7. 裏でも回り出す歯車
朝の定例報告会。
窓口の一角に集められた職員たちが、いつものように机を囲む。
書類を手にしたレイチェルが立ち上がり、全体へ告げた。
「まず一つ、共有です。昨日の窓口対応の中で、今後の規定に加えるべき事例がありました。──利用者の中には、読み書きに不安を抱える方もいらっしゃいます。これまでは個別の判断に委ねてきましたが、今後は正式に補助対応を規定に組み込みます」
場の空気が少し動く。
その視線がメルシェに送られる。——ただの報告以上の意味を含んでいた。
あの場で淡々と動いた彼女のおかげで、見過ごしていた盲点に気づけたのだ。
「ですよね!」
カンナが勢いよく身を乗り出す。
「昨日も皆さん助かってました! 表情まで明るくなってました!」
声に弾みがある。利用者の小さな反応をすくい取るのは、彼女の得意分野だ。
称賛を受けた当人は、きょとんと首を傾げる。
「……業務の効率を図ったまでです。特段のことはしていません」
それは彼女らしい返答だった。
感情を介さず、行動をただの合理に置き換える。
だが、レイチェルは補足する。
「実際に処理時間が短縮され、列全体の滞留が減っていました。利用者からも好意的な声が上がっていました。効率化だけでなく、顧客満足度の向上にも繋がっていたと判断します」
淡々としているが、確かな評価だ。
カンナは嬉しそうに頷き、声を張る。
「レイチェルさんの言ってた“窓口は事実を扱う”ってやつですね!」
場が和む。信条が規定へと変わった瞬間だった。
レイチェルは続ける。
「もともと窓口の基本は“必要最小限”。無駄を省き、滞留を生まないことが最優先でした。だからこそ、深く踏み込む発想はなかった。……ですが昨日の件は違います。効率を損なわず、むしろ高める形で補助が成立した。これを規定化しない理由はありません」
「新しい風が吹いた感じですよね!」
カンナはさらに食い気味に言う。
「窓口の空気も、利用者の人たちも……前よりずっと柔らかかった気がします!」
メルシェは小さく首を振った。
「……空気の柔らかさは測定できません。数字で示せるのは処理件数と滞留時間の減少です」
「そういうとこですよ、メルシェさん!」
カンナが笑い、レイチェルも口元を緩める。
こうして新しい規定が静かに根を下ろした。
*
朝会が終わり、職員たちは持ち場へ散る。
カンナとレイチェルが窓口に残り、今日のメルシェは裏方から。
裏の仕事は山積みだ。記録棚の依頼書、整理途中の台帳、回収された魔道具のチェック。
──窓口が“顔”なら、裏方は骨格。
*
裏方の部屋。鉄と紙と油の匂い。
窓口のざわめきは扉一枚で遠ざかり、代わりに金具の触れる小さな音が響く。
扉を開けたメルシェに、作業中のジークが顔を上げた。工具片手に笑みを浮かべる。
「お、メルシェ。今日は裏方からか。現場に出る前の肩慣らしってとこだな」
「はい。ご指示いただければ速やかに対応します」
「相変わらず堅いな。……まあいい、こっち頼む」
差し出されたのは未整理の報告書束。
利用者の申請書と処理記録が混在し、仕分けが必要だ。
メルシェは無言で受け取り、机に広げる。視線は隅から隅へ。判や記入漏れを瞬時に拾った。
「……抜け、十件。誤記、四件」
「はやっ」ジークが素で声を漏らす。
「普通は小一時間かけるんだぞ。俺らのルーチンだ」
「工程を分解し、確認を並列処理しただけです」
「並列処理って……ほんと機械だな」
ジークは苦笑するが、手元から目を離さない。赤を入れる動きが無駄なく速い。
「……それにしても」ジークが声を潜める。
「お前、速いだけじゃない。“相手がどう記入したか”まで読んでるだろ」
「……行動パターンを推測するだけです」
「そういうのを“上手い”って言うんだよ」
彼だけは、その無意識の観察眼を拾っていた。
*
次の指示。メルシェは棚の列と帳簿を同時に見やる。
「結界札、封緘紐、端末水晶、予備インク……順で確認します。帳簿の更新時刻は十時三十二分。差異は——」
「待て待て、数えてないのに“差異”って言った?」
「計算上の可能性です。棚位置と返却印の時刻にずれがある。——実数、数えます」
ぱらり、と紙が鳴るより早く札が三束に分かれる。角は揃っていた。
「結界札、二十四。うち二枚、墨に滲み。交換推奨」
「お、早いな。俺の台詞取るなよ」
「台詞の所有権は定義できません」
ジークは笑い、二枚に魔力を流す。表層に砂のような乱れ。
「ビンゴ。現場で暴発したら笑えない。交換っと」
「交換札は最背列。取り出しやすいよう向きを揃えます」
「向き?」
「符号の“上”が手前。手を伸ばす回数が減ります」
ジークは肩をすくめた。だが頬は緩んでいた。
「そういう地味な最適化が、あとで効くんだよな。——次、封緘紐」
「短が三束、長が二束。うち一束は結び目が弱い」
「触っただけでわかるのか?」
「繊維の“返り”で判断できます」
ジークは弱い方を除け、巻き出しを揃えた。
二人の手は自然に同じ方向を作り、流れが速まる。
*
「棚の並び……少し変えた方がいいのでは?」メルシェが言う。
「ほう、どこだ?」
「“緊急便”の道具。今の位置だと落下リスクが高い。一段上なら安定します。標準として定めれば、他の方も迷いません」
ジークは顎に手を当て、一拍。
「なるほど。勝手に動かすと混乱するが、理屈は筋が通ってる。……よし、提案採用。俺の名前で“標準”に入れとく」
「確認が早いのは助かります」
「こういうのは“納得できるか”が大事なんだ」
軽口に混じるジークの本音。
その判断には、現場全体の流れを見据えた確かさがあった。
帳簿の更新は続く。メルシェは数字を写すだけでなく、順を“整える”。
手前は取りやすいもの、重いものは低い段、緊急の印具はカウンター近く。導線が敷かれていく。
*
裏方の作業は書類整理だけではない。
修理待ちの魔導具チェック、外部から届いた依頼票の下準備、窓口案件の記録補助。
「これ、魔力結晶の残量がズレてる。記録値と合わねえ」
「……実測は基準値を二割下回っています」
「そう。ってことは、現場で余計に魔力吸われてたってこと。こっちの班に知らせとかないとだな」
ジークがメモを走らせる横で、メルシェは無駄なく仕分けを終える。
「……ほんと、即戦力だな」
軽口まじりの声に、メルシェは手を止めずに返す。
「……規定を把握し、遵守しているだけです」
「そう言うけどな。実際、“遵守”で終わる奴は多いんだ。お前は“改善”に手を伸ばしてる」
ジークは飄々とした態度の裏で、相手の仕草一つ逃さず拾っている。
「お前がいると、空気が変わる。窓口でも裏方でも、だ」
「……私がしたのは、効率の追求だけです」
「効率が空気を変えることだってあるさ」
ジークは肩を竦め、言葉を打ち切った。
*
「次、端末水晶のバッテリー。昨日、一個“充電しても落ちる”って戻ってきた」
小箱からひびの入った水晶が置かれる。
「ひび。充電効率が不均一。——一度だけ角度をつけて差すと接点が全面に触れます」
「“一度だけ”ね。細かいな」
「体感で十分です」
斜めに差す。魔導灯がふっと安定した。
「お見事。窓口も裏も、“一度”が好きだな」
「効率のためです」
ジークは笑い、修繕票に「角度補正済・予備扱い」と記す。
横でメルシェが時刻を付記。
「ここでも付記か」
「通達だけでなく、物の履歴にも有効です」
——付記は裏でも速度に変わる。
*
整備台に若い治安隊員が駆け込む。擦り傷だらけの端末を抱えて。
「すみません、通信が飛ぶんです!」
「おう貸せ。……砂利に落としたな、端子に砂が入ってる」
ジークが軽口で緊張を剥がし、工具を構える。
メルシェは端末を触れ、風石の送風を合図。
砂が小さく跳ねる。
「通信層、復帰しました。試験呼び出しを」
「こちら治安隊詰所——応答良好! 助かりました!」
隊員は顔を明るくし、走り去る。ジークが片手でひらり。
*
ノック二度。カンナが顔をのぞかせる。
「お茶、差し入れでーす! あ、プロの部屋って感じ……!」
「床にケーブル出てるからつまづくなよ」
「はいっ!」
湯呑みを置いたカンナは棚を見て驚く。
「わ、ここ、昨日と違う! “緊急便”が取りやすい!」
「標準を上げました」
「ひゃい!」
ジークが吹き出しかける。
「ありがと。窓口の方は?」
「順調です! “付記”も浸透して、並び直しが減ってます!」
「上出来」
「裏方は?」
「規定を越えて、現場を変えてるな」ジークが笑う。
カンナが目を輝かせる。
「やっぱり! メルシェさんが普通じゃないって、ジークさんにも分かりましたか!」
「なんでお前が自慢げなんだよ」ジークが突っ込む。
メルシェは手を止めず、短く返す。
「……業務を遂行しているだけです」
カンナはクスリと笑い、頭を下げて去る。
扉が閉まる直前、メルシェが一言。
「——差し入れ、助かります」
「っ、はい!」
跳ねるように去る背を見送り、静けさが戻る。ジークは横目でメルシェを見るが、彼女はもう帳簿に目を落としていた。
*
最後のチェック。魔力計測台の校正。ジークが基準石を置く。
「これ、半年で微妙に狂う。——メルシェ、目貸して」
「誤差、右へ一目盛り弱。基準線が細いので、二重線にすると迷いが減ります」
「二重線?」
「太くして芯を入れる。窓口の線引きと同じです」
ジークは笑って筆を取り、二重線を引いた。
「裏にも“太い線”。これなら新人でも一発だ」
壁の時計が約束の刻へ影を伸ばす。
ジークは工具を片付け、袖を捲る。
「よし、片付け。そろそろ時間だ。受付に戻るぞ」
「承知しました」
棚は揃い、帳簿の端は“太い”。
廊下の向こうから昼の喧噪が戻る。
「メルシェ」
「はい」
「窓口、いつも通りでいい。——“特別扱い”は無しな」
「もともと、その方針です」
ジークは満足げに片口を上げる。
「だよな。……行こう」
二人が歩み出す。廊下の空気が張りを帯びる。
約束の刻は近い。扉の向こうで、場の呼吸が整いはじめていた。