Mochi-tsuki シングル
ある春先の日のこと。
一.
「う~~、ガソリンガソリン……」
深夜の山奥深く、ガソリンを求めてクルマを走らせている俺は、道場に通うごく一般的な剣道部所属の学生だ。強いて違うところを挙げるとすれば、オカルトに興味があるってとこかナ――実際、幽霊とかのたぐいは見たことはないけど。ああ、俺の名前は望月一人だ。カズって呼んでくれ。以後よろしく。
――え? ひ、ひとりって言うなあーーっ!!
さて現在の状況だが、こいつは全くもって芳しくない。山ん中を走っていると言っても、いわゆる普通の自動車道ではない。舗装もされていない森の小径を、がたっがたっとクルマを揺らしながら走っている。『酷道』《こくどう》――そんな単語が頭をよぎった。燃料計は『E』という方向にメーターが振り切れ、いつガス欠になってもおかしくない状況だ。
月や星がきれいだし、ちょっと隣の県まで夜のドライブでもしてみようかな……。そんな軽いノリで運転を続けていたわけだ。で、ガソリン残量が心許なかったからガソリンスタンドに入ろうと決めたわけだ。しかし、入ろうと思っていたガソリンスタンドが、不況のあおりを受けたのか無くなっていたわけで。そこから俺の勘によるガススタ探しが始まったわけだ。
――思い返してみると、やっぱりあの時、曲がる道を一つ間違えたとしか思えない。俺が選んだ道は徐々に狭まっていき、森の中へ中へと入り込んでいく。いつの間にか取って戻ることすら出来ない状況に陥っていた。上ったり下ったりを繰り返しながら、木々に囲まれた小径を走るうちに、ついにガソリン残量が本格的にヤバくなってきて――。
「くっそう! 最悪じゃねえか……」
じれる俺は舌を打ち、揺れるステアリングを抑えながら闇の中を走る。Uターンなんて出来るような広い場所はない。仮に出来たとしても、元の道に戻るまでにガス欠になっちまうだろう。
(今度のカーブの先からは舗装路になっているに違いない! これだけ走り通してるんだし、もういい加減大きな道とぶつかってもいい頃だ。どうか!)
俺はカーブを曲がるたびに幾度もそう念じてきたが、いまだかつて願いが叶った試しがなかった。もう一時間も小径を走っているというのに、まだまだ先が見えてこない。
「ああ~、安いポータブルのでいいからナビ買っとくべきだったなあ!!」
後悔先に立たず。加えてケータイは圏外。もう、どうしろと!
そしてついに。クルマが大きく二度三度揺れたかと思うと、ぷすん、とエンジンが停止した。
「おいおいおいおい!」
バンバン! とステアリングを叩く。俺は何度もスターターを回すが、どうあがいてもエンジンに火が入らない。
あーあ。やっちまったよ。ガス欠だ。こんな山奥で。
俺は天を仰いで大きく息を吐いた。
「いやもうね、マジでカンベンしてくださいよ……」
前方の小径を映していたヘッドライトが消えると、周囲一帯は全くの暗黒の世界に包まれる。空恐ろしさを全身に感じる、深い闇。
腕時計を見ると真夜中の一時だった。……どうしたもんか、こんな時こそ冷静に考えよう、俺。
とりあえず愛車は一旦ここに放置せねばならないだろう。そうして来た道をとって返すのだ。ヒッチハイクが出来ればベストだけど、交通量がまったく少ないからあてには出来ない。ガススタまで――何キロあるか分からないが、とにかく歩くほかないな。そうしてポリタンクにでもガソリンを入れて、ここに戻ってくる。うん。これだ。
俺は決断した。幸い剣道で鍛えただけあって、体力には自信がある。夜が明けてあたりが明るくなったら行動開始だ。
でも、まずは一休みだ。いまだ非常事態のさなかにある俺は、神経が異常なまでに昂ぶっている(交感神経――だっけ?)。体力には余裕があるが、精神を落ち着けないと冷静な判断が出来ないだろう。
俺はぬるくなってしまったジンジャーエールを飲み干し、大きく深呼吸をする。体を大きく伸ばし、目を閉じる。
2シーターのクルマだと、こういうときリクライニングできないのが辛いな。そうは思いつつも――意識はいつしか混濁たる眠りの中へと飲み込まれていった――
二.
どのくらい時間が経っただろうか。がさりという物音がしたため、俺は目を覚ました。周囲を見渡しても何も見えない。都会では体験できない、真の闇だ。
寝ぼけ眼をこすりつつ、おそるおそる、俺は再び車のライトをつけた――
――え?
十メートルほど先だろうか。行く道を阻むようにしてなにか黒くてデカイのがいるんだが……あれって犬? 幽霊……? いや、あれは!
「く、クマーー?!」
眠気は一瞬のうちに吹き飛んだ。どくどくと鼓動が高まると共に、イヤな汗が背中からじわーっと噴き出してきた。
どう見ても熊です。本当にありがとうございました。
ヒグマじゃないにせよ大人のツキノワグマだ。戦ったら俺死んじゃいますよ? いくら剣道やってるからってマンガみたいにやっつけちゃう、なんてベタな展開はありえねえですって! 剣道三倍段っつっても、武器になりそうなものなんて持ってないし! いやいやいや、やっぱり戦うって線はナシで考えんと!
硬直したまま内心動揺しまくる俺に対して、熊はそのつぶらな瞳でじっと俺のことを見つめている。すごく……かわいいです……じゃなくてだな!
どどどどーするよ俺?! 死んだふりってーのが逆効果だってのは知ってる! えーと、えーと……。
(そうだ! 実は熊って臆病なのだ!)
ピンとひらめいた俺は得意満面、熊をぎっとにらみつけると、クルマのステアリング中央を掌で殴りつけた! そして――大音量のホーンをお見舞いしてやった!
それを聞いた熊はびくっと震え上がり、一目散に森の中へと姿を消していった。
やったぞ! 俺は熊を追い払ったのだ!!
「YOU WIN!!」
どっかの格闘ゲームよろしく、俺はひとり、ガッツポーズを取った。ちょこっとだけ気分が晴れた。
さて問題はこのあと、今の熊やヤツの仲間が現れたらどうするか、ということだ。俺は考えを即座に巡らせた。問題山積みだなあ、もう!
「……このままクルマの中にいるのがいいのか、急いでここから離れた方がいいのか……」
言うまでもない。後者だ。ランクルやレンジローバーみたいな頑丈なクルマだったら前者もアリだろう。だが俺のクルマは中古のロードスター。オープンカーだ! 幌なんて熊の爪でいとも簡単に破られちゃうし! そしたら熊の直接攻撃食らって死ぬし!
とにかく、善は急げだ! 俺はあわてて準備を整えると、クルマから離れていった。スマン。ロドスタ。
真っ暗闇の中、俺はとにかく走る。聞こえるのは、熊よけのための音楽だけ。ケータイに入れてる音楽を、ボリューム最大でかけ続けている。
後ろも闇。前も闇。怖いなんてもんじゃない。気が狂いそうだ! ライトのたぐいを持ってないので、どこまで行ってもひたすら漆黒の闇が続いている。満月が多少なりとも小径を照らしてくれているのが救いだが、これはqあwせdrftgyふじこlpと奇声を張り上げて発狂したくなるレベル。
周囲はうっそうとした森なので、高く生い茂る木々がなにか空恐ろしいもののように見えたりする。誰か早いとこ俺を安心させてくれ!
そしてもうひとつ。普段運動しているから息は上がったりしてないんだけれども、足下がおぼつかない。普段誰も通らないであろうこの径は、とにかく木の根っこや石が多くてデコボコしているし、アップダウンもある。今までだって足を取られて何度も転びそうになった。
そして俺は唐突に姿勢を崩し、落ちた――!
暗所で足を滑らせたのだ!
俺は崖のように急な斜面を真下へ真下へと、なすすべなく落ちていく。木の根っこや低木が頭や体に当たって痛い。草や土の味がする。ビリという服が破れる音と共に、腕に鋭い痛覚が走る。こうやって、いったい何十メートル落ちただろうか。
(このままもし、断崖に飛び出たらどうする?!)
俺はようやく抵抗し、手足を伸ばして止まろうとする。この急勾配にどっしりと立っている幹を見つけた俺は、無我夢中でそれにしがみつこうともがく! その甲斐あって俺は止まることが出来た。幹につかまりながら、俺はほうっと息を吐いた。あちらこちらに擦り傷ができ、血がにじみ出ていた。
体にこびりついた汚れを払うと、俺は幹の上によじ登って、周囲の状況を確認した。
森の中、細くて急な獣道が一本、上から下へとまっすぐ続いていた。これが、俺が転がり落ちてきた径だ。しかしこの急斜面は立ちふさがる壁と言っても差し支えがないほどの斜度で、これでは元の径に戻るのは至難の業だろう。マジでやばいことになっていってるな……好転どころかドツボにはまってきている。
俺はポケットをまさぐる。クルマのキーは持っていたが、右手に持っていたケータイは落ちてる最中にどこかで落としてしまった。
「ええい、もう!」
まさに、もうどうにでもなーれ、という諦念の心境に陥った俺は木から下りると、落ちないようにバランスを取って慎重な足取りで獣道に立った。自分の足元を見たとき、俺は気づいた。
「ん?」
薄ぼんやりとしか径が見えないが、あと少し、十数メートルも下りれば道が開けているようだ。何十メートルも上へとよじ登るよりはずっとリスクが少ないように感じる。俺は慎重にこの急斜面を下りてみることにした。
悪戦苦闘の果て、どうにか俺は斜面を下りきった。最後はジャンプして真下の草地に着地した。
もう上に登ることは不可能だ。
三.
そこにあったのは開けた土地だった。月明かりに照らされて、子細が分かる。民家が何軒か建ってる! ここは小さな盆地に作られた、ちょっとした集落のようだ。さすがに深夜だけあって、人の影は見えないし、家の窓には明かりが灯っているはずもない。
「しかし良かった……まずは助かったな……」
命の危険にさらされる心配だけは無くなったと感じ、俺は心底安心した。それもつかの間のことに過ぎなかったが。
腰の高さにまで伸びた草をかき分けながら、集落の中心部を目指して俺は歩を進める。改めて周囲を観察すると分かったのだが、ここでは時がずっと前から止まったままのような感覚を覚えた。空気が妙に淀んでいる感覚がある。電柱も立ってはいるが、電線はところどころで途切れてしまっている。
ここはまさに、ナントカの落人の隠れ里と言われてもおかしくないほど、外界から途絶された環境であると分かる。廃墟マニアにはたまらないスポットだろう。県民の俺だってこんな場所があるなんて今まで知らなかったが、ネットで調べればもしかしたら載っているのかもしれない。
俺はぞくっとした。八つ墓村を思い出して怖くなったというだけじゃない。もっと本能に触れてくる恐ろしさ――畏怖を覚えたのだ。
(――なにかがおかしい)
深夜だからといって、人里に人の気配がまったく感じられないのはなぜなんだろう? ひょっとすると俺は、人間が踏み込んではいけない領域に来てしまっているのかもしれない――先ほどまでの安心感はどこへやら、俺は一刻も早くこの寂れた集落――いや、すでにとうの昔に廃墟になっていたのかもしれない――から立ち去ろうと決意した。
焦りつつ足を急がせながら俺は正面、山の中腹あたりになにかが光っているのを見いだした。あれは間違いない、深夜営業のガソリンスタンドの看板だ。電気。文化が、人が存在しているんだ! どうにかしてあそこまでたどり着こう。あれこそが本当の希望の星だ! 俺がそう思ったとき――
これこそ運命というものなのだろうか。
俺は〝それ〟を見つけてしまったのだ。
朽ち果ててしまっている、小さな祠を。
俺はこの祠が妙に気になり、操られるようにして足を向けるのだった。もう原形をとどめていない祠。供え物などはない。ここにはどんな神さまが奉られていたのだろう。それを知るすべはない。なんとなくいたたまれなくなった俺は賽銭を奉じ、参拝した。
(無事に帰れますように! 神さま! お願い!)
俺が願った、まさにその時のことだ。
「ふはあっ……」
何かの生ぬるくてイヤ~な息づかいを聞いた俺は、目を開けておそるおそる横を見た。
「……!!」
俺は魅入られたように凝視したまま、金縛りに遭ってしまった。
俺の横にはいつの間にか、身の丈二メートルを超える屈強な大男が着物姿で立っていた! のっぺりとした顔は石のように灰色で、なんといっても異様なのは顔が人間のそれの倍以上大きいということだ。黒々とした底無しの眼窩を持ち、口は大きく横に裂けている。
――なんだこれは……! 常識ではあり得ないものを自分は見てしまっている。目の前の異形の大男は人間じゃない。言うとすれば――そう。妖怪――妖だ。皮肉にもオカルト好きな自分の憧れ続けていた〝非現実〟がここにあった。こんな最悪の状況で。
妖はくっくっと、口をゆがませて笑い出した。
「おや小僧。どうやら見えているようだな。私のことが……」
妖はざらりとした、生気の感じられない声を出すと、真っ黒な両目で、ぎん、と俺を見据えた。妖が明らかな邪念、悪意を持っているのが伝わってきた。
(いや、やめて! 頼む。許してくれ……!)
体はぴくりとも動かない。俺は涙を目に浮かべながら、せめて許しを請おうと頭を振った。
「……人が私の姿を見るのは許さないと決めている。だから喰ってやろう! ああ……人を喰うのは実に久しぶりだ。楽しみだ……。くっくっ……ここに来たお前が悪いのだよ、人間!」
言うなり妖は大きな口を顎が外れるほどぐわっと開き、襲いかかってきた!!
俺は凝固したまま身動きがとれない!! 本当に喰われちまう!!
俺が声にならない悲鳴を上げたその時――朽ちた祠が真っ白な光を四方八方に放った!
なんなんだ、これは!
あまりのまばゆさに俺は目を閉じる。
「破ぁっ!」
凛とした誰かの声……女性か?
どおん、と太鼓のような大きな音が響き、ついで妖のうめく声が聞こえてきた。
「おのれ、恨めしい……。貴様にまだこんな力が残っていたとは……だが小僧! お前のことは覚えたぞ! 次の満月の日には私の力が戻る。そうしたら必ずお前を追いかけ、絶対に喰ってやるからなあぁっ……!!」
そこまで聞いて俺は崩れ落ち、意識を失った。
四.
――「う~~、道場道場……」
――早朝、なんだろうか。俺は剣道の朝稽古のため、いつもの通学路を走っていた。スズメの声が俺を送ってくれてるようだ。
不意に、『パキ』と奇っ怪な音がした。
なんということか、目の前に人の大きさくらいの裂け目が縦に走る!そして空間が割れた!
その中にはおびただしい数の目玉が、ぎょろぎょろとひしめきあっていた。数十……いや数百? その目玉が一斉にぎっとこっちを見た! あまりのおぞましさに俺は声にならない悲鳴を上げ、硬直する。
「……ぅぞぉ……」
空間の中からざらりとした声が聞こえた。こんなもの、とても人間の発するものではない。
「喰うぞお!」
ついに声の主が現れた! あの妖だ! 大顔の大男は漆黒の眼窩を見開き、俺のほうを見る。そして無数の目玉を押しのけて空間の裂け目から出ると、のそりのそりと歩いてきた。
ようやく俺の金縛りが解けた。そしてどこからともなく竹刀を取り出し、中段の構えを取った。そして威勢良く、妖めがけて踏み出す――! 竹刀がヤツの顔面を突く!
「……ふふふ。効かぬ。そんなものなど効かぬぞお……」
なんてことだ! 俺の必殺の突きが効かない?!
俺はそれから狂ったように竹刀を振り回してヤツの体を攻撃したが、効いたそぶりも見せない。ヤツは敏捷に俺の攻撃をかわしながら「ふふふふ」と不気味に笑うだけだ。
「……さあ、もういいだろう。お遊びはここまでだ! お前がどこに逃げようとも無駄なことだよ。わたしはお前を喰う。必ず喰ってやるぞぉ!」
ぎん! と、ヤツの黒々とした眼窩に真っ白な瞳が宿り、俺をにらみつけた!
「うわああああああ!!」
自分の叫び声を聞いて、俺はガバリと起き上がった。夢を見ながら叫んでいたのだ。しかし――
目が覚めた場所は自分の部屋ではない。周囲を山に囲まれた、みすぼらしい集落。その道ばたで俺は眠っていたのだ。朝方だろうか? 太陽はまだ山に隠れており、薄ら寒い。
そうして俺は、ここに行き着くまでの出来事を思い出し、頭を抱えて絶望した。
ああ! ここまでの出来事が全部夢だったらどんなに良かったことか!
その時、俺の肩がぽんと叩かれた。
「うわああああああ!!」
不意の出来事に俺は驚き、再度絶叫して後ずさる。
「おおっ?!」
と、叩いた本人の驚く声。
「人……間……?」
確認するまでもない。俺の目の前に立っているおっさんは、まごう事なきただの人間だ。俺は警戒を解いた。
「そんな、そこまで驚くこたないだろう、兄ちゃん」
ガススタ従業員の姿をしたおっさんは言った。俺を落ち着かせるように、穏やかな口調で。
「――まあ、とりあえずは無事なようで良かったわ。俺はほれ、あのガススタで働いてんだがな」
そう言っておっさんは、山の中腹にあるガススタの看板を指した。
「ここいら辺がビカアッ……って光るのを見てな、こりゃただごとじゃねえって思って、山向こうの神主さんを呼んで、軽トラでここに駆けつけたってわけだ」
俺は、横の朽ち果てた小さな祠を見る。この祠が真っ白な光を放ったというのか。そしておっさんはガススタから、この場所で起きた怪奇現象を見たのだろう。
おっさんの表情が険しいものに変わる。
「兄ちゃん、どうやってここに来た? ……どんな悪さをしたんだ? その面は――」
問い詰められるものの、俺は答えに窮した。そう言われても、俺だってわけが分からない。考えも寄らないハプニング続きの結果、俺はここにいるのだ。――だいたい、おっさんの言う『悪さ』ってなんだ? 取り立てて悪いことはしてない――つもりだぞ? 俺の人生。
「……よしなさいってマキさん。この人はオヒトリさまの罰を受けたってふうじゃないようだ」
声の主は若い女性。彼女は歩み寄ると、おっさんをなだめた。俺と同じくらいの年だろうか。長く黒い髪が美しいべっぴんさんだ。彼女は和服――というか、昔の公家のような格好をしていた。いや、陰陽師というやつか? 彼女の醸し出す雰囲気といい彼女の容姿といい、神秘的でほんとうに美しい。しばし俺は見とれてしまった。
「……巫女さん?」
「違う」彼女は即答した。「わたしは宮司。山向こうの神社の神主を務めている。これは狩衣といって、神社の服装だ」
宮司さんはそう言った。
「ああ、なんか勘違いしてそうだから言っておくと、宮司っていうのは神職の位だ。わたしの名前は高凪。高凪有希」
宮司さん――高凪さんは言った。
「あ、俺は望月。望月一人。そのう、いろいろなことがあってここにいるんですけど、頼む! 助けてください!」
俺は手を合わせ、深々と頭を下げた。
「……顔を上げて。いったい何があったんだ?」
笑みを浮かべ、高凪さんが訊いてきた。俺にとって彼女は救い主――女神さまのように見えた! これは恋に落ちてもおかしくない……よな?
俺は顔を上げると、深夜に起きた出来事を包み隠さず彼女たちに話した。
「ヤツは俺を喰うって言ってたんだ!」
一連のいきさつを聞き、高凪さんとおっさんは顔を合わせた。
「妖とは面妖な。やはりわたしが来て正解だったな」
高凪さんは真面目な表情でそう言った。
「光の中で女の人の声がした。『破ぁっ!』って。あれは……高凪さん? あなたが妖を消し去ったんですか?」
「いや、わたしではない」高凪さんはかぶりを振った。「望月さんもちつきな、いや、落ち着きなさい、今は昼間だし、そういった魑魅魍魎の邪気は失せている。話を聞くにキミがひとまず無事でいられるのは、ひとえに〝オヒトリさま〟のおかげだろう」
「オヒトリさま……?」
俺は首をひねった。そんな俺を見て、高凪さんは小さくうなずくと話し始めた。
「そう。キミはすでに、オヒトリさまに出会っているようだ」
そう言って高凪さんはくすりと笑った。あの女性の声は――オヒトリさまという人の声だったんだろうか。
「さあて」と高凪さん。
「まずはこの土地について話そうか。キミは山の中をさんざん迷ってここにたどり着いたそうだけど、ここに来るルートはちゃんとある。知る人は限られてるけど、わたしたちがクルマでこうして駆けつけたようにね。そして見てのとおりここは、小さな集落の廃墟だ。昭和の、とある時期までは人が住んでいた。そのあと、この周囲一帯はダムとなって水の底に沈んだ。だけれども、友愛党政権時代に行われた事業仕分けの結果、ダムは放棄されることになって、今に至るってわけさ」
俺はどっちかというとオヒトリさまについて知りたかったが、とりあえず黙っていた。
高凪さんはちらと、おっさんのほうを見た。
「……こちらの真来さんはね、子供の頃はこの集落で育った。かつて集落に住んでいた人々はその後のダム工事のために各地に移り住んだけれども、真来さんだけは残ったんだ。……ずっと。ほら、あそこの山に見えるガソリンスタンド近くに家を構えてね。ダムが放棄されて水底に沈んでいた村が見えるようになると、散り散りになった人々も村へと戻ろうとした――けれども」
「村は元通りにはならんかった……見てのとおりさね。廃村のまんまだ」
おっさん――真来さんが、高凪さんの言葉を継いだ。
「村に入ると、たちまちひどい寒気におそわれたり、熱が出たり……とにかく原因不明の体調不良にやられてしまう。それでも我慢して村に住もうとした者もいたんだが、数日もしないうちに救急車で運ばれるハメになった。やつはうなされ続けているあいだ、ずっと言っていた――」
「『オヒトリさま、助けて』と」
真来さんはそう言って眉をひそめた。
「オヒトリさま……。それがあのでかい顔の妖なのか?」
「いいや違う。オヒトリさまはこの地の鎮守さま! 人を祟るなんてことはしねえ!」
急に真来さんは興奮した口調で言った。ビックリした。
「真来さんも落ち着いて」と、高凪さんがなだめた。
「……かつてここは、オヒトリさま信仰が篤い土地だった。ダムの水底に沈む際、村人たちはせめてオヒトリさまのおわす祠だけでも動かそうとしたらしいんだが、無理だった」
「オヒトリさまはここに残ることを望まれたんだよ……」
祈るように目を閉じて、真来さんが言った。高凪さんが言葉を続けた。
「古来からこの地は何らかのパワースポットだったらしい。だからオヒトリさまもここに残ろうとしたんだろう。――だけれども水が干上がり、再びこの土地が現れたときに祠は壊れ、オヒトリさまの力もすっかり失われてしまった。そこにつけこんで、妖のたぐいが悪さをするようになったんじゃないか、というのがわたしの祖父の意見だ」
神社は代々受け継がれて、今はわたしが神主をしている。高凪さんは言った。
「夜の神社の境内には悪しきもの――悪鬼羅刹のたぐいがうごめくもの。キミはまさに、その怨念のこもった妖にやられたのだ」
「やられたって……。でも俺は生きている。助かったのか……?」
「残念だがキミは強力な呪いを受けている。わたしではなすすべもない」
そう言って高凪さんはいかにも古そうな手鏡を渡してくれた。俺がのぞき込むと――
「うああああああ!!」
俺は情けなく、悲鳴を上げた。
「なんじゃこりゃあ!!」
ついでに言ってみたかった台詞も言ってみる。
なんと、俺の顔一面に目の模様がびっしりと描かれていたのだ! 俺は夢に出てきたおびただしい数の眼球を思い出した。
――呪いは生きている。どこに逃げてもヤツはやって来る……あの顔のでかい妖、ひと月後に俺を喰うというのか!!
「た、助けて! どうすりゃいいんだ?!」
パニックになった俺は、高凪さんにすがりついた。一方で、あ、なんか抱き心地いいかも、と邪な感想をいだいてしまう。
「ちょっ、落ち着け、望月さん」
顔を赤くして高凪さんが言った。
「その鏡は魔性の力を映し出す。……これは呪いの一種に間違いない。次の満月を向かえたときに呪いが発動されるようだ」
呪い。呪い。呪い呪われ呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪呪――
俺の思考回路が停止する。頭の中は真っ白だ。
俺は再度、高凪さんにしがみついた。
「こっ……殺される! あの妖怪に喰われるんだ! うわああああ!」
「だから! 落ち着かんかい!」
そういって高凪さんは俺の頭上に強烈なチョップをかました。エロいこと考えてる俺への天誅ですね、分かります。俺はよろよろと後ずさった。
「せ、せめてこの顔だけでも何とかなりませんか? こんな顔じゃあ人前に出られないですよ」
「その模様を剥がそうとすると、かえって呪いの効力が強まり、キミをもっと縛り付けてしまうかもしれない。……どうにも難しいんだ。すまない。わたしも解呪の方法を探してみる。神社本庁のネットワークを駆使すれば、あるいは――。だが、絶対というわけではないんだ」
申し訳ない、と高凪さんは詫びた。
俺の足下がガラガラと崩れ落ちていくようだ。昨日までは平凡な学生生活を送っていたはずなのに、どうして? 俺は人の目に触れないようにして生き、そして次の満月の日に物の怪に喰われるというのか。まだいろいろしたいことがあるのに、こんなところで人生が終わっちゃうというのか――!
目頭が熱くなる。つう、と一筋涙がこぼれた。
「すみません~。わたしの力が至らなかったばっかりに~」
その時不意に、申し訳なさそうな頼りない声が聞こえてきた。
俺たち三人が振り向いた方向には、ぼろい着物姿の小柄な女性が一人たたずんでいた。
「やっぱり倒しきれませんでした~。ごめんなさいね、あなた~」
女性はぺこぺこと俺に頭を下げる。声もどこか弱々しい。なんか影すらも薄く見えるぞ。
「……あんた、誰だ?」と、真来さん。
「ああ~、申し遅れました~。わたし、昔はここの鎮守をしていました。みなさんからは、オヒトリさまと呼ばれてました~」
無言。そして――
「えええええ~~~っ?!」
三者三様、とにかくみんな驚きの声を上げたのだった。
五.
「オヒトリさま……あなたが……」
真っ先に立ち直った高凪さんがオヒトリさまに訊いた。さすが神職。
「はい~。そうなんですよ~。昔のわたしだったら、あの手の物の怪なんて軽く打ちのめせたのに、すっかり弱くなっちゃいましてねえ……」
ごめんなさいね。再度オヒトリさまが俺に詫びた。相手が神さまなものだから、俺もあわててお辞儀をした。
びっくりして硬直したままなのは真来さん。無理もない。自分たちの住んでいた村で信仰していた神さまが、こうやって姿を現しちゃってるんだから。これなんて超常現象!?
「恐れ入ります、オヒトリさま。あなたが元の強さを取り戻せば、物の怪を退治できて、この人の呪いも解けるというのでしょうか?」
高凪さんが訊く。
「もちろんです!」
それまでヘナヘナとしゃべっていたオヒトリさまが、はじめてきっぱりと言い切った。
俺の頭上に、ぱあっと光明が差した瞬間だった。俺、助かるのか!?
「それではどうすればよいのでしょうか?」
かしこまって高凪さんが尋ねる。
「名前の通り、わたしはオヒトリさまと呼ばれるもの。ひとりで何かをやり遂げようとする人たちに加護を与える神です。だからあなた――」
そう言ってオヒトリさまは俺を見た。
「そう、あなたがわたしの前でなにか――ひとりでやり遂げて、それを見たわたしが感銘を受けたなら、その時わたしの力は戻りましょうし、あの妖も打ち倒せます。そうすれば晴れてあなたは自由の身です」
「は……はい……」
俺はとりあえずうなずいたが、何をすればいいというのだ。ひとりで。
「ひとりで……むむ」
高凪さんも悩んでいるようだ。その傍らで復活した真来さんも頭を抱える。
「焼肉、ランジェリーショップ、先生と生徒、ネズミの国、屋形船、花見……う~ん……」
おいおい! ちょっとなんだよ、ひとりでやるとめっちゃくちゃ空しそうなものばかりじゃないか!
「いえいえ~。ひとりで事をなすというのは素晴らしいことですよ? 精神修養にはもってこいです。……ほら、わたしなんか、まさにその神さまですし~」
オヒトリさまがフォローしてくださった。
「……餅つき、なんてどうでしょうか~?」
その直後、奈落の底に突き落としてくださった。……も、餅つきだとお?!
「おお!」
「その発想はなかった!」
なんということか、残る二名は意気投合した。
「そうだ、餅だ! 神事では神さまに餅を捧げるというのがある!」
「高凪さん、だったら俺もお願いしたい! オヒトリさまの祠を建ててはくれないか? オヒトリさまも今こうしてお見えになってるんだ! 俺は村に住んでたみんなを呼んで一緒に祝いたい! オヒトリさまのご加護があれば、この廃村も元に戻るに違いねえ!」
「それは素晴らしいことです! 山向こうの町内会にも働きかけて、祠を建てましょう! 信仰が篤くなればオヒトリさまのお力も強くなる。祠を管理するのは……とりあえずはわたしでいいだろうから――」
「いずれは神社を建てなきゃな! 立派なところにお住まい頂きたい!」
ちょっ、なんか二人で意気揚々と盛り上がってるぞ?! 餅つきする当の本人は俺なんですが?!
「オヒトリさま!」
真来さんが目を潤ませて駆け寄り、膝をついた。ありがたやありがたやと何度も頭を垂れる。
「この若者なら間違いなく、あなたさまの念願を成就させましょう! ですから再びこの地に、オヒトリさまのご加護を!」
と、真来さんは俺をズバリ指名する。
「ああ~、あなたはこの村の出でしたわね。あなたが子供の頃、そこここを走り回っているのを覚えてますとも~」
オヒトリさまの言葉を聞いて真来さんの顔がぱあっと明るくなる。まるで少年のようにあどけない顔つきだ。本当に嬉しそうだ。
しかし当の本人たる俺の気持ちは複雑そのもの。だって、俺が失敗しちゃったらすべては水の泡だからな。解呪も、祠の再建も、村の再興も、オヒトリさまの復活も。そもそもおれの命だって。
「――そんなわけだから望月さん、よろしく!」
いや、そうやってグっとサムアップされても。
「だいじょうぶですよ~」
そんな俺の葛藤を知ってか、オヒトリさまが声をかけてくださる。
「なせばなるものですから~」
え? それって要するに頑張ってね、ってことですか? え? それ以外無し?
――俺は頭がくらくらしてきた。
「どうしましたか? お疲れのようだったらどうぞお座りになって?」
ダメだこの神さま空気読めてねえ。
もうヤケだ!
「おっしゃああああ!」
俺は雄叫びを上げた!
「やるぞ! オヒトリさま! 高凪さん! 真来さん!」
こうなりゃもう、やるとこまでやるしかねえだろう! 俺は吹っ切れた。
「俺は……俺は一ヶ月山ごもりして俗世との関わり合いを断つ! そして心身を鍛えて、餅つきの練習もする! 後は任せた!」
「頼もしいな、望月さん! ちょうどうちの所有する山の一つが修験場ともなっている。思う存分修行に励めるぞ!」
高凪さんは目を輝かせた。これでフラグが立てばいいなあとか考えちゃう俺。いかんいかん!
「わたしたち神職がこのひとり餅つきを神事として催そう。次の満月の日の昼に、この祠の前で。そして地鎮祭を執り行い、祠も建て直す」
「じゃあ俺は、住んでた連中に連絡をつけるぞ! 盛り上げて成功させて――村を復興させるんだ!」
その様子を見ていたオヒトリさまは目を輝かせていた。
「あな嬉しや~。わたしが成し遂げられなかった夢が叶おうというのね~」
うわ~。これはもうなし崩し的に俺がひとりで餅をつくことに決まりそうだ。
「いや待て、二人とも! 俺、餅なんかついたことないぞ? だいたいほら、餅つきではさ、ひとりが杵ついてもうひとりが水をかけるって作業があるじゃないか。あれはどうやるんだよ?」
「……それはわたしにとっても悩みどころでしたわ~」
オヒトリさまが懐かしむようにおっしゃった。
「わたしが人間だったとき、修行のために色々やりましたっけ~。――もちろん、ひとりでね。山にこもっては心身を鍛え、里に下りては一人きりでいろいろやりました。『恥ずかしい』という煩悩から解放されたとき、解脱できる。わたしはそう信じて修行に励みました。……でも、餅つきだけはどうしてもできなかった――。そしてわたしは力尽き、死んでしまいました」
よよよと、オヒトリさまは袖で涙を拭かれる。
「苦行を実践されたこのお方はこの地で祀られ、いつしか〝オヒトリさま〟という名で呼ばれるようになった。それがオヒトリさま信仰の始まりだ」
高凪さんが言う。
「しかし……それほどまでに過酷なものなのですか? ひとり餅つきという荒行は……」
高凪さんが問うと、オヒトリさまはすすり泣きしながら答えた。
「いいええ~。それとは関係なく、お正月についつい餅を食べ過ぎて、のどに餅がつっかかって死んでしまいましたのです。わたし……」
再びよよよと、オヒトリさまは涙を拭いた。
ぽかーん。
なんとも言い難い、神妙な空気。なんだよ、オヒトリさま。最後は修行じゃなくて餅をのどに詰まらせてお亡くなりになったのかよ。それはまたなんともマヌ……いやいやいや、そんなことはないぞ、うん!
ともかく! 賽は投げられたのだ!
……やるしかねえだろう、こうなっちゃあ!
六.
――そうして、およそひと月の時が流れた!
わたし、高凪有希は神社の職務にいそしみつつ、オヒトリさまの新しい祠を作る仕事も行ってきた。祭儀の支度も問題ない。
真来さんは、もと村人たちの結集を呼びかけるのに帆走してきた。
そして望月さんは――
彼はひとり、山にこもって修行に明け暮れてきた。自分の無事を伝えるためにときおり山を下り、わたしと会っていた時間以外はすべて、山ごもりしていたことになる。
彼の精神は今や、鋭敏に研ぎ澄まされている。ひとり餅つきという神事を行うのに何ら支障はない。そして餅つきの練習も何度かやってきた。ただ肝心の、ひとりだけでどうやって餅をつくのか、という点についてはわたしにすら明かしてくれなかった。
「俺には秘策があるんだ」
彼のその言葉を信じよう。
――学校はどうしたのか、ということはとりあえず置いておこう。彼の命の無事のためにはこれがベストなのだ。
そして今。月は望月に膨らみ、天空高く登っている。雲一つ無く晴れ渡っている、そんな正午。
いよいよひとり餅つきとオヒトリさまの新しい祠のための祭儀が執り行われようとしていた。まさに晴れ舞台。
「望月さん、来ませんね~」
祭場から離れた仮設テントの中、わたしの横でのんきにおっしゃったのが当のオヒトリさまだ。この一ヶ月、わたしがこの地に来るたびにこの方は姿を見せるのだ。嬉しいのか、人寂しいのか。
「今日の祭りの確認は、望月さんと昨日していますから、必ず来ます。間違いなく。……それはいいですから、お姿をお消しください。降神の儀はまだ先ですよ」
「はいはい、失礼しました~。では神饌をいただくときにまたお会いしましょう~」
そう言ってオヒトリさまは姿を隠した。……って、あのお方は村人たちの前に顕現されるおつもりなのか?! ――まあ、言って聞くようなお方ではないか。
祭事が開始される時間から十分が過ぎた。しかし望月さんはまだ現れない。すでに臼と杵、餅米の準備は整っており、祭壇の前に置かれているというのに。
もと村人の方々は大勢集まり――これは真来さんの努力のたまものだが――祭事の開始を待ちわびている。そんな空気の中、これ以上時間を繰り延べさせるのは困難だ。
わたしは榊を手に取った。
「――!」
悪寒が走った。なにか良からぬモノがすでにいるようだ。
「お姉さま、お気をつけください。かすかに邪気を感じます」
うちの神社で巫女をしてくれている後輩の本多インテグラルが声をかけてくれた。
「うん。備えはしてある。キミも気をつけて」
「お任せください! いざとなったらご神刀、二九一文字で物の怪を成敗してくれます!」
この子ってば、そんなもの持ってきたのか。まあ過去、お祓いに際して彼女がこの刀を振るって悪鬼を退治したって武勇伝はあるけれど。
「あまりその刀を人に見せるんじゃないわよ。みんなビックリする」
「はい! お姉さま!」
金髪ポニテ娘の元気な返事を聞きながら、わたしは仮設テントを出て祭場へと向かった。
紅白帯が全体を取り囲む祭場には、二十人以上のもと村人が祭儀の始まりを待ちわびていた。用意していたパイプ椅子では足りなくて、一部の方々には申し訳ないがお立ち願っている。
祭場の四方には斎竹が立てられ、しめ縄が張り巡らされていた。
古い朽ちた祠の周囲に祭場が設けられ、横に新しい祠が置かれている。
さらにその横にはしめ縄で巻かれた臼と杵、そして熱く蒸し上げた餅米があるのだ。これを望月さんがひとりでつくことで、今回の神饌――供物となる。オヒトリさまのお望みどおり。
祠の後ろには榊に麻をつけた神籬が立てられている。これは神の依代となるものだ。厳粛な空気の中にあって、ほかほか湯気の立つ餅米のにおいが和ませてくれる。
わたしはまっすぐ祠へ向かい、深々と礼をした。そして向き直る。
「お待たせいたしました。これより鎮守さま――オヒトリさまに新しい祠へと移っていただくため、地鎮祭を執り行います。修祓の儀。ご起立願います」
司会を担当してくれるのは真来さんだ。地鎮祭と言うには語弊があるかもしれないが、神さまを鎮めて加護を願うのには違いない。
わたしは再び祠のほうを向いた。
「――ご低頭願います」
参列している方々が立ち上がり、礼の姿勢を取った。修祓は、参列者やお供え物を祓い清める儀式だ。わたしは二拝すると祓詞を奏上する。それが終わると榊を振りかざす。神さまのほうと、参列者のほうに。
儀式が終わり、わたしは祭場の外に控えているインテグラを見るが、彼女はふるふるとかぶりを振った。わたしは眉をひそめる。まだ来てないのか、望月さん。次の儀式の終わる頃には来てもらわないと困るんだぞ――!
しかし神主が慌ててはいけない。わたしは即座に気持ちを切り替える。
「降神の儀。ご起立、ご低頭願います」
真来さんの言葉を受けて参列者は起立し、皆頭を下げる。
降神の儀は、神を神籬にお招きする招霊の儀式だ――と言ってもオヒトリさまに限っては、もう来ちゃってるわけだが。まあそれは置いておこう。
わたしは降神の詞を述べ、そして――
「オーーーー……」
このように警蹕を発することで、人々に神の降臨することを注意する。
(ご苦労さまで~す)
その時、わたしの頭の中に優しい声が響いてきた。オヒトリさまが顕現なさった。神籬のうしろに佇んでらっしゃる。やっぱり地味――いや、落ち着いた身なりだ。
「オヒトリさま――!」
「オヒトリさまでいらっしゃる!」
もと村人たちもオヒトリさまに気付く。言葉が出ない人、涙を流す人、手を合わせて祈る人、さまざまだ。
オヒトリさまはふと何かに気付き、笑みをたたえて手を振られた。その先を見るとそこには果たして――望月さんがいた。
彼はなぜかイノシシを担いでいた。彼はイノシシを地面に音を立てて置き、インテグラから手水を受けると祭場へ入ってきた。皆の驚きの視線が彼に集まる。呪いによって目玉模様がびっしり描かれてしまっている彼の顔は、やはり異様なものに感じられる。
「申し訳ありません。遅れました。餅つきを仰せつかった、望月です」
望月さんは祭壇まで歩いてくるとオヒトリさまとわたし、参列者にそれぞれ深々と頭を下げた。
「身を清めるために水浴びをしていたところにイノシシに出くわしまして。逃げるわけにもいかず、格闘して仕留めました」
ひと月に及ぶ荒行の成果なのか。今の望月さんなら熊にも勝てるかもしれない。そう思わせるだけの風格を漂わせていた。……まあイノシシ担いでここまで来たから、ちょっとケモノくさいけどね。
「あとでイノシシ鍋がいただけますねえ~」
オヒトリさまがにっこり笑っておっしゃった。
「そうだ! イノシシ鍋だ!」
「オヒトリさまに献上するんだ!」
「兄ちゃん、よくやった!」
参列者たちもそれぞれ口を開く。祭儀の途中ではあるが、オヒトリさまを筆頭に場が和む。
その時、空はにわかにかき曇り、雷鳴が轟いた! 生暖かい嫌な風が吹く。
件の妖が現れようとしているのだ!
六.
「高凪さん!」
「うん!」
とにかく儀式を急がなければならない!
望月さんは臼の横に置いてある御神酒を手に取ると、ぱあっと餅米に振りかけた。それから臼と杵にもかけたあと、自分の頭から御神酒を浴びた! これですべて、御神酒による神聖属性が付与される。望月さんのケモノ臭さも消されたし。
「……祭儀を続けます。何か起きてもけして大声を上げたりなさらないように。この祭場の中は神聖不可侵。邪気を持つ者は決して入ることが出来ません」
わたしはそう告げるも、内心は不安でたまらない。どうやらこの妖、相当の力を持っているようだ。人の手による結界など破られてしまうかもしれない。オヒトリさまのお力をもって、退散させるほかない。……そして、いざというときには私の命に代えてでも――
「献饌の儀。……オヒトリさまに召し上がっていただく、餅を作ります。この望月さんがお一人で。神事ですので、どうか邪魔をなさらないようにお願いします」
真来さんがアナウンスする。
いよいよ、ひとり餅つきのはじまりだ。すべての人の視線が望月さんひとりに注がれる。たった一人で餅をつきあげるという聞いたこともない珍事、オヒトリさまのご復活――なにより望月さん自身の命のためにもこの神事、絶対に失敗は許されない。しかし――それらプレッシャーの中で、果たしてオヒトリさまに捧げる神饌となる餅が無事に完成するのだろうか。もはや自分は祈るしかない。
(山ごもりの成果を見せてくれ、望月一人!)
わたしはぐっと拳を握る。オヒトリさまも真摯な表情で、望月さんを見つめていた。
まずは臼の周りをゆっくり回りながら、餅米を杵でこねていく。ときおり杵と餅米に水を含ませる。根気と腕力、そして体力のいる作業だ。どうやら体重をかけながら腰をうまく使うのがコツらしい。
カッと稲光が天に走った。同時におぞましい悪寒に襲われる。
「神主さま!」
すぐさまインテグラの叫び声が聞こえた。見ると彼女はご神刀、二九一文字を両手で握り、大きな妖と戦っていた。あれが件の妖に違いない。インテグラはうまく渡り合っているように見えるが――
「本多さん! 持ちこたえられますか?!」
「はい! と言いたいところですが……くっ! なかなか斬り付けられません! 現状維持が精一杯です!」
「了解! なんとか頼みます!」
「はい!」
「ふん、お前も私が見えるとはな、気にくわんぞ小娘! 小僧もろとも喰ってやる!」
「悪鬼悪霊が! 本多平八郎忠勝の血統を甘く見るな! ここから先は決して行かせない!」
……自分が助太刀できないのがもどかしい。この祭場の結界を保つため、わたしは動けないのだ。
何事かと場内がざわめく。参列者たちには妖の姿が見えないのだ。外で刀を振り回している金髪巫女は、気がふれたようにしか見えないだろう。
「お静かに! 神事の最中です」
真来さんが諫めた。
望月さんは座り込み、餅米に水をかけていた。どうやら餅つきも次の段階に進んだようだ。餅米もほどよく粘り、餅の原型といえる状態になっている。
だがわたしは彼の手元を見逃さなかった。彼の手はカタカタと震えているのだ。もちろん彼のこと、腕力不足などではない。自分の命、村人の熱い願い――それら強大なプレッシャーゆえだろう。
わたしは彼の両肩をぽんと叩いた。
「落ち着け! 餅つけ! 望月!」
そう言って喝を入れた。望月さんはハッとなってわたしを見上げた。
「は……はい!」
彼はきっと立ち上がると「つきます!」と宣言した。その意気やよし!
「落ち着け! 餅つけ! 望月!」
わたしは再び喝を入れる。
「ハイッ!」
合わせるかのように、望月さんが大声を張り上げ餅をつく。ぺたっと一回弱く打つたびに自分一人で水を加えてこねていく。
「落ち着け!」
「ハイッ!」
「餅つけ!」
「ハイッ!」
「望月!」
「ハイッ!」
こんな調子で二分ほど経った頃。望月さんは水を入れて餅をこねる。休んでいる暇などない。外では妖が暴れているのだ。早く餅をオヒトリさまに献じなければ!
「……ここから、いきます!」
彼の眼差しがより真摯なものとなった。神経を集中しているのが分かる。
なんと彼は水の入った金だらいを頭に乗せると、片手で杵を持ったのだ! なるほど、一人で餅をつくのにこの手があったか!
「我が剣術は――二天一流なり!」
そう言い放って彼は腰を落として構えると、鋭く杵を打ち下ろした。スパァン! と快音が響く。
二天一流――それは、かの宮本武蔵が完成させた二刀流の剣術法だ。剣道家である望月さんはそれをマスターしているというのか。ならば片手だけの力強い杵さばきも理解できるというものだ。
この珍事を目の当たりにして会場がどよめく中、望月さんはすかさず頭に乗せた金だらいから水をすくい、バランスを保ったまま水を入れて餅をこねる。そしてすぐさま杵を打つ! 素早いが決して力まず、無駄のない動き。なおかつ、重心はずらしていない。
「ハイヨオ!」
まさに! なかなかの運動神経といいたいッ!
「落ち着け!」
「ハイヨオ!」
「餅つけ!」
「ハイヨオ!」
「望月!」
「ハイヨオ!」
気がついたときには参列者が皆、餅つきの声がけを行っているではないか。オヒトリさまを見ると、手を組んで感動の涙を流しておられた。オヒトリさまのお体が白く輝きだした。徐々にお力を取り戻してらっしゃるのだ。
こうしてついに、餅が完成した。
「餅つき! ひとりでできたよ! 高凪さん!」
望月さんはすくりと立ち上がり、金だらいを下ろした。わたしは深々と礼をした。そして神々しく光を放っているオヒトリさまが望月さんに言った。
「お願いします。外にいる娘さんの助太刀をしてくださいませんか。あなたが命を狙われているのは知っています。けれどあの子も今――ほら、見えるでしょう。命を賭して妖と戦っています。――お餅をいただいたらわたしが駆けつけます。それまでの間どうか――」
望月さんは笑みを浮かべた。そこにはひと月前の情けない青年の姿など無かった。
「分かりました。抑えきってみせます。では!」
そう答えると彼は杵を片手に、颯爽と祭場をあとにした。
(持ちこたえてくれよ!)
わたしはそう念じながらも儀式を続けていく。
「献饌」
わたしは熱々の餅を切り取り、皿の上に盛った。神籬のうしろにいらっしゃるオヒトリさまに一礼をする。いつもの祭儀とまったく違うのは、こうして神さまが見えているということだ。こんなこと、めったにあるもんじゃない。
オヒトリさまが盃を手に取られた。わたしは御神酒の入った徳利の蓋を取り、盃に注がせていただく。オヒトリさまはついっと御神酒を召し上がった。
そしていよいよ餅だ。餅が盛られた皿をオヒトリさまにお渡しすると、オヒトリさまは感慨深そうに眺め、そしておっしゃった。
「望月さん、高凪さん。――そして皆さんのお心掛け、しかと頂戴しますね」
そうして軟らかな餅を手に取られ、そしてむしゃむしゃと召し上がった。
「……これが一人餅つきの成果……彼の達観した心意気が餅をとおして伝わってきます。なんと素晴らしい! そして美味しいわ!」
オヒトリさまのお体がひときわ白く輝いたと思うと、その光は柱状に天高く上りゆき――そして立ちこめていた雷雲を消滅させたのだ。辺りは一転して、春の日差しが心地よい晴れの景色となった。
今やオヒトリさまのお姿は、見違えるほどご立派で厳かなものとなった。黒く艶やかな髪と対照的に白い羽衣。なんと神々しい。ご神格が上がられたのが分かる。
「――ありがとう、高凪さん。儀式の最中で申し訳ないですが、わたしは望月さんを助けに行かなければなりません」
「はい……」
わたしはオヒトリさまのお姿に見惚れつつ、答えた。
「……では。妖を倒したら帰ってきます!」
オヒトリさまはふわりと宙に浮かび上がると、ものすごい勢いで祭場を出て行かれたのだった。
七.
一方。
餅を一人でつき終えた俺は、オヒトリさまの願いどおり急いで祭場から出た。
目の前ではまさに、妖と金髪の巫女さんによる戦いが繰り広げられていた。彼女も俺同様、剣の心得があるのだろう。太刀筋に力強さを感じる。
(……やや押されているな)
俺がそう思った瞬間、巫女さんの一瞬の隙を突いて、妖が巫女さんのみぞおちに強烈なパンチをかましたのだ!
「がはっ……」
耐えられず、巫女さんは両の膝を突いてしまった。すかさず妖はあんぐりと口を開け、巫女さんを丸ごと平らげようとする――!
「違う! ……お前の相手はこっちだろう!」
俺は妖を挑発した。
「……いたな。ついにたまらず出てきよったな、小僧……くっくっ……」
妖は頬まで裂けた口をゆがませて笑う。だけど、一ヶ月前の俺とは違うところを見せてやる!
「喰ってやるぅぅぅ-!」
妖は突進してきた。見た目に反して身のこなしが素早い。強敵だ。
俺は杵を両手に持ち替えて中段の構えを取ると、一歩前進した。ちらと巫女さんの様子をうかがう。と、彼女は意志の強い瞳でこちらを見返し、大丈夫だと掌を振った。
「イヤァア!」
俺は杵を威勢良く突き出す――ように見せかけて、右側面に強烈な一撃をお見舞いした。妖は油断していたのか、このフェイントに見事に引っかかってくれた。さらに間を置かず、高くジャンプすると、妖の脳天に容赦なく杵を突き下ろした!
ゴガア! という鈍い音。御神酒による神聖属性の効果も加わる。
してやったり。俺はにやりと笑った。これらはすべて、このひと月の修行の成果だ。
妖がふらつくのを見て、巫女さんが刀を構えて突進してきた。そして下から上へと刀をなぎ払う。太刀筋は青白く光り輝く。名のあるご神刀なのだろう。
「……おのれ、こわっぱどもが!! 私の真の力におののきすくむがよい!」
満身創痍となった妖はそう言って、うつろな眼窩をカッと見開いた。するとその中からは無数の目玉がぼろぼろこぼれ落ち、たちまちのうちに妖を取り囲んだ。妖はそれら目玉を吸収していき、見るもおぞましい姿に変貌を遂げた。全身目玉だらけの大男だ。見ているだけで気がおかしくなりそうな、常軌を逸した容姿。そしてなにより、凄まじいプレッシャーを感じる。
だがここでひるんでいては勝ち目などない。俺は再び杵を両手で持ち、上段の構えで立ち向かっていく――その時!
妖の目玉が一斉にこちらを睨み付けたのだ! 俺は根負けして、金縛りにかかってしまった。
「くっ……!」
替わって巫女さんが攻撃を仕掛ける。が、彼女の太刀筋はことごとく妖に読まれてしまい、かすりもしない。
「乾坤一擲ーっ!!」
彼女はそう言い放つと目を閉じ、捨て身の構えで妖に攻撃を仕掛けた。無茶だ! 死ぬぞ!
だがその時、俺は金縛りから解放された。そして妖の目がすべて彼女に注ぎ込んだ、その一瞬を逃さなかった! 隙あり! 俺は砲丸を投げるように脚を軽快にさばきながら、全体重を杵にかけていき――遠心力をもって妖にぶちかました! 会心の一撃!
今まさに巫女さんに攻撃しようとしていた妖は、たまらず叫んだ。
「おのれおのれおのれ……」
妖が打ち震えながら呪詛をつぶやいたその時、祭場から一条の光がまっすぐ天に伸び、一面の雷雲を消し去った!
「なん……だと……?!」
妖はうろたえた。自分の妖力がまったく失われてしまったのだ。
「奥義! 蜻蛉斬!!」
そこに容赦なく巫女さんが斬り付ける。ナイス連携! そしてこの強力な一撃で妖は動きを封じられ、力を奪われた。
「お待たせしました~! あとはお任せ!」
ついにオヒトリさまが祭場から飛び出てきた。待ってました! 俺が一人でついた餅を召し上がったのだろう。オヒトリさまは本来の力を取り戻したのだ。加えてそのなんと美しく神々しいこと! まさに神さまにふさわしい!
「……や、やめ――」
妖はみっともなく命乞いをするが、それを聞き入れるオヒトリさまではない。
「だ~め! ですよ!」
そう言って彼女は右手をぴたりと妖の頭に当てた。
「破ぁっ!」
凛としたオヒトリさまの声が周囲に響き、妖はあっという間に霧散した。
俺と巫女さん、そしてオヒトリさまはお互いの目を見合わせる。――そう、俺たちは勝ったのだ!! オヒトリさまバンザイ! 餅つきシングルバンザイ!!
八.
――月日は流れ。ここ望月村にとうとう神社が建立された。オヒトリさまのおわす祠を本堂に据えたこの社は、小さいながらもなかなかどうして立派だ。村も少しずつ入居者が増えてきている。観光に訪れる人もそのうち増えてくるだろう。
そして俺は神主として今、この村に住んでいる。オヒトリさまに関わる一連の出来事によって俺の人生は大きく変わったのだ。
「キミの大学卒業と神社落成が同じ年になったのは、めでたいことだなあ」
それまで仮の神主を務めていた高凪さんが、神社の屋根を見回しながら感慨深そうに言った。これでこの人は自分の神社の職務に専念できる。そう思うとけっこう寂しい。
「なにかあったら連絡をくれ。手伝うぞ」
ああ、結局この人とは縁がなかったんだなあというのが正直なところだ。残念。なんでも小さな頃から好きあっていた幼なじみと結婚するとかで、はじめから俺の出る幕はなかったということなのだ。
「わたしもしっかりサポートしますから! ね!」」
そう言って腕を絡めてきたのは、本多インテグラル。妖退治をきっかけに意気投合したこの娘から一方的に好かれ、強烈なアタックを受けてはじめは疎ましく思うこともあったが、今ではすっかり相思相愛の仲だ。……え? のろけるなって?
まあともかく俺の物語はこれで終了だ。いずれどこかで、一人で何かことを為さんとするヤツが出てくるかもしれない。俺はその修練の無事をオヒトリさまに祈ろう。
<了>