第29話 五百人殺しの女
「はぁ? 」
今、自分がどのような顔をしているか番野自身は知る由も無い。
一体何を言っているのか分からない。そんな事はある筈が無い。五百人余りをたった一人で? あり得ない。
「絶対に無理だ」
ふとその口からポツリと言葉が漏れた。
しかし、無意識に言葉を発した筈の唇がまるで何かに怯えているかのように僅かに震えているのは何故だろうか。
一体何者なのかも示されていないし、性別すらも教えられていない。
その上数々の否定の言葉を並べ、無意識のうちに言葉を漏らしていた番野の脳裏には、また無意識のうちにある人物の姿がチラついているからだ。
いや、その前に否定の言葉を並べ始めた時点で既に何かを感じていたのか。
あの声が、あの剣筋が、あの殺気が、それに意識を向ける度に鮮明に浮かび上がる。
そんな番野の様子を見た八瀬は、同情すると共に番野を認めた。
(俺も初めて“アレ”と対峙した時には生きた心地がしなかったからなぁ。まあ、一度逃げ切れたからって高を括ってないようで何よりだ。そんな程度じゃ、次会った時に確実に殺される)
そう思いながら、八瀬自身も危うく殺されそうになった時の事を思い出して肩を震わせた。
すると、横にいる夏目が八瀬の顔を覗き込んで少し心配そうに言った。
「風邪でもひきましたか? 」
「いや、大丈夫だ。ピンピンしてる」
フッと微笑むと、夏目は安心したように言う。
「なら良いのですが」
そして、八瀬は番野らの方に向き直って言った。
「さて、続きを話そうか。
その話を聞いた俺は、“そいつ”の事を色々と調べ回った。そうすると驚く程色んな情報が集まった。
そいつの事を『雷の化身だ』とか言う根も葉も無い噂みたいなもんから『魔法の剣を使う』なんて言うこの世界ならあり得そうなもんまで数々。
だが、情報を整理していく中で俺はどの情報にも必ず一つの共通点がある事に気付いた」
それはな?
そう言ってわざとらしく間を空けると、八瀬はゆっくりと言葉を紡いだ。
「ーーまだ若い、女の憲兵だったそうだ」
「お、んな……? 」
「ああ。んで、その女はその出来事がきっかけで大出世。功績と元々の実力も評価されて一憲兵から副団長にまで一気に昇進したそうだ。その後は流れのままに団長に就任して今に至るって訳よ」
「お、おいちょっと待て」
「な、なんだよ? 」
スラスラと話し終えた八瀬に番野が机から体を乗り出して言う。
「さっき、何て言った?」
「な、なんだよって言ったが? 」
「違う! もうちょい前! 」
「その後は流れのままに団長に就任した、で良いのか? 」
「て事は、まさか……」
顔面蒼白一歩手前の顔色で呟いた番野に、八瀬が無理矢理繕ったような笑みで言う。
「ようやく、気付いたってとこか? その反応からするとお前、一回はバッチリと顔合わせてんだろ」
「ま、まあ。だが、その時は何も起きなかったぞ」
「そりゃそうだぜ。いくらあんな事をしたっつっても、あの女は憲兵団長だ。
善良な一般市民をいきなり斬る、なんて暴挙に出る訳がねぇ。
だが、バッチリと顔を見られてあまつさえ悪事を働いたと認識されている“元”善良な一般市民達には何をしてくるか分からん。ま、流石に場所くらいは選ぶだろうが……」
と言って、腕を組んで背もたれに体を預け、何かを考えるように八瀬は顔をしかめる。
(とは言ったものの、あの女は命令をしくじった。
流石に解任まではいかんだろうが、少なくとも数日ぐらいは身動きが取れなくなるだろう。
こういう無能な点だけがあの王様の感謝すべきとこだな。まあとにかく、この数日でいかに準備するかがーー)
と、そこまで考えていた八瀬の袖を控えめに夏目が引っ張る。
すると、八瀬は目を開けて夏目に目を向けた。
「どうした? 」
問い掛ける八瀬に、夏目がチラッと番野らの方を見てから言う。
「先程からいつお伝えしようかと思っていたのですが……
」
「なんだ? 」
「美咲さんが、お舟を漕いでいます……」
なにぃ? と言って前を向いた八瀬は、
「すぅ……すぅ……むにゃ」
「……ほう」
気持ち良さそうに寝息を静かな寝息を立てて眠っている美咲を見ると、イスから立ち上がって美咲の隣に移動する。
そして、右手の中指と親指に渾身の力を込めて美咲の額に中指を照準し思い切り、ーー弾いた。
「あいたすッ!!? 」
八瀬の渾身のデコピンを受けた美咲は奇妙な声を上げると、つんのめった勢いでイスごと後ろに盛大に倒れた。