#4[迷走]-1-
Un mal ido, otro venido.
(一難去ってまた一難)
*
オオカミがきた。オオカミがきたぞ。
おんおん、と鳴き声がする。オオカミはしたり顔で、獲物をだますんだ。
「だまされるほうが悪い」
オオカミは不気味に笑うと、口を赤くして獲物を食べる。びちゃびちゃと音をならして、血をなめる。
こわかった。
なにも言えなかった。
かくれて息をひそめることしかできなかった。なにもできなかった。
「だまされるほうが悪い」
オオカミはくつくつと笑って言う。
近寄ってきて、お前が弱いからだと言って、冷笑する。
暗い谷底に落とされた気分になる。
ざっと体中の血液がぬけたみたいに全身が冷たくなっていった。
・
・
・
……なんて、後味の悪い夢なんだろう。
うぉん、と犬が鳴いた。
ぼんやりしていると、足の先をべろんとなめられて「わっ」と飛び起きた。
あわててシーツに足をひっこめて、あたりを見まわす。
ベッドのかたわらで、アンバルが舌をだしてじいっとカレルを見ていた。
犬は悪びれるようすもなく、シッポをせわしなくパタパタさせている。
なんか、あっかんべーされてるみたいだ。複雑な気持ちになる。
ドアが開いていた。寝る時にちゃんと閉めたはずなのに。アンバルが開けたのだろうか。
頭をかこうとして、あらためて自分の髪がみじかくなっていることに気づく。
そういえば、みじかく切ってもらったんだっけか。やけに頭が軽いと思ったのは気のせいじゃなかったらしい。
アンバルは満足げにシッポをたてて、さっさと部屋からでていった。
頭がぼうっとして、おもったるい。
このまま横になればまた寝られそうな気がしたが、起きろってことなんだろう。
窓の外は見事なピーカン照りで、とても天気が良さそうだった。
ねぼけ眼のまま、ふらふらベッドから降りる。
ちゃんと床の上に立っているのに、地に足がつかないような、ふわふわした感じがする。
部屋をでるまぎわ、かたすみに立てかけられていた赤い上着を見て、気分が悪くなった。
――本当、夢を見ているみたいだ。
一週間前にあった誘拐事件が、遠い昔の出来事に思えた。
誘拐事件を起こした大男と青トサカは、あのあと警察に捕まったらしい。
ついでと言わんばかりに警察にいろいろ聞かれた気がするが、なにを聞かれたのかよくおぼえていない。
街をさまよったことも、もっと以前の出来事も、本当にあったことなのか疑問めいてきて、どっちが現実なのかよくわからなくてこんがらがってくる。
はっとした。階段から足を踏みはずして、かかとからズリ落ちた。ドタンバタンとあちこちぶつけたあげく、いきおいよく正面の壁に激突する。
地味に痛い。ふんばったのがよくなかったのか、逆にバランスをくずしてしまったらしい。
右手からドアの開く音がした。
「――うわっ、なんだ。そんなとこで丸まって」
おどろきまじりの声が降ってくる。
したたかに打ったデコをさすりながら見上げると、あきれ半分、おったまげた顔でミゲルがこっちをのぞきこんでいた。
いろいろ痛いんだと説明したいけど痛くてとても伝えられそうにない。
「どうしたの?」と部屋のむこうから声がする。
ミゲルは、うしろをふりかえって「なんでもないよ」と取りつくろうように言った。店にだれかいるのだろう。
よろよろと立ち上がる。
「お前さ、いいかげん寝すぎだって。のーみそ溶けるぞ。――あと、たのむからパンツ一丁でお客さんの前でてくんなよ」
突きさすような一言に、返す言葉がみつからない。
うしろめたい気分になって、突っ立ってると、いいからさっさと顔洗って着替えてこいと追いはらうようにあしらわれた。扉もあっけなく閉まる。
――仕方なく身支度をして、一階の店内に顔をだした。
カウンターの下で、アンバルがアゴからお腹を床にべったりくっつけたまま目線だけこっちにむけている。なにか言わんとしているような目だった。
「お、やっとでてきた。もう二時だぞ」
カウンター越しから世間話でもするような口調でミゲルが言う。
なんとなく気まずさを感じて、カレルはうめくようにあいまいに「うん」とうなずく。
「……あの……こんにちは」
聞きおぼえのある声に面食らった。
目をやると、小柄な少女がカレルのほうを見ていた。
彼女は店内の売り物を見ていたようだった。視線が合うと少女はちいさくはにかむ。
メレディだった。
たじろいでしまって、挨拶を返すのを忘れる。口を開こうとして、背後からやってきた人物に邪魔された。
「おそようさん、寝坊常習犯」
しれっとしたようすで車イスに乗ったラキアが眼前を通りすぎる。
おどろいたのもあいあまってへんな声がもれた。
メレディがきょとんとして、カレルを見やったまま目をしばたたかせる。
一瞬、やるせない気分を味わう。ばつが悪くなってカレルは彼女から視線をそらした。
――思考がとまる。
見覚えのあるものがとびこんできたせいだ。
「あれ? もう出かけられそう?」
うしろでミゲルの声がする。ラキアが「ご覧の通り」と返事した。
「あ……っ、じゃあ、わたし……帰ったほうがいいかな?」
あわてたようにメレディが言う。
「いいよ。好きなだけ見てってよ」
「……でも」
「いいって、いいって。……おーい。カレルくーん?」
呼ばれてはっとする。
ふりかえると「ほい」とミゲルがなにかをなげてきた。
鼻先までぴょんと跳躍してきたものを面食らいながらつかみ取る。
ひやりとした物体は細長くて、先端はギザギザした感触がした。
握った拳をひらく。わたされたのは一本の鍵だ。
まじまじとながめていると「ウチの鍵。なくすなよ」とミゲルが言った。
「部屋ばっかこもってないで、たまには出かけろって。ついでだけど出かける時は、きっちり戸締まりヨロシクな。家にいるなら店番すること。また寝るの禁止な。……ってなわけでめーちゃん、帰りたくなったらコイツに声かけてもらえればいいから」
「えっ」と喉から声がこぼれる。カレルはふてぶてしく発言した店主の顔をおたおたと見返した。
かたわらにいたラキアが車イスを切り返して、一言。
「ただクルマで送ってもらうだけだから気にしなくていいよ。おじさんのほうは、すぐ店にもどる予定だしさ」
メレディに対して言ったと思ったのだが、ラキアはちらりとカレルにも一瞥をくれた。
「ケータイ、持ってる?」と小声でさりげなく聞かれて、うろたえる。
一生懸命考えて、ポケットのなかに入れていたことを思い出した。
カレルは、こくんとうなずいて見せる。
「――えーっ、やっぱりひとりでなんて大変じゃねえ?」
ミゲルが口をはさんでくる。
「俺も手伝ったほうが楽だろ」
なんのはなしなのかわからないが、いきなり話題がもとにもどったせいでカレルは内心たじろぐ。
カレルのようすを気にもとめず、ラキアはあきれた顔になって「ひとりで大丈夫だって、もうガキじゃねーんだから」と言葉を吐いた。
どこに行くんだろう。
カレルの疑問をよそに、メレディが遠慮がちに「いいの?」とこぼす。
「いいんだよ。帰れなんて言ってないんだから遠慮しないで」
満面の笑みでミゲルがうなずいた。
「あ、あずかってるめーちゃんの荷物、カウンターのとこにあっから」
彼女が帰るときにちゃんとわたすように、と一方的に言われてカレルはきょとんとする。
ミゲルに視線で返事をもとめられて、結局うなずくしかなかった。
そこらへんにあった貴重品らしきものを手早く身に付けたミゲルは、カウンターの表側にまわると通りがかりにカレルの肩をさりげなく小突いた。
「ついでと言っちゃなんだけど……へんなコトすんなヨ」
ぼそりと耳打ちされる。
――へんなコトって。
眉根を盛大によせてカレルはミゲルを見た。口元がほころんでいるが、目が笑っていない。
無言の威圧に思わず息をのんでしまう。
ミゲルはカレルの返答を待つことなく、玄関にむかおうとしているラキアのあとにくっついていった。
ようすをうかがっていたアンバルも立ち上がって、二人のあとを追おうとする。
部屋からでるまぎわ、ラキアがぴたりと車イスをとめる。
彼は出入り口近くの壁に飾られた絵画が気になったらしかった。
一週間前、屋根裏でカレルが見つけた風景画だった。さっき気になったのもこの絵だった。
初めて店内を見た時には、街並みと塔が描かれたその絵画は飾られていなかったはずだ。
「……売るの?」
不機嫌そうにラキアが、絵のほうに顎をしゃくってミゲルに問うた。
「まさか。非売品ってフダがちゃーんと壁についてるだろ。ひさしぶりに見つけたからだしてみただけだよ」
納得がいったのか、ラキアは「ふーん、あっそ」とだけつぶやいた。
そのまま「いってきます」と言い残して、二人は出かけてしまった。アンバルもいっしょにくっついていったみたいだった。
外からクルマのエンジン音がして遠ざかっていくと、とたんに部屋のなかが静かになった。
――かつん、かつんと無数の時計たちが刻限をきざむ音だけが空しくひびく。
当惑した。
取り残された気分のまま、メレディのほうをおずおずと見やる。
目が合った。
「……なんか、ごめんね」
もうしわけなさそうに彼女があやまってくる。
一瞬なんのことかわからなくて、カレルは首をかしげた。
メレディがまごついて言葉をのみこんだのを見て、ふと彼女が言いたかったことがわかった気がした。
カレルは、ちいさく首を横にふる。
こわばったメレディの表情がやわらいだ、ように感じた。
思いがけなく緊張して汗が噴き出しそうになった。なにをどうしたらいいんだかわからなくて、耐えられそうにない。
だからといって逃げるのも、さっきの会話の手前やっちゃいけないような気がする。
突っ立っているのも耐えられなくなって、カレルはふらふらと店のかたすみにあるソファまで行くと腰をぼすんとあずけた。
「髪、切ったんだ?」
メレディに声をかけられて、こくりとうなずいて見せた。
だが、すぐに静かになってしまう。
「……やっぱりわたし、帰るね」
消え入りそうな声に、はっとする。
悪いことをしてしまったように思えた。
メレディが、そわそわとあたりを見まわす。なにかをさがしてるみたいな雰囲気だった。
見ていてだんだん落ち着かない気分になってきた。
カレルが立ち上がると、助けをもとめるようにメレディがこっちに顔をむけた。
「えっと、鞄……あずかっててもらってて……」
彼女が言いたいことはすぐに理解できた。
ミゲルの伝言を思い出しながら、いそいそとカウンターの裏側にまわってみる。
たしか彼は、床を指さしながら「ここにあるから」とかなんとか言ってた気がする。
カウンター裏のすみに大きなカゴがあった。スケッチブック二冊と鞄が入っていた。どれも見覚えのあるものだ。
――本当に帰ってしまうのか。
ふと、なごりおしさが胸中をよぎる。
気づかれないように雑念をふりはらって、かがむと鞄を手にする。
これのことかと鞄を差しだすと、メレディは遠慮がちにうなずいて受け取った。
のこりのスケッチブックを取ろうとして、なぜか動きがとまってしまった。
「どうしたの?」
「……なんでも、ない」
顔をのぞきこまれて、あやうく動揺しそうになる。
妙な違和感があった。
うろたえながらもスケッチブックを取って、メレディに手わたす。
どうして、群青色のスケッチブックの表紙はあんなにすり切れて古ぼけているんだろう。スペアミント色のスケッチブックは真新しくて新品同様なのに。
理由を聞こうと思って、口を開きかけた。
――コツコツとガラスをたたく音がする。
窓のほうからだ。
目をぱちくりとさせて、メレディと顔を見合わせた。
「なんの音かな?」
難しい問題をだされた気分になって、カレルは首をひねった。
窓まで歩みよって外をのぞいてみる。窓枠の下あたりから、子供の頭がちらりと見えた。
「あれ? エミリオ君だ」
いつの間にとなりにやってきたのか、メレディが意外だと言わんばかりの声を上げた。
二人の視線に気づいたのか、エミリオはひょっこり顔をだしてメレディに手をふる。
もう一人、見おぼえのない少年が顔をみせた。カレルと目が合うとなぜか「べっ」と舌をだす。
カチンときた。今日で二回目だ。
「――えっ、あ……え、エミリオ君とお友達、なにしにきたんだろうね?」
「知らない」
明るくつくろったメレディの発言を、カレルは切り捨てるような声音でさえぎる。
「……そ、そうだよね」
しゅんとなってメレディがうつむいた。
彼女の横顔を見て、しまったと思った。
弁明しようとしたが「どうしたのかな……?」とメレディが声を上げたせいで、言葉が口のなかでとどまってしまった。
「なんか、よばれてるみたい」
毒気をぬかれて、カレルは彼女の顔をまじまじと見返した。
「子供はお店に入っちゃダメって怒られちゃうの。お店のもの壊しちゃうといけないからって」
だから二人とも骨董品店には入ってこないのか。合点がいった。
「もう行くね」とメレディは遠慮がちに笑って、きびすを返した。
――おいていかないで。
悲鳴にも似た叫びが、頭のなかでひびく。視界が真っ二つに割れてゆれ動いた。
めまいが襲ってくる。
「あ……ま、待って!」
メレディがビクついてふりむいた。
自分でもおどろくような大きな声だった。
なに言ってるんだろうと、たじろいでしまう。
もごもごと「ごめん」と謝罪をしながらカレルは視線をそらした。
「あ、えっと……」
彼女がこっちのようすをうかがう気配がする。
コンコンコンと急かすように窓をたたく音がした。
意識が窓のほうにひっぱられた。なんか、うざったい。
「……いっしょに、行く?」
ひかえめなトーンでメレディが聞いてきた。
そろりと彼女を見やる。
――前にも同じようなことがあった気がする。
ためらいを感じつつも、カレルはちいさくうなずいた。
はたと我に返って、今なにをしたんだ自分は、と心のなかで不可解に思ってしまう。
べつに見送ったっていいじゃないか。ただ、ひとりになるだけなのに。
気がつくと骨董品店の扉を閉じて、鍵をかけていた。
刺さった鍵をひっこぬいてから、手のなかの鍵をまじまじと見つめる。
胸中でうごめく不快な感覚。へんな違和感がする。
ぼんやりとドアに目をやった。
扉にはめこまれたガラスに自分の顔がうつり込んだ。憮然とした表情でカレルがこちらをじっと見ている。
突然、虚像がざっとゆがんで黒い影が姿をあらわれした。ズキリと心臓が痛む。
――メレディが甲高い声を上げた。
現実にひきもどされて、カレルは声がしたほうをふりかえる。
玄関に隣接するせまい道のすぐそばに表通りの歩道があるのだが、その歩道で彼女が尻もちをついていた。
カレルは何事かとメレディのそばに駆けよった。
「うわ、まずい」「にげろ」と道の向こう側から声がする。
エミリオと知らない少年がバタバタとあわただしくトンズラしていく。
追いかけるべきかどうか迷って、逃げていく少年たちとメレディを交互に見やる。
歩道には、彼女の鞄の中身がこぼれて、ぶちまけられていた。
迷いに迷っているうち、子供二人の姿は道のむこうに消えていた。あっという間だった。
メレディはというと、ぶちまけられた鞄の中身をひろいはじめていた。
かける言葉が見つからなくて、カレルは、歩道の上でぶざまに表紙と裏表紙を広げているスケッチブックをひろいあげると、表紙を閉じてメレディに差しだした。
スケッチブックは、スペアミントの色だった。
彼女は弱々しく苦笑してから、立ち上がって「ありがとう」と受け取る。
カレルは、じっとメレディのようすをうかがった。なにもなかったんだろうか。
「……いきなりぶつかってきたから、びっくりしちゃった」
言って、彼女は服についたホコリをぽすぽすはたき落とした。
大丈夫だったらしい。
口癖なのか、メレディは「えっと」と口にして、地面を見まわす。
ふいにメレディの顔がだんだんと不安そうな表情になっていった。
「ど、どうしよう……」
よくないことが起きたことだけは、カレルでもすぐにわかった。顔をしかめる。
「スケッチブック、一冊だけ……持っていかれちゃったみたい……」
おきざりにされた子供みたいな面持ちで、メレディはちいさくつぶやいた。
やっとヒロイン再登場……。




