第132話 今度こそはと、伸ばした右手
番野の掛け声。
それを受けてまず動き出したのは、意外にも美咲の方だった。
「ッ--」
踏み込みの後の二歩目のタイミングを僅かにずらし、三歩目での急加速。
「なっ……」
その急激に過ぎる速度の緩急は、番野であっても美咲の姿を一瞬見失うほど。いきなり目の前に美咲が現れたかのような錯覚に、番野は慌てて刀を正面に掲げる。
次の瞬間、ほとんどヤマ勘で掲げた刀に美咲の剣がぶつかり、鋭い金属音が鳴り響いた。
ここまで、約一秒。
「ツガノ!」
「おま、マジかよ!」
打ち合いに一瞬遅れて、シュヴェルトとヤングが美咲の接近に気付いた。そして、同時に間合い。番野と競り合う美咲の腕に、シュヴェルトが手を伸ばして捕獲を試みる。
「ぐ、うおっ――」
が、そう上手くいくはずはなかった。美咲はシュヴェルトの行動を視認することなく、気配のみでそれを察知。番野の刀を強引に弾いて競り合いを終わらせると、彼女の手が届く前に素早く後方に退いた。
「くっ……!」
回避されたシュヴェルトの手が空を掴む。
「…………」
もしかすると、美咲はこうなるように誘っていたのかもしれない。通常、素早い動きや、とっさの動作というものは、筋肉が緊張しすぎていないことはもちろん、関節が十分稼働できる余裕があって初めて成立するものだ。
美咲を捕まえようとしたシュヴェルトの腕は今、完全に伸び切っていた。腕が伸び切っているということは、関節である肘が稼働しきっている状態にあることに他ならない。つまりそれは、急な動作へ移行できる余裕が無いということ。
バックステップで一時的に後退したかに思われた美咲だが、その目的は三人と距離を取ることではない。彼女の真の狙いは、頭上で構えられた剣が物語っている。
(まさか、初めからこれを……ッ!?)
美咲の生気のない瞳が見つめる先には、鍛え上げられていながらも女性的な細みを持つシュヴェルトの右腕。その肘をめがけて、美咲が剣を振り下ろした。
「危ない!!」
腕は飛ばなかった。寸前のタイミングで、ヤングが間に割り込んで双剣で刃を受け止めたのだ。
剣を防御された美咲は、続けて反撃がくると危惧してか距離を取ろうとする。
「――ッ」
ところが、ヤングの双剣で受け止められた剣が動かない。表情こそ変化が見えないものの、美咲の挙動からこの現象に対する僅かながらの動揺がうかがえる。なんとか剣を引き出そうと試みるも、ギチギチと耳障りな音が奏でられるばかりで、剣が自由になる様子はない。
そのとき、対するヤングはしめたとばかりに笑みを浮かべた。
美咲の剣が抜けない理由。それは、ヤングが双剣で受け止めた直後から、逃さぬようにと挟み込んでいたからだ。
「悪ィが、コイツは自由にさせてやるわけにゃいかねえな……! 姐さん! 番野!」
「わかっている!」
「ああ!」
ヤングの号令を合図に、番野とシュヴェルトが動いた。
「ッ……」
と、その瞬間に美咲も動いた。つい数秒前まで取り返そうとしていた自身の剣から手を離したのだ。
「えっ」
あまりにもあっさりとした選択。正面から彼女の行動を目の当たりにしたヤングは、思わず呆気に取られて間の抜けた声を上げた。直後、腹部に突き刺すようでいて、重量のある衝撃。
「ぁは、ッ……」
想定になかった反撃を、ヤングはモロに受けて無様に後ろにごろごろと転がる。
美咲は宙を見上げた。彼女は賭けた。もしかすると、今の衝撃であの忌々しい男が捕らえていた剣を手放すのではないか、と。そうなったのならば、私は再び剣を手にしてそこの二人を難なく迎撃することができるのに、と考えたからだ。
「…………」
空中のどこにもきらめきは無く、彼女の視界にはまるで鳥かごのように空を塞ぐ大木の枝葉が映るのみだった。この闇から逃しはしないと、そう物語っているかのようだ。
美咲は正面を向いた。二人は止まっていない。蹴り飛ばされたヤングには一瞥もくれず、各々の役割を果たすために前進を続けてくる。
美咲は地面を見下ろした。
「背後、取った!」
その一瞬で、美咲の背後に回ったシュヴェルトが合図とばかりに声をあげ、がっしりと両脇から羽交い絞めにした。美咲に抵抗する様子はない。背後に回られたときも、羽交い絞めにされるときも、されている今も、先程までとは打って変わって抵抗の意思すら感じられない。こうなるのは仕方がない、と甘んじて受けているように見える。
「ツガノ!」
「分かってる!」
そのような様子ではあったものの、いつまで彼女がおとなしくしているかは分からない。反撃を警戒して番野を急かす。
シュヴェルトに急かされながら、番野は手を伸ばした。一度は実力及ばずに掴み損ねた手を、今度こそは救い上げるために。
(届く。今度こそ、届く。届かせる!!)
決死の思いで伸ばした手は、見事に美咲の肩を掴んだ。それはつまり、番野にとって戦いを終結させるのに必要な距離であり、同時に美咲にとっては反撃を加えられる間合いである。彼女がやろうと思えばヤングのときのように、番野を蹴り飛ばすことも可能だ。
それでもなお、美咲はそれ以上の攻撃をしようとはしなかった。されるがまま、諦観。今の彼女は、差し詰め自らの死を理解して受け入れた家畜のように思える。
(……待て。何かおかしい。いくらなんでも潔くなりすぎだ……まさか!)
美咲の急落な態度の変化を疑問に思ったシュヴェルトは、とある可能性に行き着いた。未だひとつの可能性に過ぎないそれを、シュヴェルトは焦った様子で番野に伝える。
「ツガノ! 早くするんだ! 彼女は、もしかすると自害を……!」
「大丈夫だ。そんなことは、俺が絶対にさせない」
番野は、美咲の肩越しにシュヴェルトに言った。
彼の言葉は自信に満ちていた。しかし、シュヴェルトには自信とは異なる、確固たる経験がある。勝利を逸る気持ちも相まって、番野に早い行動を訴える。
「だい、じょうぶって……。歯に毒薬を仕込んでいる可能性だってあるかもしれないんだぞ!? そんな人間の自害をどうやって止めると――」
「ありがとう、シュヴェルト。でも、やっぱり大丈夫だ。それと、ここまで手伝ってもらってからで悪いけど、少し離れていてくれないか? 俺と美咲で、二人で話したいことがあるんだ」
「なっ、貴様……」
番野の言葉に、シュヴェルトの声に明らかに怒りの色が乗る。それもそうだ。ボロボロになってまで作戦に参加し、自らの役割を達成した後に、それらの努力が無かったことにされようとしているのだから。
対する番野は、怒る寸前のシュヴェルトに小さく頭を下げて言った。
「すまない。頼む」
ただ、その二言だけ。
「…………」
シュヴェルトとしては、納得できようはずがない。戦意を喪失しているようには見えても、拘束を解いたところで再び暴れ出すことも無いとは言えないからだ。そして、一呼吸ぶんほど考えたあと、彼女は深い溜息を吐いた。
「はぁぁ……。分かった。言う通りにしよう。だが、何かあったときにはいつでも介入できる位置までだ。これでいいな?」
「ありがとう……」
番野が礼を述べると、シュヴェルトは言葉通りに美咲を解放して少し離れたところまで移動した。やはり、美咲に攻撃の様子は無い。
(やっぱり攻撃はしてこない。だが、気になるのは……)
番野の見つめる先は、美咲の白くきめ細やかな首筋。そこには、古代文字めいた蠢く黒い模様が浮かび上がっていた。それは、徐々に顔へと這い上がってきているのが見てわかる。それどころか、首から鎖骨、さらにはその下のほうからも続いてきているように見えることから、すでに全身に広がろうとしていることが容易に想像できる。
これが、美咲に仕込まれた『呪法』。美咲は、なにも諦めたわけではなかった。美咲の武器は、なにも剣だけではなかった。これこそが美咲の、ひいてはソーサレア・マナチャイルドの本命だった。
解除方法はただ一つ。それを番野は、もう知っている。
(あとは、俺の想いを伝えるだけだ)
番野は、俯いている美咲に言葉をかける。
「こんなに待たせて、本当に悪かった」
反応は無い。言葉が届くかは分からない。声が届いているかは分からない。それでも番野は、贖罪を口にする。
「あのときは、俺の力が全然足りなくて、お前を助けられなくてごめんな。あれからお前がどんなことを考えていたのか、アイツらにどんな目に遭わされてきたのか、俺には想像もつかない。けど、あのとき俺を刺したお前がどうして謝ったのか、本当の意味がいま分かったよ。だから、次にお礼が言いたい。あのときは、俺を助けてくれてありがとう」
黒い模様はとうとう顔にまで到達し、美咲の身体が二人静に輝き始める。破滅の時が近付いているのだ。
「それともうひとつ、伝えたいことがある」
そう言って、番野は右手で美咲の顎を、クイと上げた。まったく慣れていない動作だ。彼にとっては、これが初めての体験なのだから仕方がないといえよう。しかし、その動作のどこにも、迷いは感じられなかった。
俯いていた美咲の顔が上がる。目が合った。番野は、美咲の瞳に目を凝らす。透き通っていながらも、底が一切見て取れない、厚塗りの闇。そこに渦巻く濁流の中に、ぽつ、と光る一点の希望を番野は認めた。
(いま、引っ張り出してやるからな……!!)
そして、番野は告げる。
「美咲叶。俺は、貴女が大好きだ」
添えた手をそのままに、美咲の唇に自身の唇を合わせた。ぷっくりとしたやわらかい感触と、ほのかに甘い味が、番野の実感を強めた。
広がっていた輝きが収束する。音も無く、大気の流動も無く。何事もなかったかのように、戦場をまるまる消し飛ばしてしまえる程の威力を携えていた『呪法』が、その効力のすべてを失った。
「っ――」
そのとき、番野の頭部が不自然に揺れた。くらりふらりと、突然重みを支えきれなくなったかのように。そのまま、彼は糸の切れた操り人形のように崩れ落ちていく。
「ツガノっ」
異変に気付いたシュヴェルトが慌てて駆け寄ろうとするが、番野の身体は地面に叩きつけられる前に彼女に抱き留められた。彼女は――美咲叶は、番野をやさしく、それでいて腕から零れ落ちないようにしっかりと支えながら、彼の感触と体温を感じるように抱擁した。
少し心配そうな面持ちで番野の顔を覗き込んだが、美咲はすぐに頬を緩めた。それは、番野が意識を失ったのではなく、安堵しているように深い寝息を立てていたからだ。
「……もう」
思わず零れる、小さな不満。けれどもそれからは、愛らしさのみが感じられる。
美咲は、心地よさそうに眠る番野に、苦笑いを浮かべて言った。
「普通、告白した直後に寝るなんてありえないよ。そんなことされたら、私だって返事したいのにできないじゃない……」
彼を起こさないように小さな声で、美咲叶は返事を送った。