プロローグ
2014年に完結させた小説です。
ちょこちょこ投稿していきます~。
知覚できるのは、床の冷たさだけだった。
指先も足の先も芯まで冷えて、感覚がない。
目の前には暗闇しかない。自分が起きているのか寝ているのかさえもわからない。
ふたつの手首には枷がはめられて自由がきかない。
手のひらを切った血はもう乾いている。
はめられた金属製の枷は、氷みたいにひやりと冷めていた。
自分に許されたことは待つだけで、言われたとおりに動くことが自分の仕事だ。
ぼんやりとなにもしないまま、一日ずっと待っているだけで終わることもある。
退屈をむさぼる唯一の方法は睡眠だった。
手持ちぶさたになって寝がえりをうつ。
重い。動かした体が自分自身のものとは思えない。
先ほど目が覚めたばかりで、眠ることはできなかった。
部屋の外から、聞き覚えのある何人かの話し声が聞こえる。
ガチャガチャと、階段をのぼった先にある扉の鍵を開ける音がする。
ぼんやりと虚空を見た。まわりは、ほとんど闇におおわれていて、なにも見えない。
――――耳ざわりなうめき声をあげて、扉が開く。
入りこんできた明かりが目に突きささって痛くて、光を追いやるために目をきつく閉じた。
だれかが階段を下りてくる。何人だろう。
数える気は起きない。
眼前までくると音はぴたりとやんだ。
「起きろ。<緋色>」
ふってきた声は冷たくしゃがれていて、幽寂そのものだ。
まぶたをゆっくり持ち上げる。
完璧に磨き上げられた革靴が見えた。
視線を上げると、杖を右手に握った老人がしずかに佇んでいる。
厳しい顔つきをした老人が身につけているのは文句のつけようがない高級そうなスーツだ。
杖の持ち手は、オオカミの頭がモチーフになった銀色の細かい装飾がほどこされている。オオカミの面は怒りに醜くゆがんでいた。
老人の顔には右こめかみからアゴにかけて大きな傷がある。
よく知っている顔と目が合って、つい無意識に顔をそむけてしまう。
射るような視線を感じながら、ゆっくりと身を起こした。
両手をふさがれているから思い通りにいかない。
したたかに背中を打ちすえられた。杖で殴られたらしい。
痛い。じくじく痛みがひびく。
「早くしろ、できそこない」
飼い主は、静かな怒気をはらんで言葉をつむいだ。
やっとのことで座る体勢になった瞬間に、手下に横から腕をつかまれた。
相手の指は、なぜか震えている。
手錠をはずされたらしく、両手が軽くなった。
夢見ごこちのまま両手の感触をたしかめる。
傷だらけの手のひらと新しい切り傷。
血がかわいているせいで冷たくてざらざらする。
立ちあがると、うながされるまま階段を上って閉じ込められていた部屋をあとにする。
今日は、なにを壊せばいいんだろう。
飼い主に疑問をなげるような愚行は犯さなかった。
命令を実行するだけでいい。反芻する。
ガラの悪そうな数人の男にかこまれて、ふかふかする絨毯の廊下を歩いていく。
実行するだけでいい。何度も反芻した。
ぶたれた背中がまだ熱を持っているせいで痛む。
だが命令に反するため歩みはゆるめない。
耳もとで低くグルグルと喉をならす声がした。
ずるずるとはい上がるように現れた影の存在には、誰も気づかない。
黒い影は重低音をもらしつつ、こちらの顔をのぞきこんでくる。
顔のかたちは爬虫類に似ていた。影はその背中にあるコウモリの翼のようなものを大きく広げた。
漆黒が、獲物に食らいつく獣のようにするどい爪を立ててこっちの体のなかに侵入してくる。
テレビのコンセントをいきなり引っこ抜いたみたいに目の前が真っ黒に染まった。
なにがあったのか周囲は気づいていない。
だが、自分自身にとって目の前で起きていることはまぎれもない現実だった。
真っ暗闇のなか、すすり泣きが聞こえる。
泣き声は何度も何度も許してくれと懇願している。
ああ。わずらわしい音だな。イライラする。
手のひらがズキズキと痛む。刃物をにぎってまた切ってしまったのかもしれない。
でも、どうでもよかった。
痛みを感じないとオカシクなってしまいそうだから、切ってしまう。
だから、どうでもいい。
ひやりとしたほこりっぽいニオイが鼻腔をくすぐった。
視界がクリアになる。
すたれた廃倉庫のなかはうす暗い。
いつもの場所だった。
天井に穴があいているせいで、ところどころ上部から月明かりがこぼれ落ちている。
広い空間の両端には、使われなくなった機具たちが並んでいて、くたびれてうす汚れた厚手のビニールがかぶせられていた。
劣化した廃材や鉄パイプが山積みになっていて、いっしょに古ぼけた小物や雑貨もちらばって全体的に雑然としている。
自分は、飼い主のうしろ姿についていくだけでよかった。
右手でなにか握っているのに気づく。
視線を落とすと抜き身のマチェットを手にしていた。
倉庫の一角で、血だらけになったモヒカン頭の若い男が結束バンドで両手をうしろに束ねて体を折り曲げた状態でころがっているのが見えた。
髪型はニワトリのトサカみたいだが、髪の毛の色はペンキをこぼしたような青色だ。
泣き声は青トサカのもので、粗忽を絵に描いたような三人の男たちにかこまれて精一杯の抵抗のつもりなのか一心不乱に首を横にふりながら耳ざわりで大げさな鳴き声をもらしている。
青トサカがこっちの姿に気づくと「イヤだ!」とわめきながら芋虫のように地面をはって逃げだそうとした。だが、男たちにがっちりと押さえつけられて一センチも動けずにいる。
飼い主が青トサカたちの前で立ちどまった。
自分も同じように歩みをとめた。
「こわいか?」
飼い主は絶対零度の声音で言うと、ゆっくりかがんで青トサカの顔をのぞきこんだ。
「しかし、ルールを破ったからにはそれ相応の責任をとらねばならないのだよ」
青トサカの表情が、みるみる青ざめて枯れていく。
またわめき叫ぶのだろうなと思ったが、スーツの男の一人が手慣れたようすで青トサカの口に布きれを詰めこんだせいでウーウーとしか聞こえなかった。
「たとえ君のような若者であっても責務はついてまわる」
飼い主は悠然と姿勢をただしてから、首をめぐらせてこちらを見やった。「好きなように『壊せ』。動かなくなっても問題ない」
―――命令だ。
うなずくことなく無言のまま前に歩みでる。
トサカ男のおびえた目にうつるのは、フードがついた赤いコートを着た自分の人影。
握っていたマチェットを逆手に持ちかえて、静かにかかげた。
さて、首筋をかき切るか。
いたぶって苦しませて逝かせるのか。
いっそのこと心臓めがけて刃を突き落とすか。
好きにしていいと言われて、どれにするのか迷った。
どちらにせよ命令に従えばいいだけのこと。
―――突然、バンとなにかを破裂させたような音が耳をつんざいた。
糸が切れたように飼い主が地面に崩れ落ちる。
銃声だった。
スーツの男たちが何事かとざわめきだす。
周囲に視線をめぐらせた。撃ってきた相手の姿は見えない。
手下たちはおのおの懐から拳銃を取りだして警戒の姿勢をとった。
「さがせ!」と怒号がとびかう。
男たちをあざ笑うかのように銃弾が二度吠えた。
さっき音がした方向からではない。
今度の銃弾は見当ちがいの場所に被弾した。にもかかわらずスーツの一人が派手にぶっとんで、廃材と鉄パイプの山に頭からつっこんでいった。
自分は突然のことにとまどい倒れたスーツ姿の男を見下ろしたまま茫然と立ちつくすことしかできないでいる。
かたわらで、青トサカが泣きながら地面をはって逃げ出すのが見えた。
獲物を逃がすわけにはいかなかった。
命令にそむいてしまうからだ。
べつのスーツが発砲し呼応するように敵の銃声が派手にとどろく。
自分は手をのばして青トサカの肩をつかもうとした。
肩にふれようとしたとき、飼い主の配下のくぐもったうめき声がうしろから聞こえた。
ふいに背後で嫌な気配がして、こっちがふりむこうとした寸前、強い力で後頭部を殴打された。
目の前がぼやけて体のバランスが崩れたかと思った瞬間、地面につっぷすように崩れて全身をしたたかに打ってしまった。
ふいに、どうしてここにいるのかわからなくなった。
体中の痛みが遠のいていく。
まわりの物音がくぐもってよく聞こえない。
視界の端で、黒い影がこぼれて流れだしていくのが見えた。
とろとろとコールタールのように漆黒は地表をなめて広がっていった。
頭がぼんやりする。まぶたが重くなっていく。
冷え切った地面が血液すべての熱を吸いとっていくみたいでなんだか寒い。
―――どうして、こんなところにいるんだろう。
電源が切れたみたいに、ふっと意識が途切れた。