第87話 深く、昏い、闇の底
《英雄》は頬杖をついて、まるで値踏みするかのように番野を見る。
まるで、こいつは自分をどれだけ楽しませてくれるのだろうか、とでも言いたげに口を歪ませて。
だが、番野はまったくそれに取り合わない。
番野がただ見据えるのは、玉座で今も愉快気に笑っている《英雄》の姿のみ。
「お、前が……」
番野が声を怒りに震わせて言った。
「ん?」
「お前が、美咲を攫ったのか……」
「何だ。ハッキリと言うが良い。俺様が問い掛けを許可しよう」
「お前が、美咲を攫ったのかあああああッ!!
怒りに任せ、ダンッ!! と、思い切り床を蹴り出す。
が、
「な、……!? これは……!」
衝撃で体が床から離れたところで番野の体が宙で突然動きを止めた。それこそ、体を氷漬けにされたかのように動きが硬く、硬く制限されてしまっている。
すると、それまで扉の前で控えていたソーサレアがクスクスと笑い始めた。
「クスクス。『空間固定』よ。あなた、ここがどういう場所か心得ていて? ここは王の間。ああして殺気を振りかざすような所ではなくてよ。ええ。王には敬意を払って向かうものなのだからーー」
「だ、まれ……。俺にとっては、あいつは、ただの敵だ。敬意なんか、払う必要も無え……」
番野が、吐き捨てるようにソーサレアに言った。
「……あら、いけない子ね」
すると、怒りを剥き出しにして放った番野の言葉に、それまで柔らかい物腰で居たソーサレアの雰囲気がガラリと変わった。
表情から温もりが消え、ただただ凍えるような冷酷さと酷薄さが露わになる。
「いけない子には、お仕置きをしないといけないわ……。そうよね、番野護君……?」
「ーーえ?」
途端、番野の至近距離で突如、大爆発が起こった。
「うぐああああああああ!!!??」
あまりの威力に番野の体はデタラメに吹き飛ばされ、部屋の壁にめり込んだ。
ぱらぱらと壁材が落ちる中、番野は未だなんとか意識を繋ぎ止めていた。
「ご、ふっ……」
ゴボッ、と血の塊を吐く。
爆発の衝撃で折れた骨が番野が吹き飛ばされた際、内臓に滅茶苦茶に刺さったのだ。
だが、今はその痛みが酷い脳震盪で揺れる意識を得てして繋ぎ止めているのだった。
もはや、どこの骨が折れたのかすら分からない。脳震盪で思考が乱れているせいもあるし、単純に折れた箇所が多いのもそうだろう。
今はただ、目を開けて呼吸をしている事が精一杯だった。
(み、さき……)
ガラガラと周りの壁と共に床に崩れ落ちる。
(そ、うだ……。《魔法使い》に『転職』して、回復、すれば……)
そう、乱れた思考で思い付き、実行する。
「『転職ーー《魔法使い》』……」
すると、番野の体が一瞬輝き、その姿が魔法使いの物へと変貌した。
(姿が、変わった?)
番野は、すぐさま最大級の回復魔法を詠唱破棄して使用しようとする。
「『最大回復』……!! 『最大回復』……!!」
しかし、杖は何の反応も示さない。
(なん、で……?)
初めての事に疑問を浮かべる番野の心中を読み取ったのか、この現象に心当たりのあるソーサレアは無感情な声で言った。
「魔力切れ、ね。あなた、派手に魔力を使い過ぎたのよ。その程度の魔力じゃあ、出来てせいぜいが下級回復魔法ね」
「く……。『回復』……」
言われて素直に下級回復魔法を唱えた番野。
すると、番野の詠唱に応えて杖の先が緑色に淡く光り、番野の体を可能な限り癒す。
(これくらいじゃ……気休めにも、ならないか……。だが、しない、よりは……マシ、だろ……)
やがて光が薄れて回復が終わると、番野は再び『転職』を使って《勇者》に戻った。
(また、変わった。面白い。一体どんな力を使っているのか少々気になるな)
その様子を見た《英雄》は外からは分からない程度に口元を笑ませた。
「ぐ、っ……ふっ……!!」
番野は、先程よりも僅かながら動くようになった体を絶え間ない猛烈な痛みを耐えながら起こす。
「この子は、まだ……」
そうして立ち上がろうとする番野を見たソーサレアが再び攻撃を仕掛けようとするが、《英雄》がそれを視線で制した。
“ここからが面白いのではないか。邪魔をするな”、と。
「はい。我が王よ」
ソーサレアはそれに素直に応じて引き下がる。そして、微笑んだ。
(番野護君。あなたのその悪足掻きがどこまで絶対強者に通じるかしらね?)
「うぐ……っ」
なんとか立ち上がった番野は、体の至る所から血を零しながら焦点の定まらない目で《英雄》を見据えた。
「ほう」
その、一切諦めないという強い意思の込められた視線を受けて《英雄》はさも満足そうな息を漏らした。
番野は、よたよたとした覚束ない足取りであるが、一歩一歩確実に《英雄》へ近付いて行く。
「良いぞ! その調子だ! さあ、此処まで来て俺様と戦え! そして力尽くで手にして見せよ!」
(み、さき……。あと、少し、だ……)
一歩、一歩。
(あと、少しで……、おれの、俺の……)
「来い! さあ!」
また一歩、一歩。
(俺、の……やく、わりを……)
「ーーだが」
もう一歩。
そこで、番野は思いも寄らぬ敵と出くわす事になった。
「な、ん……」
「その前に、まずはつい最近俺様の配下に降った輩の相手をしてもらおうか」
「お、まえ……なん、で……!?」
背中を覆うふんわりと長い栗色の髪。笑顔の似合う柔らかな顔。泣いたり、怒ったり、笑ったりした時は必ずと言って良いほど感情が豊かに表れる、大きく丸みのある瞳。
その上、番野が今まさに着ているこの《勇者》の装束を身に纏う人物など、番野の頭にはどうやっても、ただの一人しか思い浮かばなかった。
「美咲……叶……」
その時、番野は涙を流しそうなほど安堵した。
すると、その様子を見た《英雄》が趣味の悪い笑みを浮かべたまま演技がましく番野に言う。
「ほう、そうか。貴様等は知り合いであったか。感動の再開ではないか。ほら、大いに喜ぶと良い」
「て、めえ……!!」
「だが哀しいかな。番野護。貴様は今から其奴と戦って貰わねばならん。そして、其奴を打ち倒し、俺様を殺せば、晴れて美咲叶は貴様の物となるという訳だ」
「卑怯者め……!!」
ギリと奥歯を噛み締めて、瞳に憎悪を滲ませて非難した番野を《英雄》は鼻で嗤った。
「ハッ。卑怯だと? 俺様が俺様の兵を使って何が悪いというのだ。兵は我が身、我が武器も同然。然らば、俺様が俺様の武器を使おうと何ら卑怯な事なぞ無いであろう?」
「この、野郎……。抜け抜けと……」
「まあ、貴様等のどちらが倒れようと俺様にとってはどのみち良い余興である事に変わりはない。ーーそら。早く構えぬと、其奴はもうやる気のようだぞ?」
「くっ……」
クイッと《英雄》が顎で示すと、だらりと力無く腕を垂らした美咲がその手に剣を握ってゆっくりと前進を始めた。
番野の足は、それに合わせるように一歩、また一歩と後退して行く。
「やめろ……」
「…………」
「お前とは、戦いたく、ない……!」
「…………」
「くそっ……」
しかし、番野の必死の呼び掛けにも美咲は一切応じようとしない。いや、聞こえていないと表現するべきか。
番野は仕方なく剣を抜く。
(気絶で良い……。奴は、“殺し合い”ではなく“戦い”をしろと言った……。だから、どちらかが戦闘不能になれば、それで、良い筈だ……)
身が引き裂かれるような激痛を歯を食い縛って我慢し、身を低くして迎え撃つ構えを取る。
その時だった。
「ーー番野、君」
「美、咲……? ーーッ!!?」
不意に美咲が番野の名を呼んで、番野の警戒が一瞬だけほとんどゼロに近くなった時。
ドズッ、と、番野の腹部を美咲の剣が背まで貫いていた。
ごぼっと一気に血を吐いた番野は信じられないような顔をして美咲の顔を見た。
自分の血がその半分を汚している顔から、番野は生気を感じ取る事ができなかった。
という事は、これは美咲の本意ではないという事。
「クソ、や、ろうがァ……!!」
「フン」
番野は最後の力を振り絞って先にいる《英雄》を睨み付けるが、当の《英雄》はそれを一蹴した。
「番野、君……」
「……?」
番野は、美咲からの今一度の呼び掛けになんとか意識を繋ぎ止めて応じる。
確かに傍目からはその顔から生気は感じられない。あの明るい笑顔すらも、今は取り上げられてしまっている。仲間をその剣で刺し貫いても悲しむ事もできない。そんな感情すらも、取り上げられてしまった。
なのに。
「……まえ……」
「ごめ、ん」
美咲は、泣いていた。
ぽろりと、その目から一筋の涙が流れた。
「ごめん、ね」
しかし、番野はその言葉には応じる事ができなかった。
もう、限界だったのだ。
番野は思った。
こっちこそ、護れなくて悪かったと。そして、夏目と石川にも、約束を守れなくてすまなかったと。
「…………」
そうしてゆっくりと、美咲の体にもたれかかるようにして、番野は意識を失った。
深く、昏い、深淵の底へと。