……目、覚めたのか?」
開け放たれたドアのむこう側に、男が突っ立っていた。おどろいたような顔をしている。
目が合うとさらに体が萎縮した。あわてて視線をそらす。
ここは自分が知らない場所だ。
自覚して、焦りがじわりと噴き出してきた。
なんでこんなところにいるんだろう。
「なに? ……彼、やっと気づいたの?」
つづいて廊下から女の声。
「ああ、そうみたい」
男が返事をする。
こわくなった。
カレルは体を横たえると、シーツをひきよせて、なかにもぐりこむ。体をまるめて、ぎゅっときつく目を閉じた。
すぐに二人が部屋に入ってくる気配がした。
「……なんでアンタまでついてくんの」
「えっ、話くらい聞いたっていいじゃん」
「ダメ。あっち行って」
「なんだよ、どケチ」と男が言い残すと、部屋をあとにするような足音がして、扉がかちゃりと閉まる。
「……ドアのうしろから立ち聞きもしないでくれる?」
扉が開いた音がして「なんでバレてるの?」と男が聞いてきた。
二人のやりとりに、なんだか拍子抜けする。
「いいからさっさとあっちに行きなさいよ。それとも公務執行妨害で逮捕されたい?」
「あんだよ、わーったよ。……ったく、ひでえ刑事だよなあ。人のことコキ使うくせに」
「なんか言った?」
「なんでもねえよっ」
バタン、いきおいよく扉が閉まる。びっくりした。
それにしてもさっき、男はなんて言っただろう。刑事とか、なんとか。
かたわらで、女が「まったく」と嘆息をつくのが聞こえた。
イスをひく音がする。見えなくても、女が静かにイスに座るのが気配で感じとれた。
息がつまる。
そもそも、なんでこんなことになっているんだろう。記憶を一生懸命たぐりよせてみるが、おぼろげではっきりしない。
しんと静まった空間のなかにいることも手伝って、焦りはいっそう強まった。
「――申し訳ないんだけど、いつまでそうやってるつもり?」
たしなめるような声音が鼓膜につき刺さる。
この人が刑事なら、きっと自分を捕まえにきたのだろうと予想ができた。
悪いことをしていることが、どこかでバレてしまったのかもしれない。
目の前がいっそう真っ暗になった。
「言い方がキツかったかしらね。悪いくせだわ」
女が独りごちるのが聞こえる。
「あなた、昨日、廃墟になった空き倉庫の近くでぼーっとしてたのよ。おぼえていない?」
意外な言葉だった。
あのあとのことなど、ほとんどおぼえていなかった。
記憶がとぶのなんて日常茶飯事だから。
「あの倉庫で人が死んだの」
どくんと心臓が脈打った。胸が痛くなる。
まさかという気持ちとやっぱりそうかという気持ちが入りまじって気持ち悪くなってきた。
こぶしを握りしめる。手のひらの傷がピリピリと痛む。
「なにか見たり、知っていたりすることがあったら教えてくれない?」
一瞬、虚をつかれた気がした。
質問の意図がわからない。でも、気持ち悪いのだけは、たしかだ。
飛び起きる。
女と視線がかち合った。翠緑色の双眸だった。
灰色のパンツスーツに身を包んだ壮年の女は、線が細いくせにしゃんとしていてカミソリみたいな独特の雰囲気がある。
「自己紹介が遅れたわね。私は警察のマグノリア・ルス」
言って、マグノリアと名乗った女は懐から警察手帳を取りだしてバッチを見せた。刑事というのは本当らしい。
「べつあなたをどうこうしようなんて考えてないわ。ただ知ってることを話してくれればいいだけ」
マグノリアは手帳をしまうとイスにかかっていた赤い薄手のコートを差しだしてくる。
なにもしないなんてうそだ。信じられない。
カレルはマグノリアから乱暴に上着をひったくった。
女刑事は目を皿のようにまるくして、おどろいたようだった。
だが、彼女はすぐに平静な面持ちになって首をかしげる。
「……それ、そんなに大切なもの?」
答える気はなかった。上着を背中にかくして、カレルは体をうしろにひく。あくまでもひかえめに。
「こまったわね」とマグノリアがため息を吐いた。いつの間にやら彼女の右手には、鈍く銀色に光る金属製のライターが握られている。
女が持つには、いささか無骨な印象をあたえるライターをくるんと指先でもてあそびながら、マグノリアは思案するそぶりを見せた。
するりとマグノリアが一瞥をなげてくる。
じっと見られてとまどった。相手は返事を待っている。
女刑事の視線を窮屈に感じてカレルはうつむいた。
これから死刑宣告をうけなくちゃいけないと思わせる雰囲気っぽくって、なんだか居心地が最高に悪い。
だまったまま下半身にかかっている白いシーツを睨む。
カレルがなにも言わないことに落胆を感じたのか、マグノリアは重くふかくため息をついた。
「ずっと気になってたんだけど、ひとつ聞いてもいいかしら?」
なんだろう。
――嫌な予感がした。
「あなたって、<緋色>なの?」
バタン、と大げさな物音で会話が中断する。
ぎょっとなって視線が扉に引きよせられた。
「うおあ、ヤベっ。間違ってドア閉めちまったっ」
ドアが開いて、すき間からひょいと金髪の頭がでてきた。声からしてさっきの男だ。
横でマグノリアがちいさく嘆息する。
「あっち行けって言ったのに……結局、盗み聞き?」
「こっわい顔で睨むなって。いきなしへんなこと言うから、びっくりしちまって手がすべったんだよ」
「論点をさしかえて誤魔化そうとしてもムダよ」
「んー、そうきたか。ていうかさ、ここ俺んちだし。文句言われる筋合いないと思わねえ?」
マグノリアがうめくのが聞こえた。
カレルは言い合う二人から目線をはずし、窓を見やった。逃げるなら、今か。
そろりと足をベッドから床におろす。
「ミゲルのくせに言うじゃないの」
「おい、なんだよそのアテツケくせえ言いかた。ムカつくんだけど」
ゆっくりとうしろをふりかえってみるが、どちらも気づいていない。
だが、窓のサッシに触れたところで「あっ」と男が声を上げた。
まずい、バレた。
あわてて窓を開ける。鍵がかかっていなかったおかげで、あっさり開いた。
風が吹いて、のばしっぱなしの髪がなびく。
下をのぞくとせまい裏路地が見えた。高さで二階だと判断する。真下に真っ白いシーツたちが干してあるのが見えた。
「ち、ちょっと……へんなマネするのはよしなさいよ」
マグノリアのひきつった声がとんできた。
「う、うん、そーだぞ」
ふりむくとミゲルと呼ばれた男と目が合う。彼は困惑ぎみの表情でまごついてから、ぎこちなく苦笑した。
「ほら、えーと、まだ若いんだしさあ」
なんのことだろう。首をかしげたくなったが、かまうのはやめた。窓を見やる。
カレルは上着を小脇に抱えたまま、窓枠に足をかけるとするりと体を通した。
地面にむかって落下する。
上から声が降ってきた。なにを言っているのかわからない。
干してあったシーツをつかむと落下速度が落ちた。へんな手応えがする。物干しロープが切れたかもしれない。
地面に足から着地すると衝撃を殺すために前方に一回転、いきおいそのままに立ち上がる。
うしろを見上げると、二階の窓からカレルを見ている二人の姿が確認できた。どんな面持ちをしているのかはうかがない。
石畳の感触とともに着地に成功したことを実感した。息は上げっていない。
路地にはだれもいなかった。
カレルはにぎっていたシーツを放り投げると、地面を蹴って走りだす。
逃げることしか頭になかった。