第75話 鬼ごっこ
死神との鬼ごっこが始まる。
相対する二人の間に緊張が走る。
「いち」
ふと、マクスがそう口にした。
それを聞き、石川がくるりと身を反転させる。
「に」
そこで、石川は地面を蹴った。
「さん」
すでに石川の姿は二人からは見えない。
「よん」
その声は聞こえなくとも、木々の間を割って走る石川の頭には不気味な気配が蠢いていた。
「ご」
遠くへ。とにかく遠くへ。少しでも時間が稼げるように、遠くへ。
「ろく」
マクスが鎌を持ち上げる。
「なな」
ゆっくりと、殺戮者の双眸が番野を捉えた。
「はち」
マクスはすでに姿の見えない石川の方へ体を向ける。
「きゅう」
腰を落とし、次の瞬間へ備える。
そして、
「じゅう」
番野の目の前からマクスの姿が消え、音だけが取り残された。
(頼んだぞ、石川。そしてどうか、生きて帰ってくれ……!)
番野は石川の無事と夏目の復活を祈りながら、自らも思考の海へ身を投げた。
○ ○ ○
幾発もの銃弾が飛び、悲鳴が返しの銃弾代わりに上がる。
その施設はほぼ全体が血の海に沈み、一帯には血臭と硝煙臭が立ち込め、少し嗅ぐだけでも猛烈な吐き気を催す程だ。
白昼に捲き起こるのは戦闘ではない。
虐殺という言葉すらも可愛く見える程の殺戮。
それが行われるのはしかし戦場にあらず。
そこは普段であれば多くの命が笑って過ごす場所だ。
まったく殺戮とは縁遠い、規模的に言えばそこまで大きくはない二階建ての幼稚園。
そこが、この惨状の現場だった。
もはや悪魔以外に人間は存在しないだろうと思われていたが、その一階にある物置として使われている教室に未だ二人の生存者がいた。
一人はまだ幼稚園教諭になって日が浅い若い女と一人の年長の女子児童だ。
女教諭は怯えながらもそれを女子児童に悟らせないように振る舞い、絶えず声をかける。
女子児童もそれに対し頷いて応える。
あと十分。いや、あと数分でも保てば警察が来る筈だ。
そう思って必死に待つ二人だが、結局その部屋は発見されてしまう。
しかし、事前に足音を聞いて女子児童を隠れさせた女教諭の機転によってその児童は助かる。女教諭については言うまでもないだろう。
犠牲者、五十名。生存者、一人。
これが、かの有名な『幼稚園内無差別殺傷事件』の全貌であり、ある少女の贖罪の舞台だった。
○ ○ ○
(そろそろスタートしたか?)
体に緑色のシートを巻き、自らを木の枝葉に擬態させている石川はそろそろ時間だろうと周囲に注意を払い始めた。
(思っきし逃げたけど、多分あいつにとっちゃこんなの距離にすらならねえだろうぜ。なんてったって雰囲気が違う。完全に私を殺しに来てるもんな……。
だが、そいつは私が見つかったらの話だ。
こうして高い所で擬態してりゃそう簡単には見つけられねえだろう)
そう思いながらも、しかし決して油断はしない。一分の油断も許されない。
僅かでも気を緩めれば即、死。
マクスにナイフを投げる直前に石川が覚悟した事だ。
そしてその覚悟は今はより固い物になっていた。
だからこそ、
「ーーッ!!」
「ハハア! 見つけましたよッ」」
全く意図していなかった、背後からの奇襲を避ける事が出来たのだろう。
「く、あっ……」
体を不快な浮遊感が襲う。
石川は急いでポーチからロープの付いた鉤爪を取り出し、別の木へ投げる。
(落ちてたまるかよ!)
高さ地上約十五メートル。こんな所から落ちればまず無事ではいられない。
大抵の人間なら絶対に飛び降りたりはしない。
しかし、そんな人間基準の考えがどうして死神に通用しようか。
「ウソだろっ!?」
向かって来た。
それもあろう事か、木を足場にし、加速して。
(間に合ええっ!)
「無駄ですよ!」
爪が速いか凶刃が速いか。
その結果は火を見るよりも明らかだった。
言うなれば銃と豆鉄砲、どちらが速いかというような物であった。
「いただきます!」
そして、鈍い輝きを放つ死神の刃が石川の首に触れた。