第37話 ヒュドラ
聖水を樽に入れて回収したわたし達は、聖導教の教会へと戻ってきた。
ずらりと並べられた簡素な寝台の上では、高熱に浮かされ、毒で苦しむ人々が横たわっている。
「もう大丈夫ですよ。これをゆっくり飲んでください」
わたしは膝をつき、衰弱した男性の口に聖水を運ぶ。透明な液体が喉を通った瞬間、苦悶に歪んでいた顔が穏やかな表情へと変わった。
「ああ……熱が引いていく……! 咳も、止まった……?」
男性は自らに起きた変化に驚きながら、ゆっくりと半身を起こした。そして安堵の涙を浮かべて深々と頭を下げる。
「死ぬまでこの苦しみが続くのだと……。教祖様、ありがとうございます!」
ここにいる病人たちは、わたしのスキルで生命力が強化されている。それでもやはり、毒の苦しみは相当なものだったようだ。
それを皮切りに、仲間たちも聖水を配り始めた。病人たちが次々と元気を取り戻し、あちこちから喜びの声が聞こえてくる。
「教祖様、貴女は命の恩人です……! 今度、ぜひうちの店に来てください! 皆様には、一生無料で美味しいパンをお渡しします!」
「私の店にもぜひお立ち寄りを! いつでも最高の服を仕立てますので!」
「店に戻ったら、ノクヴァル教の教会に一番美味い肉をお届けに参ります! ぜひ受け取ってください!」
元気になった人がわたし達の周りを取り囲み、お礼がしたいと申し出てくれる。
「気にしないでください。皆さんが無事で何よりですよ」
わたしが微笑みかけると彼らはますます興奮し、涙ながらに恩返しを誓ってくれた。
そんな喧騒の中、屈強な体つきの男がこちらに歩いてきた。冒険者ギルドでギルドマスターを務めるオルジフだ。
「俺からも礼を言わせてくれ。彼らを救ってくれて、本当にありがとう」
オルジフはその厳つい顔に穏やかな笑みを浮かべ、深く頭を下げた。
「少ないが、ギルドからの報酬だ。街を救ってくれて感謝する」
そう言って彼が取り出したのは、金貨がぎっしりと詰まった皮袋だった。
「いえ、困ったときはお互い様ですよ。このお金は街の人のために使ってください」
世界征服が完了すれば、この街の人々も全員ノクヴァル教の信者になるのだ。将来の仲間が困っていたら助けるのは当然だし、報酬なんて必要ない。
わたしが断ると、オルジフは力強く首を振った。
「そういうわけにはいかん。良い仕事をした者には相応の金を払う。ギルドマスターとして当然のことだ」
そう言って彼は半ば強引に金貨の袋を押し付けてくる。
「それに、この教会に運び込まれたのは特に症状の重かった者たちでな。この街には他にも毒で寝込んでいる奴が大勢いるんだ。うちのギルドのメンバーもかなりの数が体調を崩していて、動けずにいた。だから、あんたはこの街を救った英雄だ。受け取ってくれなきゃ俺たちの気が済まねぇ」
その言葉で思い出した。川の水を飲んだ人だけでなく、その川で獲れた魚を食べた人達にも毒は広がっている。
「……そうでした。街にはまだ、苦しんでいる人が大勢いるんですよね」
街の住民全員を救うまでは、この依頼は終わってない。わたしは隣にいる仲間たち4人に向き直った。
「信者の皆にも協力してもらって、この聖水を街の住民たちに配りましょう!」
「うん、そうだね! すぐに動ける人たちを集めてくるよ!」
「効率が重要ね。地図を借りて、担当地区を割り振りましょう」
「お、俺たちにも協力させてくれ!」
ラモーナが勢いよく走り出し、コニーが地図に線を引き始める。元気を取り戻した病人たちにも協力してもらいながら、わたし達は手分けして聖水を配った。
△▼△▼△▼△
<旅の役者:ラッセル視点>
寒い。骨の芯まで凍てつくような悪寒が全身を苛んでいる。体はガタガタと震え、咳が止まらない。
ほんの少し前までは、こんなことになるとは夢にも思わなかった。
広場での演劇を終え、万雷の拍手を浴びて気分良く片付けを済ませた。市場で買った香ばしい焼き魚にかぶりついたのが、つい数時間前のこと。
それから急に体調が悪くなり始めた。
「ブルルッ……」
隣で、愛馬のシルフィが悲しげに鼻を鳴らした。その大きな瞳が心配そうに俺を映している。
せめてもの救いは、ぐったりとしていたシルフィが立ち上がれるまでに回復したことだ。
そのきっかけは、俺たちの劇を見に来てくれた桃髪の少女。彼女がシルフィの鼻先を撫でた途端、容態が劇的に改善した。
「やっとシルフィの具合が良くなったのに、今度は俺の番か……」
シルフィもまだ本調子じゃない。こんな状態で彼女の背に乗って移動するなど、考えられなかった。
「大丈夫だ、シルフィ……。ただの風邪さ。ちょっと病院に行ってくるよ」
不安な気持ちを払いのけるように呟いて、ふらつく足で立ち上がる。
この街の病院はどこだったか。朦朧とする意識の中で記憶をたぐり寄せながら、足を引きずるようにして進む。
ふと、遠くから聞こえてくる喧騒がやけに大きく耳に届いた。
何かの祭りだろうか? いや、そんなはずはない。この街では正体不明の風邪が大流行し、ここ数日街の雰囲気は沈みきっている。俺たちの芝居を観にくる客も、日に日に数を減らしていた。
音のする方へ足を進めると、広場の中央に人だかりができていた。
人垣の中心には大きな樽が置かれ、その前に1人の男が仁王立ちしている。
男は両手を大きく広げ、集まった人々に向けて声を張り上げた。
「皆の者、よく聞け! 汝らが苦しんでいるその熱と咳は、断じて風邪などではない! 毒だ!! 汝らの体は毒に侵されている!!」
一瞬、広場が水を打ったように静まり返った。次の瞬間、その静寂を突き破るように絶叫と怒号が爆発する。
「ど、毒だと!? 馬鹿なことを言うな!」
「一体誰が俺たちを毒殺しようってんだ……?」
「静まれッ! 毒の発生源は川の上流にある泉だ! 伝説の怪物『ヒュドラ』が泉に棲みつき、その猛毒で一帯が汚染されたのだ!」
――ヒュドラ。その言葉を聞いた瞬間、男を取り囲む民衆の顔から血の気が引いていくのが分かった。
九つの首を持ち、毒の息を吐き出すという神話の中の怪物。この街の近くにヒュドラが出没するという噂は、確かに聞いたことがあるが……。
「何てこった。ヒュドラだと? そんなものが実在したなんて……」
「では、普通の薬が効かなかったのも、これが風邪ではなくヒュドラの毒だったせいなのか!?」
「ああ、その通りだ」
「じゃあ、俺たちはこのまま毒に苦しんで死ぬしかないのか……」
絶望が伝染していく。俺自身の体も、もう限界に近かった。だが、男はそんな絶望を打ち消すかのように、さらに声を張り上げた。
「案ずるな! 体調の悪い者は前に出よ! この『聖水』を飲むがよい!」
男が指し示したのは、透き通った液体がなみなみと注がれた大きな樽だった。
聖水といえば、聖導教の教会が高値で売り捌いている超高級品のはずだ。
確か、小瓶一つで100万ゴールドは下らないはず。それがなぜ、こんな街角で樽いっぱいに満たされているんだ?
俺の疑問を代弁するかのように、誰かが叫んだ。
「聖水だと!? そんな高価な物が、何故こんなに大量にある!?」
男は待ってましたとばかりに胸を張り、叫んだ。
「それは我らが敬愛する教祖、リオラ様が毒の泉を浄化されたからだ! リオラ様は我らの苦しみを知り、泉へと向かわれた。そしてかの恐ろしきヒュドラと対峙なされたのだ!」
「そ、それは本当か!?」
「だが聞かせてくれ! そのリオラ様とやらはヒュドラに会って無事だったのか? 噂によれば、ヒュドラの息吹は触れただけで命を奪うはず……」
民衆の不安げな声に、男は自信満々に言い放った。
「フン、愚問だな。リオラ様に毒の息など効かぬわ!」
え? と民衆から間の抜けた声が漏れる。俺も耳を疑った。
「リオラ様はな、ヒュドラが吐き出す猛毒の息吹を涼しい顔で浴びながら、毒で汚染された泉の水面を優雅に歩き、その九つの頭の一つを殴り倒されたのだ!」
殴り倒した? あの伝説上の怪物を?
「するとどうだ! リオラ様のあまりに勇ましいお姿に心を打たれたヒュドラは、自らの罪を悔いて滂沱の涙を流し、もう二度と悪さはしないと誓ってどこかへと飛び去って行ったのだ……!」
「に、にわかには信じがたい話だが……それは本当なのか?」
男を取り囲む民衆から疑念の声が上がる。あまりに現実離れした話だ。無理もない。
すると、信者の男は得意げに鼻を鳴らした。
「これは確かな筋から聞いた、紛れもない事実だ! 訳あって情報源は言えないがな……」
何故言えないんだ? 怪しすぎるだろ……。
だが、冷静さを失った民衆はその突拍子もない話をあっさりと受け入れてしまった。
もはや藁にもすがりたいという思いなのだろう。俺も咳き込む苦しさの中で、その馬鹿げた話を信じ始めている自分に気づいた。
男の演説は、ついに最高潮に達する。
「そしてヒュドラが去った泉のほとりで、リオラ様は民の苦しみに心を痛め、一筋の涙を流された。その涙が毒の泉に落ちた、その瞬間! 奇跡が起きたのだ! 泉の水がまばゆい黄金の光を放ち、猛毒が聖水へと生まれ変わった! この樽に満たされているのが、その奇跡の水だ!」
民衆から「おお…!」というどよめきが上がった。
「噂には聞いていたが、あの少女が奇跡を起こすというのは本当だったのか……!」
「だが、その聖水はいくらなんだ? 俺には払える金なんて……」
その声に、俺ははっと我に返った。そうだ、金だ。聖水は高級品。俺なんかが手を出せるはずもない。だが、この苦しみから解放されるなら。
「頼む! 熱で、苦しいんだ……! 金は一生かけてでも払う! どうか、その聖水を恵んでくれ……!」
俺は人垣をかき分け、這うようにして男の前に進み出た。
男はそんな俺を穏やかな目で見下ろし、言った。
「リオラ様からは、金など1ゴールドもいただく必要はない、と仰せつかっている。彼女が願うのは皆の真の幸福、ただそれだけなのだ」
耳を疑う言葉に、男の顔をまじまじと見つめる。男はそんな俺を意に介すでもなく、木製のコップに聖水を注いで差し出してきた。俺は震える手でそれを受け取り、一気に呷る。
冷たい水が喉を通り過ぎた瞬間、体の内側から癒えていくのを感じた。あれほど俺を苦しめていた悪寒や咳が、嘘のように引いていく。力が、みなぎってくる。
「ああ、体が軽い。これが聖水か……」
俺は自分の手を呆然と見つめ、男に視線を戻した。
「あの、俺の馬も体調が悪いんだ。あいつにも飲ませてやっていいだろうか?」
「もちろんだとも!」
男はにこやかに頷いた。
「家族や友人が毒に苦しんでいたら、この聖水を持って行って飲ませてやれ! 教祖様はこの街の住民全員を、1人残らず救うおつもりだ!」
広場が割れんばかりの大歓声に包まれた。人々は我先にと樽に殺到し、そして次々と回復を遂げていく。
抱き合って喜ぶ親子、天を仰いで涙を流す老人。友の肩を叩き、回復を祝い合う者もいる。
やがて、1人が叫んだ。
「教祖リオラ様に、心からの感謝を!!」
それを皮切りに、皆がその奇跡の少女の名を叫び始めた。その声は波のように広がり、やがて共鳴して巨大なうねりとなって広がっていく。
「リオラ!!」「リオラ!!」「リオラ!!」
自然と、俺も叫んでいた。絶望から救い出してくれた顔も知らぬ少女のことを思い、街中の心が一つになる。
「リオラ!!」「リオラ!!」「リオラ!!」
その声は広場の外からも聞こえてきた。ここだけでなく街の至る所から、同じコールが地響きのように伝わってくる。
民衆の熱狂が頂点に達した瞬間、街全体がまばゆい金色の光に包まれた。
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