第95話 信念の行く末
「ケンカ、しようぜ。番野」
「ああ。望むところだ」
八瀬の提案を飲んだ番野は、突然の攻撃にも対応できるように意識を集中させる。
やがて番野の視界には八瀬の姿しか映らなくなっていた。
これで、番野はいつ八瀬が動き出しても対応できる準備を完全に終えた。
しかし、番野の胸中には思いの外、不安の色が浮かび上がっていた。
(なぜ、八瀬は仕掛けて来ない? わざわざ俺が準備を終えるのを待つ必要は無い筈なのに。何か考えがあるのか……?)
番野は、ほとんど動きを見せない八瀬に思わず余計な勘繰りをしてしまう。
「ふん」
そんな番野の様子に八瀬は鼻を鳴らして挑発する様に言う。
「どうした、番野? 随分と構えてる割には仕掛けて来ねえんだな。いざ俺とケンカする時になって怖気付いたのか?」
「それを言うならお前だってそうなんじゃないのか? いくら俺が弱いからって武器を持った相手に対峙するのは流石に怖かったみたいだな」
と、八瀬の挑発に番野は負けじと言い返した。
ところが、言い返された八瀬はと言うと、機嫌を損ねた時の様に眉間に皺を寄せるでなく、逆上して怒り出すでもなく、ただ笑っていた。それも人を小馬鹿にしている時の様な、相手を苛立たせる部類の笑顔だ。
だが、このような手に容易に引っかかる番野ではない。記憶を失くしているとは言え、思考回路までは以前とは変わっていないからだ。
(きっと、あいつは俺が怒り任せて動いたところに何か仕掛けようと考えてる筈だ。ハッ。そんな簡単な策に騙されるかよ!)
番野がそう考えていると、またも八瀬が口を挟む。
「オイオイ、どうした? 俺は、俺より弱いお前にわざわざ先手をやろうって言ってるんだぜ? ありがたく受け取っとけよ」
「うるせえ。分かってんだよ、俺は。俺がそうやって挑発に乗って不用意に動いたところを狙おうって作戦なんだろ?」
「へー? スゴイじゃねえか。半分正解だよ」
「半分正解、だと?」
自身が予想していた通りの番野の反応に、八瀬は喉を震わせて笑う。
「くっくっく。ああそうだよ、番野。お前の解答は半分正解だ。それじゃあ、答え合わせと行こう。残りの半分はーー」
言いかけて、八瀬は怪しく目を細める。
その時だった。
「つーーッ!!?」
突然、自身の右頬に鋭い痛みを感じて、番野は思わず顔を歪めた。そして、頬に手を当てると、ヌルッとした何かが手を滑らせた。
番野は驚き、掌を正面に待ってくる。
番野の掌に付着した、僅かな温もりを持つ“それ”は。
「血……?」
何が起こったんだと、番野が疑問を発するよりも先に番野の着ている服の肩口が唐突に裂けた。
「こいつ、は……!?」
そこで、初めて番野は己に迫っている危険を感じ取った。
普通、布は刃物などの干渉無しには空気中で裂けたりはしない。つまり、今、番野の正面で可笑し気に笑みを湛えている八瀬の手によって何らかの異変が起こっているという事だ。
(何が、何が起こってやがる!)
番野は、正面の八瀬を睨み付ける。
八瀬は、そんな番野の熱烈な要望に応える。
「残りの半分は、『俺が“この場”にすべての仕込みを整えるまでの時間稼ぎ』だよ!」
「時間稼ぎ、だと……? 今までの時間すべてがか!?」
「そうさ。だから言ったじゃねえか。お前に先手をやるから、ありがたく受け取っとけってな。人の善意は受け取っとくもんだぜ、番野?」
「ぐ、この野郎……!」
人の神経を逆撫でる八瀬の巧みな話術に、それまで平静を保っていた番野はとうとう怒りを露わにした。
すると、番野は剣を持つ手にさらに力を加え、肩に担ぐ様にして構える。
誰がどう見ても分かる、一撃狙いの構え方だ。
そうして、その状態に至った人間が次にどのような行動を起こすのかはたかが知れている。
(そう。普段どんなに頭のキレる奴でも、怒りに任せて行動しちまえば動きは自ずと単調になる)
八瀬は、剣を構えた番野が取った行動を見て意地の悪い笑みを浮かべる。
(この流れこそが俺の狙い! そして同時に、これはお前自身がさっき答えた解答なんだよなあ!)
「おおおおおお!!」
叫びながら、番野は渾身の力で一歩を踏み出した。
(狙いはただ一つ。八瀬、お前だけだ!)
そう、内心で宣言して、一直線に駆ける。
しかし、番野は怒りに気を取られているせいで八瀬の作戦の餌食になった事にすぐに気付く事はできない。
今番野にできるのは、ただ八瀬との間合を詰めるのみ。
そして、そもそもこの流れに持って行った八瀬が、何も仕掛けていない筈が無いのだ。
「おおお、ーーうおっ!!?」
唐突に、番野が前につんのめる形で態勢を崩した。
全くの予想外な出来事に番野の咄嗟の対処に遅れが生じる。
番野は無様に地面に倒れ込みながら、自身を転ばせた物の正体を見た。
番野の踏み込み足となる筈だった右足を、その足首までを飲み込んでいる“それ”の正体。それはーー
(落とし穴、だと……!?)
こんな物をいつの間に仕掛けていたんだと、番野は内心で訴える。
その時、ふと、いつかの日の光景が番野の脳裏を過った。
(これは、俺の……?)
『自分』が未だ体験した事の無いその光景に、番野の意識は一時的にそちらに集中させられる。
結果として、番野は、このまま何の支えも無しに転ばざるを得なくなった。
「よっ、と」
ところが、そんな状態の番野を八瀬は何らかの方法で地面との接触前に空中で引き止めた。
そして、そのまま番野の体を、まるで磔刑に処されているような形で宙に浮かせた。番野が顔を俯けている事も相まって、その様な認識をさらに増長している。
八瀬は簡単に身動きの取れなくなった番野の眼前まで歩み寄ると、確かな勝利の確信を持って告げる。
「これで、チェックメイトだ」