第10話
アストリア王国を半円に囲う長大な死の山脈は、国境であると同時に“呪いの壁”だ。
急こう配の険しい山道だけでなく、生い茂る木々によってできた深い森は視界をも奪う。
足を踏み入れれば魔物に襲われるため近づけず、ゆえに山越えはできない。
かといって放置しても魔物が領地に湧き出て暴れ、それはそれで甚大な被害をもたらす。しかも倒した死骸は有効活用できず、燃やし尽くすしかない。
その存在はこの国にとって開国以来の大きな負債であり、南の領地が隣国に奪われている状況の現在、その負担はさらに増大している。
でも、それは今までの話。
錬金術があれば魔物を資源に変えられる。
そのために、私とギルはここにきた。
「さて、ここからは一層気を引き締めないとな」
「そうね。いつどこから魔物が襲い掛かってくるかわからないものね」
目的の一つとはいえ、胸の奥が少し強張る。
魔物なんて、本来なら一生出会いたくない相手だ。
それでも国のため。
私たちは整備もろくにされていない山道へ、警戒を保ったまま足を踏み入れる――はずだった。
「……え」
しかし、私の足はものの数歩で止まった。魔物じゃない。
もっと厄介な“存在”が、森の奥から現れたからだ。
配下の兵士たちを連れて現れた人物。
端正だが険のある顔。厚い胸板、背丈は高く、纏う空気そのものが威圧になる。血と泥で汚れた鎧、背には身の丈の大剣。
アストリア第一王子、グロウ・アストリア。
私の兄であり、王国最強の武人。
おそらくは魔物の討伐帰りなのだろう。これも軍の役目の一つ。
予め国に近い側の個体を駆除しておくことで、なるべく街に魔物が出没するのを防ぐ。
焼け石に水に近い行為だが、やらないよりはマシだ。
それで一人でも多く民が救えるなら。
「こんなところで会うとはな」
「……私も驚きましたわ、グロウ兄様」
「何しに来た。ここは死地だぞ。身投げでもしに来たか」
「まさか」
開口一番、とんでもないことを言う。
これが兄が妹に言うセリフかしら。しかも冗談にしてはわかりづらいし。
いえ、グロウ兄様のことだからもしや本気で言ったのかも。この人はそういう人だ。
やれやれ、まさかこのタイミングで出くわすなんて。
運が悪い。せっかく変装までしてきたのに。
「では、どういうつもりだ」
「野暮用です」
「野暮用?」
「いずれお兄様にもお話します。今は行かせてください。危険は承知の上です」
鋭い視線を、私は正面から受け止めた。
「フン、好きにしろ。言っておくが俺は助けんぞ。まあ、そっちのガキがいれば死にはしないだろうが」
「ええ。私の騎士は優秀ですから」
私が答えるのと同時に、ギルが一歩前へ。
剣士の本能か、兄の圧から私を自然と庇う位置取りになる。
「一応忠告しておく。何か企んで動き回っているようだが、やめておけ。どうせ無駄だ」
まいったわ。
この口ぶり、まさかグロウ兄様にまで私が水面下で行動していたことがバレていたなんて。
……いいえ、たぶん違う。これはリヒテル兄様の仕業ね。
内政や策謀に明るいとは言い難いグロウ兄様に気取られるほど、私に油断した覚えはない。きっとそれとなくグロウ兄様の耳に入るように「フェルトが何かしている」という情報を流したんだわ。
私への牽制と同時に、グロウ兄様の注意の分散。
ほんと、したたかな人。
「お前もリヒテルもわかっていない。余計なことをするな。この国は豊かになってはいけない。――しかるべき時がくるまではな」
お兄様が言っているのは、南の隣国のこと。
あの国は好戦的で、豊かさを嗅ぎつければ容赦なく奪いにくる。
かつて私たちアストリアが広大な土地と人口を誇っていた時代、彼らの刃は次々と国境を食い破り、残ったのがこの死の山脈に囲まれたわずかな領土。
この最後の土地にしたって価値があると判断されれば、奴らは間違いなく再び侵略を始めるでしょう。
「グロウ兄様のお考えは承知しているつもりです。いずれ武力で奪われた土地を取り戻そうとされているのでしょう? けれど、隣国とは戦力が違いすぎます。取り戻せても、守り続けられなければ意味がありません」
お兄様の方法は、武による救国。
と言っても、なにも隣国のように侵略戦争を行おうというわけではない。
やるのは奪われた領土の奪還。たとえ全土といかなくとも、南端にある肥沃な一帯――アストリアの食料庫と呼ばれていた地を取り戻すつもりだろう。
そこがあれば食料は三倍に増え、民も帰ってくる。飢えも減り、税も回り、国は息を吹き返す。
けれど――その夢には、あまりにも危うい綻びがある。
もし奇跡的に取り返せたとしても、その先が地獄だ。
敵が報復として再び攻め込んできた場合、今度こそアストリアの滅びは避けられない。
相手は何倍もの領土と兵を持つ大国。うちの国とはそもそもの戦を続ける体力が天と地ほども違う。
長期戦に持ち込まれれば、こちらに勝ち目はない。
「お前の言いたいことはわかる。だが、勝機はゼロではない。敵が持久戦を目論もうとも、短期決戦で敵軍に壊滅的な打撃を与えればいい。容易に手出ししづらい武力があると示せれば、停戦交渉に持ち込める可能性はある。少なくとも、このまま緩やかな滅亡を受け入れるよりはマシだ」
……なるほどね。一理あるわ。
けど、やっぱりそれが薄氷であることに変わりはない。「ゼロではない」という言い回しがそれを物語っている。
「ともかく俺たちの軍は今、来たるべき日に備えて力を蓄えているところだ。今日ここに来たのも、練兵も兼ねてのこと。しかし貴様らが余計なことをして、俺が決起するより先に奴らに攻められればすべてが台無しだ。ゆえに――邪魔をするなら、たとえ兄妹だろうと容赦せん。切り捨てる」
「……!」
その威圧感に、思わず息が詰まる。
前に立つギルの背中からも、さらに緊張感が高まったのが伝わってくる。
「この国を救えるのは俺だけだ。お前やリヒテルの出番があるとすれば、それは勝利の後の交渉の場だ。だから、今はまだ何もするな」
そう言い残して、グロウ兄様は踵を返した。
配下の騎士たちが整然と彼の後を追う。
血と泥にまみれた背中が、やがて森の陰に消えていく。
残された私は、胸の奥で荒ぶる鼓動を抑えられずにいた。
あの人の言葉には理屈を超えた迫力がある。
国を背負う覚悟の重さが、言葉の端々から滲み出ていた。
「フェルト、大丈夫か?」
「ええ……なんとかね。ありがとう、ギル」
心配そうに声をかけてくれたギルに礼を言う。
「それにしても、見事に釘を刺されたわね。あんまりやりすぎると本当にグロウ兄様に斬られちゃいそう。なんせ冗談が通じない人だし。もっとも、だからと言って私も手を緩めるつもりはないけど」
あの人が本気で剣を振るう姿を思い浮かべるだけで、背筋が冷える。
ある意味で敵国と同じくらい――ううん、もしかしたら最悪のタイミングで“味方”が敵にもなり得るという理不尽さが、よけいに厄介かも。
ただそんな私とは対照的に、隣のギルは鼻息を荒くしていた。
「いやぁ、すごかった。あれが本気の王国最強か……任命式の時も十分ヤバいなって思ったけど、鎧を着てるとさらに迫力が段違いだな。向かい合ってるだけでゾクゾクした」
「でも、引かなかったわね。えらい」
「君の前だからな。向こうが抜けば、こっちも抜いたさ」
ギルが剣の柄に軽く指をかけ言い放つ。
ふっ、相変わらず頼もしいわね。
「で、実際どう? あなたとグロウ兄様、戦ったら勝てそう?」
「ギリ一分ってところだな」
「なにが?」
「君を逃がすまでの時間稼ぎ」
……うん、前言撤回。




