#3[見えない、壁]-1-
Perro ladrador, poco mordedor.
(ほえる犬は咬まない)
*
クエルボ通りの使われていないモーテルに金をもってこい。そこで子供と交換だ。
もちろん、へんな小細工したら子供はどうなるかわからないぞ。
警察に通報するのもナシだ。
売っちまったってかまわないんだぞ。子供をほしがるウラの業者つーのはゴマンといるからな。
いいか、<緋色>一人でこさせろ。かならずだ。
フロレンシアから聞かされた相手の要求を思い出しながら、指定された裏通りの安ホテルを見上げる。
黒くぬりつぶされた空にとけこむようにそびえ立つ建物には、人の息吹も感じない。
死んでいるとさえ思えた。
街灯にうつしだされた三階建ての建物の姿は、うす汚れた幽霊みたいだった。
ペンキのはがれかかった外壁と割れた窓ガラスたちが、もう朽ち果てるだけだと無言で訴えている。
モーテルからもれる窓明かりなどなかった。かつてまばゆい光をはなっていただろうネオンの看板も壁からはずれかけて、落ちまいと必死にしがみついている。
スポーツバッグの持ち手をにぎる左拳に自然と力が入った。重い。
すいこむ空気も荷物もなにもかもが重かった。
昼間は暑いくらいだったのに、すこし肌寒い。
赤い上着のフードの襟元をたぐりよせて、ふかくフードをかぶりなおした。
扉にむかって突きすすむ。
進むたびに足底がジャリジャリとした。感触からして窓ガラスの細かい破片を踏んでいるらしい。
入り口前の石段を登ると、柵がわりになっているはずだった鉄パイプがはずされてナナメになっているのに気づく。
不器用にくくりつけられた看板には『立入禁止』の文字。
視線を入り口の扉にもどす。
両開きの扉は木製で、むこう側が見えない。右手を押しあてる。
ギ、と扉がうなった。
力をこめて扉を押し開く。思ったより力は必要なかった。
不気味な鳴き声を上げて、建物が口を開く。
――なかは真っ暗だった。
じっと耳をすませながらモーテルのなかに足を踏み入れた。息がひそまる。
軋んだ音で、扉が閉まったのだと認識する。
明かりは外のたよりない街灯だけだ。
目がなれてくる。ほの暗いが、広がるロビーの先にこぢんまりとした受付カウンターが見えた。
白い光がとびこんできた。おどろいて光をさえぎる。まぶしい。懐中電灯の光か。
「ヌァッーハッハ!」と聞きおぼえのある哄笑が耳に突きささる。
だれのダミ声なのかはすぐにわかった。
「よくきたな<緋色>。約束のものはもってきただろうな?」
だまって、持っていたスポーツバックを眼前に持ち上げた。相手への返答として。
「よし、いいだろう。おとなしく金を下におけ。いいか、ゆっくりだぞ?」
相手に見えるようにうなずいた。光がまぶしくて、片腕を下げることはできない。
かがんでバッグを床におこうとした。差しだすよう縦にして。
すかさず「シプリアノ」とダミアンが命令を口にする。
大男がまっすぐそばに寄ってくる気配がした。白い光が逆光になって相手の顔は見えない。片腕のせいもある。
わからなくたって十分だ。
シプリアノの古ぼけた靴が視界のすみにうつる。バッグを床におこうとした一瞬。
――相手のアゴにむけてバッグを振りあげた。
おどろいたのか、大男がぐらつきながら後ずさりする。
あえなく空ぶり。
「つぶせ、シプリアノ! すこしくらいケガさせてもかまわないが殺すんじゃねーぞ。ワビ入れる手土産として連れて帰るんだからな!」
間髪入れずに大男が黙したままつっこんできた。顔面にむかって拳がとんでくる。
頭を横にずらしてよけた。紙一重のところで空を切る音がした。
引き下がることなくバッグを相手の鳩尾に打ちこむ。
シプリアノが一瞬ひるんだ。
だが、ヤツは持ち手をつかむこちらの右手を強くはたき落としにかかろうと、腕をふりあげる。目には憤激の気配が見てとれた。
あわててうしろにとびのく。
でかい体のわりには速い。逃げようとするとシプリアノは吸いつくように間合いをつめてくる。
思わず胸中で舌打ちした。
「コラ、手をぬくな! つぶせ!」
横目でハエのように小うるさいダミアンの居場所を確認する。小人はこりもせず受付カウンターの上にちょんと仁王立ちしていた。
――いらだちも手伝ってか、いきおいまかせにバッグをダミアンにむかって投擲する。
「んがっ!」
見事にクリーンヒット。ダミアンはど派手な音を上げてカウンターから落っこちた。
成功を噛みしめる暇もなくシプリアノの猛襲が降りかかってきた。
重心をずらして攻撃を避けるも足がもつれて、たたらを踏む。
カウンターを背にする格好で追いこまれた。奥歯を噛みしめる。
逃げるので精一杯だった。
大男がニヤつくのが見てとれる。見下されているとすぐに察した。
「――クソがっ、てめえ! どういうつもりだ!」
唐突にダミアンの怒号が上がる。
ふっと笑いがこみ上げてきた。
シプリアノが何事かとピタリと動きをとめる。
受付カウンターの脇からダミアンがいそいそと這いだしてくる。
とたんにヤツは地団駄を踏んでこっちにむかってバックをぶん投げた。
バックはあさっての方向にとんでいきつつ、たくさんの紙片をはらはらと空中にまき散らしていく。
「コノ野郎っ、だれがただの紙きれなんてよこせと言った! 約束とちがうぞっ!」
「……うーん。まあ期待するほうが悪いかな、この場合」
世間話でもするようなノリで、リボルバーをつきつけた。
撃鉄の上がった銃口はダミアンの脳天を見すえている。距離は一メートルもない。
シプリアノがうめいて、こちらを睨んできた。
「――お前、ちがう……!」
「悪いね、<緋色>じゃなくて」
ミゲルはうすく笑って、邪魔だったフードを取る。銃は相手につきつけたままだ。
「あ、月なみなセリフだけど動いちゃダメだかんね。――あれ? なんか一人たんないけどなんでかな?」
首をかしげつつあたりを注視するが、青トサカの姿は見当たらない。
「キサマには関係ないだろがっ。まさかお前、サツのまわしものかっ?」
「いや、ちがうよ。俺はただのゴミ拾い役でしかないし……って言ってもわからないか」
「はあ?」
予想どおり、目を点にされてしまう。
事情を説明してもよかったが、あえて放棄することにする。もともと教える義理はないのだし。
「――さて、さっさと本題にいこうか。アンタら<オルカ>の連中だろ?」
地元に根ざすマフィアの名前をだしたとたん、強盗たちの表情が凍りつくのが見てとれた。返事はない。
「答えたくないならいいんだけど、ちょーっと気になることがあってさ……いろいろ教えてほしかったんだけどなあ」
「子供のコトはどうでもいいのか」
シプリアノが低い声で聞いてきた。
「どうでもよくないよ? さっさと返ししてもらわないとこまるしね。その前に聞きたかったんだ。<緋色>なんてだれもが知ってる名前じゃないん――でえっ!」
足の甲に痛みが走ったせいで、ミゲルは文字通りとび上がった。
思いっきり強く足を踏まれた。やられた。
相手がちいさすぎて、ダミアンが近づいてきていたことに気づかなかった。
「こんのチビ……!」
さすがにマジで腹が立ってこざかしい小人をひっつかまえようと手をのばす。
紙一重のところで、シプリアノがダミアンをかっさらって、階段へと遁走した。
「――ざまあみろ! ヌァーッハッハッハ」
ダミ声の哄笑が遠ざかっていく。
「って、おいマジかっ!」
反射的に声を上げて追いかけようとするが、しびれるような足の痛みにくわえて腰の鈍痛が襲ってきた。昨日の大立ち回りで打った腰の痛みか。
ついその場にうずくまってしまいたくなる。
「あーあ……なんだよ、もう。最悪だな……」
息を吐きながら、強盗もとい誘拐犯たちがのぼっていった階段を見つめる。
「上に行ったってことは、一階にはエミリオはいないってことかね」
階段の向こうは、真っ黒な口が大きく広がっているだけで、やけに不気味に思えた。




