第107話 総勢、五二四〇万
「ーーさて、と」
ぐにゃり、ぐにゃりと捻じ曲がって行く景色の中で、番野だけは確かな存在として何の揺らぎも無くそこに立っている。
雷竜の力を振るう強敵シュヴェルトを打倒した彼は、あとは四方四カ国同盟の実質の盟主であるアルゼレイを倒すのみとなっていた。
しかし、その体の至る所に刃傷や打撲を始めとした、三度の戦闘で受けた傷が刻まれている。
一応、番野は戦闘が終わった後に隙を見て《魔法使い》の回復魔法を用いて少しずつ傷を治療していたのだが、魔力を使い過ぎたために、シュヴェルト戦の傷を十分に治療する事ができないでいた。
その証拠に左腕は骨を軽く繋ぎ合わせた程度までしか治療できていない。剣に手を添える程が限界だろう。
(まあ、アルゼレイ戦に備えて少しは魔力を温存しときたいしな。アイツが、俺の剣一本で倒れてくれるとも限らないし)
番野は、まるで調子を伺う様に自身の剣に視線を向ける。
(ここまでの三戦。どれも最後の決め手になったのは剣術以外だ。つまり、俺の剣は通用はするが、そこまでのレベルでしかないって事だ。剣が一番得意な身としては、ちょっと複雑だな)
自虐的に笑い、続いて左腕を動かして動作を確認する。
(痛くない……訳じゃないが、ちゃんと動く。なら、今はこれで十分だ)
そして、顔を上げ、前を見る。
するとそこには、夜に不気味に浮かび上がる城を背にして、暗闇の中で紅の瞳を爛々と輝かせるアルゼレイ=クラレッサの姿があった。
アルゼレイは、旧知の友人に挨拶する様に片手を挙げ、軽い口調で番野に言う。
「やあ。来たね、番野護くん」
「黙れよ元凶。アンタが変な事言い出さなけりゃこんな事になってなかったかもしれないんだからな」
番野の、明らかな敵意を含んだ言葉。
アルゼレイは、それに驚くでも、憤慨するでもなく面白がっている様な反応をする。
「おや、これは随分ご挨拶だねぇ。もしかして、ボクの事嫌い?」
「どうだろうな。ただ、俺はアンタにムカついてる。それだけは確実に言えるぜ」
「うん? ボク、君にそんな気に障る様な事したかい?」
聞き返すアルゼレイの口調は、本当に自分が何をしたのか分かっていないようだった。
(まあ、実際そうなんだろうな。アンタにとってあれは何でも無い事なんだろう。だがな、それで俺の友達が傷付いてんだ。知っていようが知らなかろうが関係無い)
そう考えてなお、番野はこう言った。
「いや、何でも無い」
「ああ、そう? じゃあ、とっとと始めるとしようか。これが、最後の試練だよ」
アルゼレイは、自らの前に立つ挑戦者を迎え入れるように両手を広げた。
世界を己の影で蝕みながら、夜の支配者は不敵に笑う。
「キミに、ボクの力の一端を見せてあげようーー『彷徨え、骸よ』」
アルゼレイが呟いた直後、ドクン、と地面が脈動した。それは、さながら心臓の鼓動にも感じられた。
「これ、は…….!」
そして、番野は目撃する。
主の呼び声に応えて、既に朽ちた肉体ながら地中から這い上がって来る武装した骸の数々を。
それは、これまでにアルゼレイ=クラレッサの四〇〇年を超える生の中で彼に仕えてきた忠実なる臣下達。彼らの死後もその魂は尊敬する主人と共にあり、必要とあればいつ如何なる時も主人の元に馳せ参じる憐れな忠臣達。
総勢、五二四〇万。その数の雄がこの戦場に一挙に集結した。
「ッ…….」
アルゼレイにただならぬ気配を感じて一時後退していた番野だったが、その圧巻の光景に思わず息を飲んだ。
その常軌を逸した景色への恐怖から、番野の本能が最大音量で警鐘を鳴らす。
ーー逃げろ。
ーー逃げろ。
ーー逃げろ。
かちかちと歯が鳴り始め、手足がどうしようもない程震える。
あの大軍をまともに相手取ればまず間違い無く自分は死ぬだろうと、番野自身よく理解していた。
(死、ぬ……!!)
早く逃げ出さなければ。さもないと自分が殺されてしまう。
「…….?」
しかし、番野は困惑した。
逃げようとした。武器も捨てようとした。それなのに、足が敵に向かって一歩を踏み出していたからだ。
まるで、逃げ出そうとした番野を叱咤し、試練に立ち向かわせる様に。
(なん、で……)
わざわざ死にに行こうとしている自分の体に番野は問うた。
すると、番野の肉体は彼にある言葉を思い出させた。
『ああ。勝って来い』
それは番野に敗れた際にシュヴェルトが発したものだ。
同時に、その言葉に込められた彼女の強い意思が番野の脳に流れ込んで来た。
其れは、自身を乗り越えた者の実力を認めた言葉。
其れは、他者に意思を託した者の言葉。
其れは、敗退など許さない、勝利を約束させる呪い。
「ーーハ」
その真意を理解し、番野は俯いたまま笑った。
その笑いは『何か』を諦めたようにも見える。
それは、戦う事ではない。武器を捨て、敵に背を向け無様に逃げ出す事に他ならない。
自然と体の震えが止まる。
剣を握る手に力が戻る。
『ただ、勝つ』という堅固な意志が瞳に宿る。
(……そう、だよな。俺は、これまでの三人の信念を踏み台にしたからここに立ってるんだ。そんな俺が普通に負ける以前に敵前逃亡とか絶対にやっちゃいけない事だ。ああ、いけねえ。弱気になってたんだな、俺)
あの時、必ず救い出すと決めた少女の笑顔が、怒り顔が、驚いた顔が、恥ずかしがっている顔が、泣き顔が次々と思い浮かぶ。
(そうだ。ここを乗り越えねえと、美咲を助ける舞台に上がる事すらできないんだ。ここで気合い入れねえでどうするよ……!)
直後、パチンと肌を打つ音が戦場に響き渡った。
「っーー」
番野が両手で自身の頬を張ったのだ。
それによって頬が赤くなり、思考がリセット、戦闘用に切り替わり再回転する。
「やるしかねえ……やってやる!!」
番野はそう意気込み、剣を構える。
覚悟は決まった。あとは、己の実力を信じて突き進むのみ。
番野の放つ気配の変化を微かに感じ取ったアルゼレイは右手を掲げ、軍隊の後方に位置する一〇〇〇万の弓兵に指示を飛ばす。
「弓兵構え」
その一声に従い、弓を持った骸等がカラカラと軽い音を立てながら矢を番て射出姿勢を取る。
全く無駄の無い統率の取れた動きは、練度が非常に高い証拠だ。
そして、アルゼレイは番野にとっての死の宣告と共に引鉄を引いた。
「ーー放て」
「ッッッーー!!」
次の瞬間、一〇〇〇万本の矢が番野に殺到した。