第93話 たった一人でも
カチャリ、と、それまでペンが紙上を走る音しかしていなかった執務室に新たな音が生じた。
(来たか……)
しかし、部屋の主たる八瀬はそんな変化に何も動じる事なく、ただ己の仕事に没頭する。
「……オイ」
「…………」
額に僅かに汗を光らせる番野が呼びかけるが、八瀬は番野に見向きもせず、一切取り合う余地を見せない。
なぜなら、八瀬はこれから番野がしようとしている話が何であるかを知っているからだ。
「く……」
その上で行う『無視』の意味が分からない番野ではない。だが、番野にはそのような事に構っている余裕など無い。
番野は、八瀬が仕事をしている執務机の前まで行き、再度呼びかける。
「オイ」
「…………」
それでも、返って来たのは二度目の『無視』。
(この野郎……こっちがどんな気持ちでいるか知っていながら……!)
そんな態度にとうとう腹を立てた番野は八瀬の肩を掴もうと手を伸ばす。
その時だった。
「ーーッ」
八瀬が伸ばされた番野の右腕を左手で掴んだかと思うと、右手のペンを瞬時に持ち替え、番野の手首に突きつけた。
「な、あ……っ」
その、まったく無駄の無い目にも止まらぬ動きに、番野は反応する事ができなかった。
それどころか、ペン先が手首の皮膚を突き破ろうとしている今ですら正しく状況を理解し切れていない。
ただ分かるのは、自分が命の危機に瀕しているという事だけ。
「な、に……しやがるッ!」
番野の左腕が弾かれるように動く。ペンが皮膚を突き破るより速く、八瀬の右腕を抑えようと。
そして、八瀬の腕を捕らえるや、番野は右腕の拘束を力尽くで振り払う。
八瀬は、まるで以前の番野のような動作を見て一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに得心したように笑う。
「ああ。やっぱ、動きってのは体に刻み込まれるモンなんだなぁ」
「どういう意味だ……! いや、そんな事より、これは一体どういう事だ!」
番野が凄まじい剣幕で怒りを露わにする。
しかし、それに対する八瀬の反応は非常に、異常に落ち着いた物だった。
「まあ、少し落ち着け。もう無視はしねえさ」
「な……、何が落ち着けだ! 殺されそうになって、落ち着けだと!? ふざけるな! 一体何を考えてるんだ!?」
「そうだなぁ。放っておいたらおめおめと死にに行きかねない友人をどうやって止めるか、とか?」
「あ、は……? お前、何を言ってるんだよ……?」
番野は、自分の考えている事の斜め上を行った八瀬の発言に思わず調子を崩されてしまう。
そんな番野に、八瀬はさも当然と言うような表情で言う。
「お前があいつン所から走り出した時点で薄々気付いていた。人の生来の性質ってモンは、どうやら記憶を失くしたぐらいじゃ無くならねえらしい」
「……? だから、何を言ってーー」
「あいつから、どれだけの間眠ってたか聞いたんだろ?」
「な……。お前、どうしてそれを……」
八瀬は、表情を変えずに続ける。
「で、自分が眠りに就く前ーーつまり、記憶を失う前の出来事を事情を知ってる俺から聞き出すつもりだったんだろ?」
「あ、ああ。そうだが」
「それじゃあ、こっからが俺の推測だ。いや、予言と言おうか? まあ、どっちでも良い。とにかくお前は、俺からそいつを聞いた瞬間に城を飛び出して行く」
「…………」
番野はそんな八瀬の突拍子の無い物言いに言葉を失う。
しかし、八瀬の表情は先程から至って変化が無い。
それは、それだけ八瀬は本気で、真面目に発言している事の証明だ。
番野はようやくそれを感じ取り、呆気に取られた表情を引き締める。
八瀬は番野の表情の変化を見ると、覚悟を決めるように深呼吸して、これまでの事を話し始めた。
「これからお前に、俺が知ってるすべてを話そう」
○ ○ ○
「あ……。ここ、は……?」
ふと、ある少女が目を覚ました。
いや、彼女自身の感覚に依ればそう言うべきなのだが、彼女は元から目を開け、活動していた。
ただ、彼女の本来の意識が覚醒しただけだ。
「ようやく“目覚めた”か。随分長く“眠っていた”ものだ」
と、少女が横から聞こえてきた、男の不遜な声に驚き、慌てて身構える。
「止せ。今戦った所で貴様には一分の勝率も有りはせんのだからな」
しかし、場合によっては今すぐにでも剣を抜こうとしている少女に対して玉座に座っている男が放ったのは、そんな、間違っても命を取られる一瞬前の人間が放つ言葉ではなかった。
「あなたは、何を……」
その証拠に、剣に手を添えている少女も困惑したような表情を浮かべている。
「ハッ。よもや貴様、俺様の力を忘れた訳ではあるまいな?」
「……ッ!!」
その男の放つ鋭い眼光は、射抜く者全てを戦慄させる。
少女もまたその例に洩れず、思わず身を震わせた。
少女が剣に添えている手にも自然と力が入る。さらに、いつでも動けるようにと、体がじんわりと熱を持ち始める。
「…………」
しかし、
「まあ良い」
男のその一言で、その場を支配していた緊張状態が僅かながら緩和されたーーと、思われた。
「そうであるとしても、これより総てを思い出してもらうのだからな。ソーサレア」
「ーーはい。ここに」
男が名を呼ぶと、玉座の前にはいつの間にやら露出が多めの魔女装束を着た妖しい雰囲気を持つ女が跪いていた。
その女ーーソーサレアは、目深に被った帽子の下から紫の光を湛える瞳を覗かせる。
男は、その姿を確認すると、急激に変化していく状況に狼狽えている少女に向かって残虐な笑みを浮かべて言う。
「さあ、美咲叶よ。己が犯した罪を思い出し、精々世界を呪って見せろ」
そう、男が言った瞬間。少女は、自分の意識が暗黒に染まっていく感覚を覚えた。
○ ○ ○
「なん、だよ……それ……」
そうして、八瀬からどのようにして自分が二週間も意識を失うに至ったかを聞いた番野は、驚愕と共に湧き上がって来た行方の知れない怒りに身を震わせた。
「なんだよ、それ……! なんなんだよ! それが本当なら、なんでお前はその子を助け出そうとしねえんだよ!」
「本当ならじゃねえ。真実だ」
「ーーッ!!」
何の感慨も無い八瀬の言葉に、番野は怒りが爆発した勢いそのままに八瀬の胸倉を掴んで責め立てるように言う。
「お前、憲兵団長なんだろ? 一国の軍隊のトップなんだろ? そんな力を持ってるんだろ!? それなのにどうして、助けに行こうとしねえんだよ!」
「アホか」
「なにッ!?」
問い詰めているのに突然罵倒された番野の手に力が入る。
八瀬は、苦しそうな声を上げるが、すぐに視線を戻して番野に言う。
「確かに俺は今、一国の軍隊を動かすだけの力を持ってる。だがな、力を持つって事は、それだけデカイ責任を背負うって事なんだよ。
流れ者のお前にゃ分からねえんだろうがな、ウチの奴らにだって家族がいるんだよ。お前が美咲の事をどう思ってるか知らねえがな、お前は、そんな奴らに『自分の女、助けたいから家族放り出して命懸けろよ』って言えるのか?」
「だからって……。だからって、お前は……!」
その訴えに、八瀬は自虐的な笑みで応える。
「どうしてお前は単身でも助けに行こうとしなかったのかって? それこそアホか。お前一人じゃあどうにもならなかったように、俺一人が行ったところで何にもなりゃしねえ。それに、例え憲兵団を動かせたとして、それでも奴らには敵わねえよ」
「だからって諦めんのかよ!」
「今はその時じゃねえ」
「ッ……、もういい。分かったよ」
そう、番野は諦めたように言って、踵を返した。
「どうするつもりだ?」
背中越しに掛けられた、単語だけは心配そうな言葉に、番野は振り返りもせずに応じる。
「今から、俺だけでもその子を助けに行ってくる」
「……はぁ」
しかし、そんな決意に満ちた言葉に対して返されたのは、呆れとも落胆とも取れるような深いため息だけだった。
「…………」
八瀬は観念したように目を閉じる。
そして、次に目を開いた時には、番野は既に執務室から出て行った後だった。