第90話 笑顔
『ごめん……。ごめんね……』
光源の一つも無い闇の中。誰かの声が聞こえてくる。
『ごめんね……』
それは、悲哀に満ちていて、これだけでは足りないと言うように何度も何度も繰り返される。
だが、それは何に対しての謝罪なのかは少年には一切分からない。
『ごめんね……』
それは幾度となく聞いてきた筈の声で、それは少年の脳裏に少年が幾度となく見てきた筈の顔を自ずと想起させる。
いつも側にいて、表情が豊かで、笑顔が一番似合う、その人の顔。
しかし、少年はーー
「だからお前は……、誰なんだああああ!!」
○ ○ ○
「ーーあ、はっ!!? だ、はあ、はあ、はあっ……」
まるで眠っている時に顔に冷水をぶちまけられた時のように少年は飛び起きた。
「はあ……はあ……」
体中がジットリと汗で濡れている。
既に夏は終わり、涼しい日が目立つようになってきた時分であるが、少年の寝間着はさながら真夏に外で運動していたかのように濡れていた。
(なん、だ……? あいつは、一体……)
なんとか呼吸を整え、少年は額の汗を手で拭う。
そうしていると、ドアの向こうからドタドタと忙しない足音が聞こえて来て、部屋のドアが乱暴に開かれた。
そして、その何者かは部屋に入るなり鬼気迫る表情で少年に言う。
「ーー番野さん! 大丈夫ですかっ!?」
「ーーッ!!?」
突然の金髪の少女の来室に驚いた少年は、初め何が起こったのか分からないといった様子で固まっていたが、自分の身を心配されていると分かってなんとか言葉を紡ぎ出す。
「……あ、ああ。えと、大丈夫だよ。それより、君はどうしてここに?」
「つが……ああいや、その、叫び声が聞こえたので何かあったのかと思いまして……」
「あ、ああ。そうなんだ……」
言って、このなんともぎこちない会話に少年は苦笑した。
(前のーー記憶を失くす前の俺は、この子とどうやって話してたんだろう? 自分のためにも、なんとかして早く記憶を取り戻す方法を見つけないといけないな)
このままだとここの人達に余計な迷惑をかけてしまうしなと思った少年が目を伏せた時、その考えを見透かしたかのように少女が切り出した。
「今から朝食です。皆さんすでに広間に集合なさっているので、そこから適当な物に着替えてわたし達も向かいますよ」
そう言って、少女は部屋の隅に配置されている白い衣装棚を指差した。
「分かった。それじゃあすぐ着替えるから、少し待っててくれ」
「はい。では、終わったら教えてください」
言うなり、少女は部屋から出て行った。
少年は、少女に言われた通りに衣装棚を開け、適当に服を見繕う。
そして、寝間着から着替え終わると、廊下にいる少女に声をかけた。
部屋に入ると、少女は少年の格好をまじまじと眺める。
「……普通ですね。では、行きましょうか」
そして、全くの無感情で言うと、心に小さな傷を負った少年を伴って部屋を出た。
○ ○ ○
部屋を出て五分。そこまでの道のりを早足で歩いて、ようやく二人は目的地に辿り着いた。
「ここが食事をする広間です。少しの間とは言えここにお世話になるので、場所は覚えておいてくださいね。では、皆さんすでにお待ちだと思いますので、中に入りましょう」
そう言って、少女はドアを開いた。
「おお……」
次の瞬間、目の前に広がった光景に少年は感嘆の声を漏らした。
内装は至ってシンプルではあるものの、王族が集う長いテーブルに、来客があった時のために人数分より多く並べられている、細部まで意匠の凝ったイス。
天井からは大きなシャンデリア風の照明が吊り下げられており、魔力で灯された火で部屋全体を照らしている。
そして、上座に座する女王が、右も左も不確かな少年に声をかける。
「来ましたわね。それでは、朝食を始めましょう」
「ああ、はい。分かりました……」
と、返事はしたものの、こういった心得が無い少年がどこに座っていいのか分からずにオロオロしていると、青年が「そこに座れ」と促した。
少年が促されるままに席に着くと、各々食前の挨拶を済ませて食事に手をつけ始めた。
「い、いただきます」
少年もそれらにつられるように合掌して食器を手に持った。
朝食のメニューは、パン、目玉焼きと焼いたベーコンとサラダ。飲み物は水と牛乳が選べるようになっている。
(質素なもんだなぁ……。城で出てくる食事だから、もう少し凄いのを想像してたんだが)
少年がパンを咀嚼しながら、ふとそんな事を考えていると女王がその考えを見透かしたかのような事を言う。
「落胆させてしまったかしら?」
「あ、いやっ! そういう訳じゃ!」
すると、少年の予想以上の狼狽ぶりに女王は笑いを噛み締めながら少年に謝罪する。
「……ふふふ。いえ、ごめんなさい。つい意地悪な言い方をしてしまいましたわね。これは、私の方針なんですのよ」
「……方針?」
「ええ。私、こう見えて倹約家でしてね? こうして要所で出費を抑えて、多くを民の為に使っているんですの。偉いでしょう、私?」
「あ、そこ自分で言うんですね……」
少年は苦笑した。
すると、少年の反応を見た青年が呆れがちに言う。
「こんなでも実際しっかりやる事やってるし、そこそこ有能なのが釈然としねえがな」
「なるほど。やはり、貴方には王に対する態度と言う物を再教育する必要がありそうですわね。今回は以前のように二時間と言わず、四時間みっちりお付き合い致しますわよ?」
「そいつは御勘弁願いたいな」
青年はそう言いつつ目玉焼きを口に運ぶ。
そして、青年は口の中の目玉焼きを飲み込むと、少年に言った。
「ま、今のお前は知らんだろうが、ここにいる奴らは悪い奴らじゃない。だから、もっと力抜いて良いんだぜ?」
言われて、少年は体に力が入っている事に気付いた。
少年は何度か深呼吸をして気持ちを落ち着け、リラックスした状態に持っていく。
みるみるうちに体から余計な力を抜き去られていく感覚に少年は自分でも驚いた。
(あれ……? なんだか思ったよりすんなりと力が抜けたな……)
「…………」
「ふむ……」
少年は驚いていた為に気付いていなかったようだが、この時、二人の武人の目がその姿を見定めるように向けられていた。
だが、それも刹那の事。少年が調子を元に戻すまでには二人は普通に食事を再開していた。
それらの瞳にどのような感情が込められていたのか少年はもう知る由も無い。
「ところで」
そこで、一足先に朝食を食べ終えた女王が話し始めた。
「番野様……ええ、貴方の事です。記憶を失くし、私達の名も忘れてしまった貴方ですが、とりあえず“事”が落ち着くまでは貴方にはここに住んで頂こうと思っておりますの。それで、記憶を失った手前、貴方をこのまま放置という訳にもいきませんわよね?」
「えーと……結局のところ何が言いたいんですか?」
と、なかなか結論を話そうとしない女王に少年は控え目な語勢で問うた。
それに、女王は特に気分を悪くしたような様子も無く、逆に、にこやかに笑って答えた。
「知らない相手と親睦を図るにはまずは最低限相手の名前ぐらいは知っておかないといけませんわ。ですから、これから私達で自己紹介をしようと思いますの。それでは、やはり“初めて”会った相手にはこう言うのがセオリーですわよね?」
そう前置きして、女王はまるで初めて会った他人に向けるような上辺の笑顔を向けて言った。
ーー“初めまして”、番野護様、と。