『ハナ』
紗子に引っ張られて、市内の大きなショッピングモールを歩いていた。
二十代も後半になって誰かと手をつないで歩くのは思いの外恥ずかしかったが、すれ違う人はみな忙しそ
うに足を動かし、こちらに注目する人はいなかった。
休日だからだろうか、随分と人が多い。
片田舎に住み、普段の買い物は近くのスーパーマーケットか、そうでなければネットショッピングで済ませてしまう私は人混みを得意としていなかった。人混みに酔い始めた時、視界が開け、ずっと握られていた手が離される。
どうやら目的地に着いたようだ。
◇ ◇ ◇
古いアパートの、安っぽいインターホンの音が二日酔いの頭に響く。
毛布にくるまって無視していたそれに「はぁい」と返事を返したのは、インターホンの音が二十を数えてからだった。
「ペットショップ、行くよ!」
ドアを開けるなり、来客はそう宣言した。
来客の宣言に驚いたかと言われれば、驚かなかった。
来客―――紗子は高校時代からの友人である。
明るく溌剌とした性格で、友人も多い。容姿も能力も人並み以上にある彼女ではあったが、代わりのように欠点とも呼べるしぶとさを持っていた。
その厭う点を持ってしても、謗言も耳に入らないのだから、それだけで彼女の人の良さが知れようというものだ。
しかし、笑い話にしろ、そのしぶとさをめぐってのエピソードには事欠かない彼女であったから、鳴り止まないインターホンに叩き起こされたとき、これは紗江子だと半ば確信したのである。
遠慮のかけらも見せずに家の中に入るなり、紗子は悲鳴じみた声を上げた
「ひどい部屋だなぁ。何日引き籠もってたの」
「三日」
「うぇ。せめてゴミは片付けなさいよ」
慣れた手つきで散乱したビールやらチューハイやらの空缶を片付け始める紗子により、多少部屋がみられるものに変わっていく。まさか客人にすべてを任せるわけにもいかず、倣うように部屋の掃除を始めた。
こうしてみると、紗子が「ひどい」と評した意味がわかる。三日間なにもせず、ただひたすら酒を飲み、寝るだけの生活をしていたのだから当然ともいえるが、その事実に気づかぬほどに私は疲れきっていたのだ。
なにせ、ここ数日の私ときたら、今が人生で最底辺だと疑っていなかったのだから。
きっかけは彼氏と別れたことだ。そんなことと思うものもいようし、ただその文字だけを飲み込み、さらに事が己のものでなければ私もそう言ったのかもしれないが、もう十年近く付き合い結婚も考えていた相手と三十路を手前にして別れるというのは想像以上に心身に響くものだった。
仕事のほうもうまくいかずに低迷している状態だったのも手伝ってか、私の心は簡単に折れてしまったのである。
小さいころからの引き籠り癖は今も健在だった。旅行に行くつもりで撮った五日間の有給までは普段通りに出社したことだけが学生時代との差だった。いい大人のくせにこんなことで引き籠っている自分が情けなくて悔しくて、飲み込んだ酒の分だけ泣いていた。
紗子はそんな私の様子を人伝に聞いたのだろう。
そうでなければ仕事熱心な彼女が、平日の真昼間に私服で場末のボロアパートを訪れる理由はない。
部屋が引き籠る前よりも綺麗になったところで、紗子はこちらに向き直った。
「よし、行こうか」
「嫌だけど」
即答すると「なんでっ」と頭を抱えられた。
「私、動物苦手だし」
「人間だって動物だよ⁉」
「それはまた別だけどさ」
「行こうよ、動物可愛いよ。失恋だの寂しいだの、そういうのは可愛い生き物見てれば忘れちゃうって」
言って、紗子はハッとしたような顔をした。どうやら失言だと思ったらしい。平然としていると、紗子は気にしないことに決めたようだ。
今度ウチでもペット飼おうって話になってさ、と笑う彼女の左薬指には銀色のリングが鈍く光っている。
一昨年結婚した彼女にはまだ子供がいない。
「欲しくないわけじゃないんだけどね。あたしもまだ若いし、まだ仕事続けていたいからさ」
そう言っていたのは結婚式の時だっただろうか。
「ねぇ、行こうよ。ちょっと外に出るだけだって。付き合ってよ」
ねぇ、ねぇ、と楽し気に服を引っ張る紗子にひとつ溜息を吐く。
「わかったよ、行くよ」
早々に抵抗するのを諦めたのは、やはり彼女のしぶとさを知っているが故だった。
なに、紗子の言う通りちょっと外に出るだけだ。
最寄りのペットショップは、電車で駅を五つ越し、そこから歩いて十分。車を飛ばして三十分のところにあるのだから。
◇ ◇ ◇
暦の上では既に秋。
最近ようやく涼しくなり始めた街は、夏が蘇ったかのような蒸し暑さに覆われていた。
空調のきいた部屋で選ばれた服は照りつける太陽の下では暑いと感じるほどで、もう少し薄着をリクエストしていればよかったと後悔したが、すでに遅かった。
コーディネートをしたのは紗子だ。趣味のいい彼女が選んだ組み合わせは「こんな服あっただろうか」と思うほどではあったが、私では服に着られている感が否めない。
地味な私とは違い、オレンジブラウンの髪に緩くパーマをかけ、最新の流行であろうワンピースを着こなす紗子は歩くだけでも華がある。
学生時代から目立つ彼女であったが、結婚してからもその魅力は衰えていないようだった。
自然と一歩後ろを小さくなって歩いていると、紗子がそれに気づいて私の手を握った。そのまま速足で進む。引きずられるように付いていけば、いつのまにかショッピングモールの中に入っていた。
大きいショッピングモールではあるものの、たかだかペットショップのことであるから、さして大きくないだろうとたかを括っていた。
しかし、すぐにそれは間違いだと気付く。
ひらけた空間を広々と使った配置は、商品が敷き詰められたほかの店とは違い、時折混じる鳴き声を考慮しても落ち着いた雰囲気があった。
「なかなかいいでしょ?」
小洒落たカフェに誘った時のように誇らしげにこちらを見る紗子に頷く。
「もっと雑多な場所かと思ってた」
「確かに、ほかの店はわりとそんな感じだもんね。ここ、珍しいペットとかもいるみたいだね」
慣れない場所に圧倒されている私をよそに、紗子はどんどん先に行く。仕方がないから私もついていく。
猫、犬、兎、ハムスターなどの王道とも呼べる動物たちを過ぎれば、金魚や亀、グッピー、ネオンテトラなどの熱帯魚。狐や狸、獺なんかもいた。
きゃあきゃあと騒ぐ紗子ほどではないにしろ、さしてペットショップにはいかない私ですら珍しいとわかるほど豊富な種類の動物が伸び伸びとしていて、まるで小動物だけを扱った動物園を訪れたようで、なかなか悪くない気分になっていた。
いつの間にか、一歩引いていた足は紗子に並んでいた。
動物、可愛いじゃないか。
そう思い始めている私がいることに気付いた。
思えば、小さい頃は犬を見て「可愛い」と撫でていたし、捨てられていた猫を見ては連れて帰りたいと騒いだ覚えもある。
幼い頃は、確かに動物が好きだったはずなのだ。
いつ苦手と思うようになったのか、記憶を辿ってみたが、霧がかかっているようで思い出せない。妙に引っかかるような感覚があるものの思い出せないものは仕方がない。
大方成長するにつれて考えが変わっただけだろうと思うことにし、せわしなく動き回る動物たちを見ることに努めた。
長方形に広がる建物の最奥まで行くと、聞きなれない騒がしさに包まれた。
インコ、オウム、ヨウム、九官鳥にカナリア。
様々な鳥たちが綺麗な声で鳴いたり、野太い声を出したり、時に意味も分からない言葉を叫んでいる。
「鳥って意外と長生きなんだ」
オカメインコの下に書かれたプロフィールには、「寿命:二十年」と記載されている。もっと大きい鳥では、五十年と書かれているものもあった。
妙なところで感心していると、紗子が肩をたたいてきた。
「ちょっと、こっち見てみてよ!」
促されるまま、紗子の指さす方向に目をやる。
赤、青、緑、オレンジ。痛いほど発色のいい、色とりどりの小さな生き物たちが、この場一番の騒がしさで鳴いていた。
「……カラーひよこ」
「懐かしいでしょ?昔はよく売ってたよね。学校の前でとか、お祭りのときとか」
最近は全然見ないから、もうなくなったのかと思ってたんだけど。びっくりして叫んじゃった。
嬉しそうに語る紗子と真逆に、私は茫然とひよこたちを見つめていた。
びよびよと鳴くひよこたちの声が、霧を急激に晴らしていった。
◆ ◆ ◆
私の育った家は貧しかった。
ひもじい思いはしたことはなかったが、まわりの子のようにおもちゃを買ってもらったことはなかったし、外食だってしたことがなかった。
それでも私が不満を親に言うことがなかったのは、母が食事をしているところを見たことがなかったからだった。
おそらく母は、自分の食べる分を私と五つ年下の弟に食べさせてくれていたのだろう。そして、贅沢を言って残したものをひとり食べていたのだ。これは中学に入ってから初めて気づいたことだったが、子供とは案外聡いもので、それよりずっと前から「我が家は貧乏なのだ」とぼんやりと察していた。
もう二十年以上前になるだろうか。
小学校に上がったばかりか、それより少し前の話である。
その年は百貨店を建てるための大規模な工事があった年だった。
百貨店ができれば商店街は廃れる。地元の反発を少しでも抑えようと、百貨店がスポンサーを名乗り出た市の祭りは、今まで見たことがないような賑わいを見せていた。
その日の夕暮れ前、私は父に連れられて幼い弟を背中に背負い、大通りを歩いていた。
花火大会があるのだという。それを見るために、大橋近くの公園に向かっているのだった。
立ち並ぶ屋台からおいしそうな匂いが漂ってくる。じゅうじゅうと何かが焼ける音や、油のはじける音、ふわふわの綿あめ、手のひらに収まらないくらい大きなりんご飴。それらを嬉しそうに頬張る子供たち。
お腹は減るし、羨ましかったが、それを言うときっと父は困るだろうと思ったから、懸命に地面を見つめて歩いていた。
すると、目を向けた先に、夕焼けよりも濃いオレンジ色の花が咲いていた。
その花は「ぴょっ」と鳴いて走ってく。不思議に思って、父とつないでいた手を放して追いかけた。
大通りを外れると、先ほどまでとは違った騒がしさに包まれた。
段ボールの箱の中、「ひよ、ひよ」「ぴょ、ぴょっ」と甲高く鳴く花たちの中にオレンジ色の花はいた。
「……ひよこ」
呟くと、返事をするように花は「ぴょっ」と鳴いた。
色とりどりの花は全てひよこだった。目に痛いくらいのカラーリング。もぞもぞと動いていて、手を突っ込んだらくすぐったかった。
「可愛いでしょう。こいつら、お嬢ちゃんのこと気に入ったみてぇだ。一匹連れ帰ってみねぇか」
しばらくそうしていると、腹の膨れた、狸の信楽焼のような中年の男が話しかけてきた。口ぶりから察するに、カラーひよこを売っている者なのだろう。
いつの間にか父が後ろに立っていた。
「父ちゃん」
きっと駄目だと言われると思った。しかし、予想に反し、父は少し考えるそぶりを見せた後、「欲しいのか」と訊いた。
慌てて頷くと、父の気が変わらないうちにと一匹だけ選んだ。
ここまで連れて来てくれた、あのオレンジ色のひよこだ。きっと同じひよこ。だって、箱の中にオレンジ色はこの子だけだったから。
手ですくったひよこを見せると、信楽焼の男は小さな紙の箱をくれた。ここにひよこを入れろということなのだろう。
「大事にしろよ」
おじさんにわしわしと頭を撫でられて、私は「うん!」と返事を返した。
ひよこを連れて、もとの大通りを歩き始めた。
ひよこの名前はすぐに決まった。「ハナ」だ。花に見えたから、ハナ。
子供らしい安直な名前だった。
その日見た花火はきっと大きくて綺麗だったのだろう。
しかし、私はハナに夢中だったから、その景色を覚えていなかった。
私とご飯を分け合って育ったハナは、二か月もするころにはもうほとんど鶏のようになっていた。鮮やかなオレンジも一度水浴びさせただけではげ落ち、今では「花」の面影もない。
それでもハナは私のお気に入りだった。友達だったし、姉弟だった。
同じ年の秋、私は珍しく小躍りしたいほど浮かれていた。
先ほど閉会式が終わったばかりの運動会のかけっこで一位をとったのだ。
一緒に走る予定だった足の速い子が風邪で欠席した故の一意ではあったが、運動が苦手な私からしたらそれでも十分だった。
そしてなにより、父が「頑張ったな」と褒めてくれたのが嬉しかった。父は寡黙な人であったから、そのように真っすぐに褒めてもらうのは初めてのことだった。
スキップをしながら家に帰れば、香ばしい匂いがした。
祭りの時に屋台から漂っていたような、おいしそうな匂い。
珍しく、父が台所に立っていた。母があまり得意ではない肉料理は父が作ることが多かった。
「ごちそうだ!」
家ではめったに食べられないお肉が食べられる。期待に満ちた声で言えば、「飯にするか」と呆れたように言われた。
母を手伝い、食事の用意をする。米とみそ汁を前に待機していると、ばちばちと音をたてて、皿に盛られた唐揚げが目の前に置かれた。
母は最初に主菜に手をつけるのを嫌がる人だったから、慌ててみそ汁を半分飲み干して唐揚げに箸を伸ばした。
カリッと音がして中から旨味が溢れ出る。肉汁は少ないが乾いているわけでもない。辛めの香辛料が何とも食欲をそそって、米を口いっぱいに頬張った。
いっぱいいっぱいになりながらようやく一つ食べたところで、私はハナを呼んだ。
私だけこんなご馳走を食べるのは申し訳ない。唐揚げは食べないだろうがみそ汁に入った豆腐も食べるし、米はもっと食べる。今日はレタスもあげよう。いつもよりいっぱい食べさせてやろう。
ところが、いくら呼んでもハナは来ない。
人懐っこいハナは普段であれば一度呼んだだけで飛び跳ねながら駆け寄ってくるのに。
「父ちゃん、ハナ、どこにいったの」
不安になって尋ねると、父は怪訝そうに首をかしげた。
「ハナなら今お前が喰ったじゃないか」
◆ ◆ ◆
思い出した。
あの日大泣きして以来、動物を飼ったら皆父に料理されて喰わされてしまうような気がして、自ら動物を避けるようになったのだった。
それがいつの間にか「動物が苦手」という感情に代わってしまったのだろう。
まだいたいけな子供になんてトラウマを植え付けてくれたんだと怒っても、数年前に他界した父にはすでに届かない。
よく思い出してみれば、きっと父は最初から喰うつもりであの日ハナを買ってくれたのだと思う。
目の前で鳴くひよこたちがあの日の花たちに重なって見えて、いたたまれなくなって目をそらした。
「もう出よう」
そう言うと、紗子は不満そうにしながらも頷いた。
外に出ると、空は赤紫に染まり始めていた。思ったより長居をしていたらしい。
日が落ちた瞬間の色が、初めて会った時のハナの色だった。
ぼんやりと眺めていると、ぐう、と音が聞こえた。紗子が恥ずかしそうに腹を抑えている。
「お腹すいちゃった。何か食べに行こうよ。奢るし」
「何が食べたい」と訊かれて、真っ先にひとつの料理が浮かんだ。
「―――唐揚げ」
街は秋らしい涼しさを取り戻しつつあった。