第97話 もう、二度と忘れない
「……クソ。分かったよ。俺の負けだ」
ついに番野が負けを認めると、八瀬は、うんと頷いて拘束を解いた。
「おっ、とと」
すると、不安定な態勢で解放されたためか、番野は着地時にバランスを崩してしまう。が、正面にいる八瀬が受け止めたお陰で番野は転倒を免れた。
「オイ、しっかりしろよ」
「あ、ああ、悪いな。なんだか、さっきから頭がぼーっとしててな……」
「大丈夫なのか?」
「まあ、倒れる程じゃないと思う……」
しかし、そう言う番野の顔は青白く、本当に辛そうだ。
そんな様子を見かねた八瀬は、番野の腕を自分の肩に回した。
「また転ばれても困るからな。肩、貸してやるよ」
「悪い……」
「気にすんな」
そうして、八瀬は番野の歩調に合わせてゆっくりと歩きながら、番野が先程訴えていた不調の原因についておおよその見当をつける。
考えを整理し終えると、八瀬は番野に尋ねた。
「お前、ケンカの最中にいくらか記憶が戻ったんだろ? 一体どの程度戻ったんだ?」
「お前、どうしてそれを……」
驚いた表情で、番野は思わずそんな疑問を口走った。
だが、八瀬の天才性や驚異的な人心掌握術を思い知り、思い出した番野は、そのような疑問は野暮であると気付いて言い直す。
「ああいや、違うな。まあ、そうだな……。ほとんど全部戻った、と思う」
「確信は無えのか?」
「無いと言うか、まだ何かボンヤリとしてる部分があると言うか……」
「ボンヤリ、ねえ……」
と、いまいち煮え切らない発言をする番野の言葉を、八瀬は意味を確かめる様に反復する。
(恐らく、何についての記憶がボンヤリしてんのかハッキリと分かってねえんだろうな。まあ、かと言って俺が分かる訳でもねえし、これについては追い追い分かってくるだろ)
そして、八瀬は話題を元に戻す。
「まあ、あれだ。不調の原因は、一気に記憶が戻り過ぎたせいで、脳がパンク寸前になったからだろうぜ。部屋に戻ったらゆっくり休んで、夏目にでも治療してもらうんだな」
「ああ。そうさせてもらう……」
そう、番野が八瀬の勧めに乗った、その時だった。
「いや、もうそんなにゆっくりとしていられる暇は無い……」
既に疲弊している二人の前に、体に雷電を纏ったシュヴェルトが、珍しくも焦燥した表情で現れたのだ。
「……どうした?」
その様子から何かただならぬ予感を感じた八瀬は、眉をひそめて尋ねた。
シュヴェルトは無言で番野の側へ近寄り、おもむろにその手を取ると、答える。
「重大な問題が発生した……! 私がツガノマモルを連れて行くから、団長は走って来てくれ!」
「え、ちょっと待て。俺、走り? て言うか、どこ行きゃーー」
と、八瀬が集合場所を聞き出そうとするが、時既に遅し。
一瞬、電気の弾ける音がしたと思うと、シュヴェルトと番野の姿はその場から消えていた。
「嘘だろ……」
一人ぽつんと残された八瀬は、空を見上げてうわ言のように呟いた。
○ ○ ○
「はあ、はあ、はあ……! やっと、着いた……!」
「遅いですわよ、八瀬憲兵団長」
それからおよそ一〇分後の事である。
最後の人員の登場に、番野とシュヴェルト、そしてこの二人のすぐ後に到着した夏目と石川が待ってましたとばかりにドアの方を向いた。
しかし、息を切らし、膝に手を着いて肩で息をしている八瀬に浴びせられたのは、プランセスの無慈悲な言葉だった。
八瀬は、ある程度呼吸を整えると、プランセスを見据えて抗議を始めた。
「そうは言うがなあ、俺はどこに集合すりゃいいのか聞かされてなかったんだぞ!? 城内走り回ったんだぞ!? 無駄に数の多い部屋ん中からたった一〇分足らずでここを探り当てたんだぞ!? そんな俺を褒めこそすれ、叱るってどういう神経してんだよ!」
「だって、シュヴェルト達より遅かったのは事実でしょう?」
「集合場所も知らない普通の人間が到着する時間と、知ってて超人的な速度で移動できる人間が到着する時間を比べてんじゃねえよ! 遅くなんのは当然だろうが!」
と、八瀬は怒りを露わにしてプランセスに言うが、やがて諦めた様に大きく息を吐いた。
「はぁぁ……。もういいさ。んで、何の用だよプランセス?」
「姫とか女王陛下とか、何か敬称を付けたらどうですの? まあ、貴方のそんな態度にも、もう慣れましたけれど。
では、改めて本題に入らせていただきますわ」
プランセスの改まった態度に、一同は気を引き締めた。
プランセスは、場が厳粛な雰囲気に包まれたのを感じ取ると、話し始めた。
「つい先程の事ですわ。リュミエール皇国『神皇』ユリアス=アルベールが、我々四方四カ国同盟に対して宣戦布告を行いましたわ」
「ッ……!!?」
プランセスの言葉を受け、八瀬、シュヴェルト、夏目の三人は思わず息を飲んだ。
しかし、聞き慣れない名前を聞いた番野は首を傾げた。
「ユリアス=アルベール……?」
「ユリアス=アルベール。通称『光の英雄』。
五年前、異民族の攻撃によって滅亡寸前だった小国リュミエールをたった一人で救った男。眩い光と共に戦場に突然現れ、瞬く間に敵対していた異民族を倒していった様からこの異名が付けられましたの。
単に『英雄』と言った方が、貴方には馴染みがあるかもしれませんわね」
「あいつが……!?」
プランセスに言われてようやく理解した番野の脳裏に、あの屈辱の瞬間が蘇る。
(俺は、全部思い出したぞ……! だからもう、あの時の事は絶対に忘れねえ……!)
拳を握りしめ、番野は密かに闘志を燃やす。
二度と忘れてはならないと、心に誓って。
すると、そんな番野の意思に呼応する様にプランセスが、こう切り出した。
「これは、紛れも無いチャンスですわ」
「確かにそうですね。どういうつもりなのかは知れませんが、奴が同盟に対して宣戦を布告してきたのなら他三国も相応に対応せざるを得なくなる。それで、奴はいつ始めると言っていたのですか?」
「今日から一週間後と」
「それは、これから三国に伝令を送ったとして、四カ国が万全な準備を整え終えるまでの期間とほぼ同じですね。なるほど。向こうは相当な自信があるようだ」
自分達を完全に格下に見ているユリアスの態度に、シュヴェルトは静かに怒りを燃やす。
しかし、プランセスの心情は、シュヴェルトの物に反して喜んでいる様にも見える。
プランセスは、不敵な笑みを浮かべた。
「せっかく満足な準備期間をいただけたんですもの。お望み通り、しっかりと準備を致しましょう? それと、番野様」
「ん。なんだ?」
「ユリアスは、戦争には必ず貴方を連れて来るようにとも言っていましたわ。この意味がお判りで?」
値踏みする様なその瞳。それは、本当にお前に覚悟があるのかと問いかけている様でもある。
『あの時、死にかけるような事に遭って。
あの時、あんなに己の無力さを思い知らされて。
あの時、あんなに力の差を知って。
あの時、自分が大切に想っていた人間からあの様な仕打ちを受けて。
それでもお前は、あの《英雄》に挑めるのか?』と。
その問いに対し、番野は笑ってみせた。
「俺は初めから、そのつもりだ!」
「……結構」
プランセスは、番野の言葉を心底嬉しそうに噛み締めた。
そして、これから己が発する命令をーーその一言一言の重大さをしっかりと確認しながら、心して号令する。
「では、貴方達に命令を与えますわ! 沙月ちゃんは、三国に一秒でも速く情報を伝達しなさい! そして八瀬憲兵団長とシュヴェルト団長補佐は、我が国の憲兵諸君に一週間後に備えるようにと伝えなさい!
さあ、始めますわよ。対リュミエール皇国の戦線を敷きますわ!」
【決戦の日まで、あと七日】