第111話 一抹の休息へ
「――さん……、――のさん、番野さん!」
声が聞こえる。番野は、それが自分の名であると理解して重い瞼を開けた。
「ッ――!」
驚きに息を呑む音。それは番野の耳元で聞こえたが、覚醒したばかりの彼の脳は正しく認識する事ができなかった。
手を動かそうと力を込めるが、まるで麻痺しているかの様に思うように動かなった。
そのうえ、体全体が重い。鉛の塊が乗ってるみたいだなと、番野はいまいちハッキリとしない思考で思った。
(確か、ついさっきまで体の方は死にかけてたんだっけ……。意識はアルゼレイの世界にあったからいまいち実感が無いな……。そういや――)
と、虚ろだった思考が再始動したところで、番野はある言葉を思い出した。
『さて、時間だ。目覚めたら、夏目のお嬢ちゃんにきちんとお礼を言う事だ。いいね?』
それは、アルゼレイの支配する世界で、彼から最後に伝えられた言葉だ。
そしてようやく、ぼんやりとではあるが思考回路が元の軌道に乗り始めた番野の脳は、その言葉の真の意味を理解した。
(つまり、現実世界で俺の体の傷を治療してくれてた人間は夏目って事か。となれば、今俺の真横にいる奴も夏目だっていう認識で間違いは無さそうだな)
「ッ、あ…………」
未だ体に重みを感じるものの、そのどこにも痛みと表現できる感覚が無いのは彼女の必死の治療あってのものだろう。
番野は、自身の腹部にあった傷の有無を確かめる様に患部だった場所に手を当てつつゆっくりと体を起こした。
「番野、さん……?」
すると、横からまるで信じられない物を見ているかの様な驚愕と、起こり得ないと思っていた奇跡が起こった時に発せられる様な歓喜が入り混じった声が聞こえて来た。
そのとき番野は、ふわりと、柔らかく温かい風が頬を撫でたのを感じた。
それは、それだけ夏目の顔が間近にあるという事実を証明し、同時に彼女がどれほど番野の身を案じているかの証明にもなった。
「ああ……」
吐息が、開いたままの口から漏れ出た。
これで二度目かと、番野は罪を数える罪人の様に内心で呟いた。
一度目は、《裁定官》との戦いで。
そして、今回が二度目。
二度、番野は夏目沙月という一人の少女に死の淵を彷徨う己の姿を目の当たりにさせている。
年不相応に大人しい口調とは裏腹に、未だつつけば壊れてしまいそうな未熟な精神をしている彼女に、二度も同じ苦痛を味わわせてしまったのだ。
一種の屈辱とも取れる感情を番野は抱いていた。
「番野さん……? あの、大丈夫ですか?」
すると、そんな様子の番野に夏目が心配そうに声をかけた。
番野はそんな彼女の呼び掛けにすぐには反応できないでいたが、我に返ると慌てて返事を返した。
「……あ、ああ! 俺は、もう大丈夫だ! そうだ。俺の傷を治してくれたの、夏目だろ?」
「え、ええ。ま。そうですが……」
「そうかそうか。ありがとな! えらいぞ~。よくやってくれた!」
言って、番野は夏目の頭に手を置き、わしゃわしゃと撫でた。
「ん、ふふ……」
番野からのご褒美は彼女に存外に気に入られたようだ。夏目は安心したように頬を緩め、頭を番野の手に委ねている。
どうやら、彼女の不安を取り払うという番野の任務は無事達成されたようだ。
そうして、番野がしばらくの間、彼女の求めるままに応じていた時だ。若干息を荒くした人物がその場に現れて、冷やかす様な口調で言った。
「オイオイ、番野。お前、いつの間に沙月を手籠めにしやがったんだ? 少なくとも、俺はまだ許可した覚えは無えんだがよ」
その物言いに、番野は驚いた様にビクリと肩を震わせた。そして、声のした方向に顔を向け、その人物に抗議する。
「八瀬っ……。お前なあ、手籠めとか言葉が悪すぎるんだよ。そんな言い方じゃあ、俺が夏目を狙ってるみたいに聞こえるじゃないか」
「えっ……」
「いや、違うからな!? 本当にそんなつもりは無いからそうやって軽蔑の目で見るのはやめて!」
本気で傷付いたと言わんばかりの声で言った番野の様子を見た八瀬がそんな彼を鼻で笑った。
「はっ、冗談だっての。本気にしやがって。アホか」
「なんだと!?」
「あーあー怒るな怒るな。元気になったのは分かったからよ、その元気を使って俺を殴るより、夏目を褒め称えるのに使ったらどうだ?」
「うわ。コイツ、夏目の功績を盾に使いやがった。信じられねえ」
「ははっ! まあ、そう言うなよ。部下の手柄は何とやらだ」
「お前、それ嫌われる上司のセリフトップスリーには入ってるぞ」
「ふん。そんだけ頭が回るようになってんのならもう十分だろ。オラ、いつまでくっ付いてやがる。とっとと離れやがれ。不純な異性交遊はお父さん認めません」
「待てよ。誰が、誰のお父さんだって?」
軽口を叩き合い、彼らは互いの無事を確認し合った。
「さて、と」
そう言って、番野は膝に手を着き立ち上がった。
「ほら」
「あ、ありがとうございます」
立ち上がった番野が手を差し伸べると、夏目はその手をやや躊躇いがちに取った。
彼女の手を引いて立たせると、番野は八瀬の方を向いて少し神妙な面持ちで切り出した。
「ところで、八瀬。あの四人はどうなってる?」
「ああ。あいつら三人なら、医務室で治療中だ。ま、今まで同盟の最前線に出張ってた奴らだ。あれぐらいで戦線離脱する程ヤワじゃねえよ」
「三人?」
「ああ、そうだ。残りの一人は、言わなくても分かるだろ?」
「あー」
当然そうだろ? と言うような彼の物言いに、番野はあの、どこか人を小馬鹿にしたような笑みを思い浮かべた。
「……いや、まあぶっちゃけ他の三人が無事ならそれで良いんだ、うん。いくら仕方無かったとは言え、俺のせいで主力の数が減りましたーって事態はなるべく避けたかった……。なにせ、俺じゃあとてもアイツらの代わりは務まらないからな」
「ま、そうだな。お前がもとから《英雄》ばりの実力を持ってたのなら、端からこんな苦労はしてねえよ。だがまあ、見舞いぐらいは行っとけよ? あともう何日と経たねえうちにリュミエール皇国との全面戦争が控えてんだからな。コミュニケーション取って、少しでも仲良くしておけ」
「なんだその、普段無口な父親がボッチの息子に友達作りのアドバイスしてみたみたいな言い方は。言われなくても最初からそのつもりだよ。と言っても、今日はもう疲れたから部屋に戻って休むつもりだが」
「確かに、それもそうだな。結果的に生きてるとはいえ、一時は死んでもおかしくない状態にあった訳だからな。大事を取っといて損は無えだろ」
「ああ。ありがとな。さて、と……」
番野は膝に手を着き、掛け声と共に立ち上がった。
「そんじゃ、お疲れさん。また明日な」
最後にそう言って、番野は踵を返した。
手をひらひらと降りつつ飄々とした態度で立ち去るその背に、新たなる苦難が降りかかろうとしていた。