第1話
「あなたは死にました。なので異世界に転生してもらいます」
それは十二年前のこと。
不慮の交通事故であっけなく命を落とした私に、天国らしき場所で神様(?)らしき人はそう言った。
正直に言うと、少し嬉しかった。
なにがどう“なので”なのかはさっぱりだったけど、まさか自分が異世界転生だなんて。そんなのてっきり二次元だけの妄想だと思っていたのに現実に起こるとは。つくづく人生わからないものね。
しかも、なんと私の転生先は一国の王様の娘だった。
つまり王女。お姫様。プリンセス。
これを幸運と言わずして何と言うのか。
前世の私はごく普通の会社員で、特に夢もなく毎日をこなすだけの平凡な人生を送っていた。
だからこそ、転生直後に自分の立場を理解したときは胸が高鳴りもしたのだが……。
***
「……このままいけば、この国はあと五年で滅びてしまう」
時は戻って現在、私は自室でひっそりと頭を抱えていた。
アストリア王国。それが私の生まれた国の名であり、人口わずか三千人の小国。
かつてはもっと広い国だったらしいけど、隣の大国に少しずつ領地を削られ、今では地図の端っこでかろうじて息をしている。
しかもこの国の周囲は、魔力の濃い山岳地帯――“死の山脈”と呼ばれる危険地帯に囲まれている。
そこから魔物の群れが定期的に現れ、国を襲う。
土地は痩せ、作物は育たず、資源もない。
まだ滅びていないのは、占領しても得るものが少なすぎるから――それだけ。
隣国からも「取る価値がない」と見逃されているという悲しい現実。
冬を越すたびに餓死者が出る。
そう。この国は少しずつ、けれど確実に滅びへ向かっている。
「なんとかしないと……」
王である父は病で寝たきり。
兄は二人いるけど、それぞれ優秀ながらもどこか危うい面がある。
今のところ、国を建て直せる目途は立っていない。
「フェルト王女、今日も行くのですか?」
ドアの外から声がした。
低く落ち着いた声。聞き慣れたその響きに私は顔を上げる。
「ええ。もちろんよ」
扉を開けると、そこにいたのは剣術の名門――ガルディーニ家の前当主、ジーク・ガルディーニ。
六十歳を迎え、髪も髭もすっかり白くなったけれど、その背筋は真っ直ぐ。
剣の腕はもちろん、学識も深く、今は家督を息子に譲り、王城で私の従者として仕えてくれている。
「フェルト王女、毎度の忠言ですが、わざわざ王女があのようなことを……」
「いいのよ。この国が人手不足なことはあなたもわかってるでしょう? できることがあるなら、やりたいの」
「……ふむ。かしこまりました。お供いたしましょう」
ジークが静かに頭を下げる。
私は机の上に置いていた外套を取って肩に羽織り、部屋の出口へと向かった。
***
ジークと二人で城を出た。
向かうのは北方の開拓地。王城から馬車でおよそ一時間――とはいえ、王族の馬車といっても豪華さとは無縁だ。ガタつく車輪に揺られながら、私は窓の外を眺めた。
アストリアの土地は痩せていて、育つ作物は限られている。
収穫量も少なく、効率を補うためには広い畑が必要だ。けれど、南方の肥沃な土地はもう他国に奪われてしまった。
だから今こうして、誰も手をつけていなかった北の森を切り開いて畑に変える――それが、今の私たちの“国づくり”。
木を倒し、根を掘り起こし、石やゴミを取り除いて大地を耕す。
汗をぬぐいながら働く領民たちの姿は、決して楽ではないはずなのに不思議と明るかった。
少しでも良い明日を信じて、彼らは土と格闘しているのだ。
その健気さを見るたび、胸の奥がきゅっとして、私も王族としてどうにか力になりたいと思ってしまう。
「おっ、フェルト王女、今日も来てくださったんですか!」
「今日も一発お願いしますよ!」
「フェルト王女のパワーはゴリラ並ですからね!」
「やっかいな木があって困ってたっすよ!」
あはは、と笑い声が飛ぶ。
普通の国なら、王女に向かってそんなこと言うなんて考えられない。
でも私は、こうして気さくに話しかけてもらえるこの空気が好きだった。
きっとこの人たちは、私を“王女”ではなく“仲間”として見てくれているのだと思う。
「ええ、任せて。切るのはこれでいいのかしら?」
「そいつは十人がかりでもどうにもならなくて困ってたんっすよ。斧すら通らねえ」
「ふ~ん。それはまたなんとも切り甲斐がありそうね」
私は笑みを浮かべ、問題の大樹のもとへ向かう。
両腕を広げても足りないほど太く、見上げるほど高い。根は地面を押し上げ、まるでこの土地を支配しているかのように堂々としていた。
けれど、その幹から伝わってくる生命の鼓動が強すぎて、ほんの少しだけ気が引けてしまう。
それでも、今はためらっている場合じゃない。これも明日の食糧のため。
深呼吸を繰り返し、体の内側に意識を集中させる。
魔力が高まるにつれて、胸の奥が熱を帯びる。
この世界では誰もが少なからず魔力を持っている。魔術を使うこともできれば、体に流せば身体能力を高めることもできる。
私は王族という血筋のせいか、生まれつき魔力量が多い。だから体に魔力を通せば、普通の人よりはるかに力が出せるというわけ。
……だから念のため弁明しておくと、さっき農民の一人が言ってた“ゴリラ並”って言葉は、別に私が筋肉ムキムキだからというわけではない。断じて。
「フェルト王女。こちらをどうぞ」
「ありがとう、ジーク」
ジークから受け取った剣を抜き、刀身に魔力をまとわせる。
刃が光を放ち、周囲の空気がわずかに震えた。
一閃――。
魔力の刃が刀身よりも広がり、大樹をまっすぐに切り裂いた。
次の瞬間、静寂を破るように巨木がゆっくりと音を立てて倒れる。
「おおおおお……!」
「さっすがフェルト王女! ありがとうございます!」
「これで夏までに畑にできんな。芋なら冬前には収穫ができんぞ!」
「いやはや。相変わらず王女様の力はすごいですなぁ」
「よーしみんな、邪魔ものは片付いた! このあたり一帯の整地、今日中にやるぞ!」
「おうよ!」
領民たちが歓声を上げる。
その笑顔を見ると、少しだけ胸の奥が温かくなった。
「あっ、そうだフェルト王女。うちのもんがカボチャ煮たんだ。王女様も食ってくれ!」
「あら、そうなの? ありがとう、いただくわ」
「お、いいなぁ。こっちにもくれよ」
「俺も俺も! 腹減っちまってな!」
笑い合う声の中、私は差し出された木皿を受け取り、湯気の立つカボチャを頬張った。
ほくほくしていて、少し甘い。
このカボチャは、去年からアストリアに広まり始めた新しい作物。
海を越えた南の国からもたらされたもので、実が大きく、長持ちし、痩せた土地でも育つ。
栄養価が高くてお腹にたまるから、国民にとってはまさに救世主とも呼べる。
――だけど、私は知っている。これがもたらされた経緯を。
そして、その代償は大きすぎた。
国にとっても、なにより私自身にとっても。
暗い考えが胸をよぎり、私は首を振った。
今はそんなことを思い出している場合じゃない。
開拓だ。畑を作らなきゃ、来年の冬を越せない。
今年もみんなで春を迎えるために――。
私はスプーンを置き、もう一度、広がる森の向こうを見つめた。
***
畑仕事を終え、泥のついた外套を脱いで城へ戻る。
体を清めた後は、髪を整えて薄いドレスに着替える。
午後は勉強の時間だ。王族として学ばなければならないことは山ほどある。
政治、戦略、歴史、そして経済。
貧しい国だからといって免除されるわけではない。むしろ、貧しい国だからこそ学ばなければならない。
午前は畑で汗を流し、午後は机に向かう。それが私の日課だった。
学びの時間が終わるころには、空は茜色に染まっていた。
私は教本を閉じると、夕食を取りに食堂へと向かった。
食卓に並んでいたのは、ボサボサの黒パンと薄いキャベツのスープだけ。
けれど文句は言えない。
この国では“今日もご飯がある”というだけで、もう十分にありがたいことだから。
私はスプーンを手に取り、スープをすくう。
味は薄いけれど、温かさだけで少しホッとする。
そんな、いつも通りの静かな夕食になるはずだった。
「久しぶりね、フェルト。元気にしてた?」
その声を聞いた瞬間、スプーンを落とした。
「姉さん……どうして?」
「ちょっと、忘れ物を取りにね。あの人が遠征中だったから、抜け出せたの」
シルフィーナ=アストリア。
アストリア王国の第一王女にして、“元”皇位継承権第三位。年の差は八つ。
黒髪の私と違って、彼女は陽光のように輝く金髪の美人。
誰にでも微笑みかけ、誰からも愛される――私の憧れの人。
「それより聞いたわよ。フェルト、最近すごく頑張ってるんですってね。開拓の進み具合が予定より一年も早いって、みんな驚いてたわ」
「……姉さんが送ってくれたカボチャを植える場所が足りなくてね。だから、ちゃんと活かしたくて……その、がんばっただけ」
「ふふっ。やっぱりあなたは昔から真面目ね。……ありがと」
そう言って、姉は私を抱き寄せた。
突然の温もりに、思わず頬が熱くなる。
「やめてよもう。私はもう子どもじゃないんだよ」
顔を上げると、姉はくすっと笑った。
「いいの。私にとってはいつまでたっても小さな妹なんだから。可愛くて、心配で……だから、あんまり無茶はしないでね?」
「しないよ。……それに、私にできることなんて、たかが知れてるもの」
そう、たかが知れている。
確かに私は毎日がんばっている。魔力で開拓を手伝って、勉強も欠かさず続けている。
でも、畑を広げたところで国全体から見ればほんのわずかな成果にすぎない。
どれだけ知識を詰め込んでも、それを実践するための資源がない。
前世の記憶もあるけれど、私はただの事務員だった。特別な知恵なんて持っていない。
「どうしたの、そんな難しい顔して。心配しなくても大丈夫よ。任せて。あなたやみんながお腹いっぱい食べられるように、きっとお姉ちゃんが何とかしてみせるから」
「……っ」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
その言葉は嬉しい。けれど同時に、苦しかった。
姉はもうこの国の人間じゃない。
数年前、他国の王族のもとに嫁いでいった。
恋愛感情なんて一切なかったはず。惚れたのは相手の方で、姉はただ国のために笑ってうなずいた。
政略結婚。そして代わりに、この国への援助を引き出した。
昼間のカボチャもその成果だ。種は姉が送ってくれたものだった。
おかげで去年は餓死者が出ずに済んだ。
けれど私は悔しかった。
この国が豊かだったら、もし私に力があったら、姉は嫁ぐ必要なんてなかった。
私にとってシルフィーナ姉さんは希望だった。
異世界に一人投げ出されて少なからず心細さを感じてた私に、いつも優しくしてくれた。
――でも、現実は残酷だ。
姉の夫は野蛮で好色家と悪評高い。
彼女は前より痩せ、長い袖で隠しているが、その下には痣があるのを私は知っている。
噂では、姉はその男の五番目の妻で、その前の四人はみんな夫の暴力で命を落としたという。
考えたくもない。
でも、想像してしまう。
こんなにも心優しい姉が、知らない国で孤独に耐えている姿を。
「……姉さん」
「ん?」
「もし……もしさ。私がこの国を豊かにしたら、戻ってきてくれる?」
「あはは……そうなったら素敵ね。でも、それはできないわ」
姉は笑いながらも、目の奥がわずかに曇った気がした。
自分が戻れば援助は途絶える。この人はそれを許さないだろう。
「さて、そろそろ時間ね。短い時間だったけど、今日は会えて良かった……愛しているわ、私の可愛いフェルト」
姉は私の頭をそっと撫でた。
子どものころと同じ手つき。懐かしくて、切なくて、言葉が出ない。
気がつけば、姉はもう背を向けていた。
窓の外から覗くと、馬車に乗り込む姿が見えた。きっと今日も援助物資を届けに来てくれたのだろう。
自分を犠牲にして得たものを、私たちに分け与えるために。
私はただ、拳を握りしめることしかできなかった。
「なんとか……しないと」
姉を助けたい。けれど、地道な努力だけでは届かない場所がある。
剣でも学びでもない、“特別な何か”。
「力が欲しい」
今すぐに。
気づけば私は、自室の本棚の前に立っていた。指先がひとりでに目的の背表紙を探り当てる。
重い鎖で封じられた一冊。数年前に父の書斎からくすねた魔導書。
「その本に記されているのは禁忌の魔術だ。絶対に開けてはいけない」
かつてまだ病で倒れる前、父が言っていた言葉を思い出す。
胸が高鳴る。きっとこの本には現状を変える力がある、そんな確信に近い直感があった。
「……大丈夫。今の私なら、きっと」
強大な魔術の会得にはそれだけ魔力を消費する。そして、魔力の量は肉体の成長とともに増える。
かつては魔力が足りず読むことを諦めたが、あれからずいぶん時間が経った。今の自分ならば耐えられるはず。
私は期待と恐怖を胸に、封を解いた。




