第38話《フリーター》VS《勇者》
「ん、ふわぁ〜……。もう朝か……」
未だ若干の微睡みが脳に残っているものの、番野の体は習慣となっている動作をする。
まずベッドから出て、部屋を出ると、ヨタヨタとした足取りで階段を下りて洗面所に向かう。
が、そこでここは自分の家ではないということを思い出した番野は、井戸を目指して外に出る。
「ううっ、寒ぅ……」
外に出た番野は、早朝の冷たい空気に当てられて体を震わせた。
日はまだ出ておらず、外はまだ薄暗い。それに、春になったばかりというだけあって冬の寒さが少し残っている。
「こりゃ、水がアホみたいに冷たそうだ」
冷える体をさすりながら、番野は隠れ家から出てすぐのところにある井戸の下まで行くと、桶を落として水を汲む。
そして、井戸に設置されているロープを引き、水の入った桶を引き上げる。
番野は、桶を井戸の縁に置くと、顔を洗う前に指を浸した。
「冷たっ! ふー、危ない危ない。こんなのいきなり被ったら心臓が止まるだろうな、多分」
と言いつつ、両手で水をすくい、顔を洗う。
すると、よくよく冷えた水によって番野の眠気は一気に吹き飛ばされた。
「……っ!! くぅーっ、冷たい! よし。眠気も覚めたところで朝練始めるか」
そう言って、番野はいつも使っていた木刀の代わりに、《勇者》に『転職』して剣を取った。
番野はこの早朝の朝練を幼少期の頃から一日も欠かしたことが無い。そのため、最早習慣となった『毎朝五時起床』が全く環境の異なるこの世界でも現れたのだ。
「うん。木刀とはだいぶ使い勝手が違うが、慣れるためにもこいつを使うとしよう」
番野は、柄を両手で握ると、長い息を吐いて精神を整える。そして、頭上に大きく振り上げ、踏み込み足と共に一気に振り下ろす。
剣は、かなりの速度で振り下ろされているが、棒などを振り回した時のような音は一切鳴っていない。刃が真っ直ぐに振られている番野の剣は、まさしく空を“斬っていた”。
「へぇー。朝練なんて、結構気合い入ってるじゃない」
「っ!? 」
そうしていると、突然投げかれられてきた声に番野は少々驚いた様子でその方向を向く。
そこには、腕組みをして玄関前で偉そうに立っている美咲の姿があった。
「美咲か。びっくりさせないでくれよ。ところで、お前も朝練か? 」
「ま、そんなとこね。でも、細かく言えば朝練とは少し違ってくるかも」
「どういう意味だ? 」
「朝の運動がてら、君と戦ってみようかと思ったのよ」
「え? 」
屈伸をしながら何気なく言う美咲に、番野は思わず聞き返した。
「だから、模擬戦やろうって言ってるの」
「模擬戦? こんな朝っぱらから? 」
「いいじゃない別に。良い運動になると思うけど? 」
「まあ、そりゃ、良い運動にはなるだろうけどさ……」
朝は結構弱い方なんだよなぁ、と内心でぼやく番野。すると、番野と会話をしている間に準備体操を終えた美咲が剣を手に取って番野に言った。
「ほら、早く始めましょ」
(聞く耳持たずか……。仕方ない)
番野は、軽くため息を吐いて、美咲と向き合った。
「分かったよ。あ、そうそう、俺は朝に弱いんだ。どうかお手柔らかに頼むぜ? 」
「心配しないでいいわよ。殺す気で行くから」
「寸止めでよろしく」
番野が軽い応答をする。
そうして美咲は剣を構えた。
柄を両手で握り、柄尻を腹の位置に据えて剣先を相手の首に向ける中段の構え。
(なるほど。剣道か。なら、少しは剣の覚えがあるって事だな)
それに応じて番野も剣を構える。
ただ、その構えは独特だ。体を半身に開き、少し腰を落として剣を右手で持ち、その切っ先を相手に向けている。
まるで、突きを繰り出す前のような構えだ。
(あの構え、もしかして我流? どっちにしても、これまでの番野君の戦いぶりを振り返るに油断はできないわね)
美咲は呼吸を整える。
その次の瞬間。
「ッ!? 」
番野には、一瞬美咲の姿が消えたように見えた。
眼前に迫る美咲の剣をギリギリで視界に捉え、捌く。
すると、美咲はその反動を利用して体を回転させると、番野の胴目掛けて深く斬りこんだ。
「ぐっ」
美咲の攻撃を捌いて剣を右手に持ったままでは防御が間に合わないと判断した番野は、咄嗟に剣を左手に持ち替えて地面に剣を突き立てるような形でその斬撃を防ぐ。
そして、体を戻し、右手で剣を抜き横に薙いだ。
「あっーー」
「はあっ! 」
すると、それまでの物より一際大きな快音が鳴り、美咲の剣が弾かれる。そこに生じた隙を番野は容赦無く突きに行く。
(美咲は今攻撃を弾かれたせいで体が正面を向いていない。だから、速攻をかければ防御は間に合わない! )
番野は、払った剣の柄をすぐさま両手で掴み、斬り返した。
しかし、
「ほっ」
美咲は、その一撃をほとんど視認していないにも関わらず、まるで初めからその場所に攻撃が来る事が分かっていたかのような自然な動きで紙一重で躱した。
「それじゃ、今度は私の番っ」
笑みを浮かべながらそう言った美咲が繰り出したのは、体の捻りを加えて放たれる高速の突きだった。
(おいおいおい、当たったら死ぬだろこれ!! )
命中すれば必殺となる胸への突きは、その速度を落とすことなく目標へと向かう。
つまり、
「どうにかしろってことですかよッ!!」
半狂乱になりながらも、番野は美咲の突きを防ぐために動いた。
最早一秒と待たずに命中するであろう突きに回避は間に合わないし、剣による防御は言うまでもない。
(だったら、止めるしかない!)
番野は、剣を背後に放ると、空いた両手で美咲の剣の腹を挟み込むように持っていく。
この土壇場で真剣白刃取りを敢行したのだ。
「えっ!? 」
これにはどうやら仕掛けた本人も予想外だったらしく、大きく目を見開いた。しかし、速度は依然として変わらない。
(間に合えぇっ!! )
次の瞬間。美咲の剣が番野の胸からほんの数ミリまで接近したところで、番野の両手が高速の剣を捉えた。
が、油断はできない。いくら取ったからと言って、まだ止めたことにはならないからだ。
最後の押し込み。
これを防ぎ切らなければ意味が無いのだ。
「はあぁぁぁあああ!! 」
全力を両手に注ぎ込む。
「ぐうぅぅぅううう!! 」
美咲の余りの押し込みに、番野の体が後ろに押されて行くが、それと共に美咲の力も徐々に落ちていく。
そして、番野が三メートルほど押されたところで、ようやく止まった。
「止められた……」
美咲にしてみれば必殺の一撃を止められたことになるが、今番野は無手だ。余程の攻撃を見切る力が無い限り、二度もこんな事を成すことはできないだろう。
番野もそんな事は分かっている。今は無手の自分が圧倒的に不利だと。だが、同時にこうも思っていた。
(だが、そんな事は俺が武器無しでの攻撃手段が無いのが前提の話だ。見せてやる)
そこで、ぐっともう一度手に力を込めた番野は、剣を少しだけ自分の斜め後ろに引き出して美咲の態勢を前のめりに崩す。
そして、手元まで引き出されて来た美咲の腕を掴み、一息に捻り上げた。
人間の体は、身の危険に対してとても敏感に出来ている。例えば、手首を少しでもおかしな方向に曲げられただけで本人の意思とは無関係に地に伏してしまうのだ。
それと同様に、普通には曲がらない方向に腕を捻られた美咲の体は、軽々と宙を舞った。
「え……? 」
恐らく、この様子を他人が見たなら、美咲が自分で飛んでいるように見えるだろう。
そして、ふわりと宙を舞った美咲の体は突然落下の速度を上げ、地面に吸い込まれていった。
「ぅぐっ!! 」
ドシャッと背中から落ちた美咲は、衝撃に肺の空気を吐き出さされる。が、それでも美咲は体を起こそうする。
しかし、美咲の首元に添えられた番野の手刀がそれを遮った。
「終わりだな」
番野の一言に、美咲は両手を挙げて観念したように言った。
「はぁ。降参」