第42話 野に放たれた獣
「…………? 」
その時。番野は王都を覆う空気が明らかに変わったのを感じた。
(なんだ? 今、妙な感じが……)
番野は、何か分かるかもしれないと窓から外を見た。
すると、外には通行人がちらほら見つかる程度の普段通りの光景が広がっていた。
さらに横を向いて見てみても、やはりそれは変わらない。
(気のせい、か……)
そして、窓から目線を外した。
「ふんふん。こいつがクリームで、こいつがあんか。こんな中世ヨーロッパみてぇな場所だからってちょい諦めてたが、まさか菓子パンがあるとは。探してみるもんだ」
と、パンの入っているカゴに立ててあるプレートを見ながら感心する八瀬に番野は言った。
「お前、字読めるんだな」
「当たり前だ。ここでもう二年暮らしてんだぞ? 文字読めずにやってけるかよ」
「ペラペラなのか? 」
「まあ、ペラペラっつーか、スラスラだな。幸い言葉はこのままでも通じたからそこまで苦労はしなかったが、何も覚えてて損は無ぇと思ってな。話したところで誰が信じてくれる訳でもねぇし、独学で勉強したんだよ」
「独学!? 」
そう反応したのは美咲だ。
それもそうだ。英語などの既に日本語に訳されている言語ならば一人で勉強して覚えることも不可能ではないが、全く以って糸口すらも掴めていない言語をたった一人で習得するとなると、それは最早常人の為せる業ではない。
しかし、それを為してみせた人間が囚人服を着て目の前にいるのだから驚きもするだろう。
「ああ。だいたい覚えたのは勉強しだして半年ぐらいだな。言葉が普通に通じるっつーことは、日本語と文脈は変わらねぇんじゃねぇかと思ったら、本当にほとんど変わらなくてな。だから、あとは話やら本やらを使って単語を当てはめればハイ完成って寸法だ。案外簡単だろ? 」
「は、ハハ、そうっすねー……」
これには流石の番野も付いていけなかったのか、間の抜けた返事をしていた。
(今度、教えてもらおうかなー)
そう、番野は思った。
ーーその直後だった。
ざわっと、通りが突然の盛り上がりをみせた。
「ん? 」
その様子に番野だけでなく、八瀬と美咲も思わず窓の外を見た。
すると、そこにはたった数分前は落ち着いていた街道を埋め尽くす程の人が集まっており、皆一様に話を繰り広げていた。
「なんだ? 何かイベントでもあるのか? 」
「お祭り? 」
「いや、待て。今日祭りなんかあったっけか? 」
八瀬は考えるようにしながら窓の外を見た。そして、まるで品定めでもするかのような目線で見渡した八瀬は、すぐにこの集団が祭りや市場目当てではないことに気付いた。
祭りや市場に臨む人間が不安そうな表情や困惑した表情を浮かべる筈がないからだ。
(とすると、この集団はなんだ? この数分の間にこれだけの人数が集まったとなると、事は相当デカイ。そんな行事が今日あるとは思えないんだが……)
そうしていると、同様に人々の様子に気付いた番野と美咲が八瀬に問う。
「お前、何か知らないのか? 二年間この王都で暮らしてたお前なら何か心当たりがあるんじゃないか? 」
「そうよ。今こそ先輩の出番でしょ? 」
「いいや、すまん。確かに二年間暮らしちゃいるが、こんなのは初めてだ。だがよ、このざわつき方だ。何が起こるかはそう待たずとも分かるかもしれねぇぞ? 」
その言葉に、そうなのか? と聞き返しそうになった番野だが、八瀬はこの中で一番人の心理を読むことに長けていることを身を以て体験していることから疑問を喉元で止めた。
そして、やはりその予測は正しかったことが証明された。
五分後のことである。
それまでざわざわと様々な話題が飛び交っていた集団が一斉に湧いた。
「なんだ!? 」
バン、と半ば張り付くような勢いで窓の前に一目散に移動した番野は、ちょうど王都の中心、王城方面からこちらに向いて移動してくる一団を目にして言葉を失った。
「おい。どうしたんだ」
すると、その様子を見て何かおかしいと思ったのか、八瀬も同じようにして窓の外に視線を移し、同様に言葉を失った。
(おい……。おいおい嘘だろ!? 何故だ!?)
美咲は二人の様子から何かを察したらしく、外を見ようともしなかった。
大歓声を受けて街道の向こうからやって来る一団は、正真正銘、アウセッツ王国憲兵団だった。
番野は慌てた様子で八瀬に言う。
「おい、どういうことだ!? まだ会議には一週間以上時間があったんじゃなかったのか!? 」
「その筈だ! こいつは俺が城に忍び込んで掴んだ確かな情報だ! 」
「だけど現にこうして憲兵団は会議に出立しようとしてるじゃない!」
「クソッ! どういうことだ……!! 」
すると、騒ぎを聞きつけたのか、奥からひょっこりと夏目が顔を見せて言った。
「どうかされましたか? 」
「ああいや! なんでもないんだ、気にしないでくれ」
「そうですか」
夏目が引っ込むと、応答した番野が八瀬に言った。
「八瀬、緊急事態だ。もうドッキリどころじゃないぞ」
「ドッキリじゃねぇ、職場観察だっ。だが、そうだな。こんなことやってる場合じゃねぇのは確かだな」
そう言って、八瀬は店の奥に向かって言った。
「夏目!! ちょっと出て来い!! 」
『え!? し、師匠!? 』
と、可愛らしい驚いた口調の声が聞こえ、すぐにその声の主が姿を現した。
すると、ようやく八瀬の存在に気付いた夏目は、その両隣にいる男女を番野と美咲だと認識し、顔を真っ赤にして叫んだ。
「こ、来ないでって言ったのにどうして来るんですか!!? 」
「良いだろ別に。減るもんじゃなし。と、今はそんなことはどうでも良い。緊急事態だ。憲兵団が動き出した! 」
「あ、え、え? 憲兵団が……? 」
それを聞いて初めは三人と同様に驚いていたものの、八瀬を師匠と呼ぶだけあってかすぐに冷静さを取り戻し、外を見て分析を始めた。
夏目はそのたった数十秒後、八瀬に向けて言った。
「師匠。憲兵団のこのタイミングとあの軍団。考えたくはないですが恐らく、いえ、ほぼ確実にこちらの情報は向こう側に漏れていたと考えられます。ですが、漏洩元は番野さんたちではありません。この世界に来たばかりで大きなネットワークを築くことは不可能ですから。これは、何かしらの方法で盗み聞きされたと考えて良いでしょう」
「終わりか? 」
「いえ、まだあります。普通に会議の場所となるサヘラン公国へと向かうのであれば、速くても二日は掛かってしまいます。そして、どれだけ会議を早く終わらせて戻ったとしても丸四日は掛かります」
「ちょっと待った。だったら、そこまで気にする必要はないんじゃないのか? 」
番野の疑問に、夏目は人差し指を立てて答えた。
「まず、彼らの目的はわたしたちのクーデターをいち早く察知し食い止めたという功績を挙げることで間違いはないと思います。そのためには、わたしたちがクーデターを終える前に連合軍を引き連れて到着しなくてはなりません。この国にも高機動部隊のような物はありますが、それでも一日は掛かります。
ですから、彼らはそれ以上に速い移動方法を用意していると考えられます。それはなんだと思いますか? 」
夏目の問い掛けに、番野は首を傾げて答えた。
「車か? 」
「ブー。外れです。本当ならもっと時間を取ってクイズ形式に進めたかったのですが、何分時間がないので割愛します。正解は、『空間跳躍魔法』です」
「それってーー!! 」
「はい。わたしが普段使う魔法の一つです。ですが、何もわたしだけがこの魔法を使える訳ではないのです。普通にこの魔法を発動しようとすれば、最低でも一流の魔導士が十人は必要なのです」
「てことはつまり、この国にはそれを為せるだけの人材がいる、と? 」
「そうなります」
すると、その簡素な返事を聞いた美咲が夏目に言った。
「そんな簡単に言うからには、何か阻止する方法があるってことよね? 」
「あるにはあります。ですが、問題はこれだけではありません。と言うより、こちらの方がメインと言って差し支えありません」
○ ○ ○
彼女は飢えていた。今にも暴れだしてしまいそうな程に。
それは、彼女のいる場所には“ある物”が無いからだ。
話し相手ならば一人いる。その人間は王家の出身で、物腰が柔らかく、とても話しやすい。
食事も満足に取れている。彼女は今幽閉されている身だが、罪を犯している訳ではないため、上司という肩書きを利用して部下に満足な食事を持ってこさせているからだ。
娯楽は最早無いに等しいが、話し相手がいるので十分だ。
睡眠は十分過ぎる程に取れている。
では、何が彼女には足りないのか。
それは、闘争だ。
互いに武器を持ち、互いに命を懸け、互いの命を存分に削り合う。そんな分かり易い闘争が、この場所には絶望的なまでに欠如している。
しかし、それもこれまで。
彼女は知っていた。話し相手から聞いたのだ。
地上へと続く扉が開き、地下には無い光が射し込む。
そして、それと共に階段を降り、彼女のいる牢の前までやって来たその男は鍵をポケットから取り出して鍵穴に差し込んだ。
すると、カチャリという音共に錠が開き、牢がゆっくりと開かれた。
「シュヴェルト団長。この時を以って貴女の職務復帰とします。存分に、お働きくださいませ」
「ああ。任せておけ……!」
獣が、野に放たれた。