61.白銀の休日、色彩の迷路
師走五日、午前のギルド。
窓の外は重い曇天。
ホールは静まり返り、紙をめくる音だけが響いている。
ダン!!
乾いた破裂音が、静寂を断ち切った。
カウンターが揺れる。
インク壺が跳ね、黒い飛沫が羊皮紙に散る。
近くにいた職員がビクリと肩を跳ねさせた。
音源は、一番窓口。
カンナが受領印を握りしめている。
拳が小刻みに震えている。
書類には、歪んだ赤インクの跡。
「……インクが」
カンナが低い声で呟く。
「薄い気がしました。……気合を入れないと、色が乗らないかと」
「備品に当たらない」
隣でレイチェルがペンを置いた。
眉間には深い皺。
「メルシェさん達の報告書……」
カンナは唇を噛み、視線を落とす。
「裏に行ってなさい。資料整理でもして、頭を冷やしてきなさい」
レイチェルが書類を整える手つきだけで示す。
行け、と。
*
資料室。
カンナが扉を開ける。
キーを叩く音が、機関銃のように響いている。
「……メルシェさん?今日、お休みですよね?」
メルシェは振り返らない。
画面に流れる光の帯を目で追っている。
「休暇中です」
「じゃあなんで」
「ここの方が捗ります。回線速度差15%分」
キーを打つ手は止まらない。
「却下された報告書の不備を再計算しています。説得力を数値で補強します」
目の下には薄い隈。
カンナが歩み寄る。
端末の魔力供給路に手を伸ばした。
「……没収です」
「保存が完了していま——」
ブツン。
画面が消えた。
「朝から……元気だねぇ」
カンナがジークの方を振り返る。
ジークが椅子に深く沈み込み、天井を見上げていた。
「……何してるんですか?」
「……シミとー、対話中」
焦点が合っていない。
瞬きもしない。
「……あー、分裂した」
魂が口から半分出ている。
カンナがジークの腕を引く。
「行きますよ!」
「あ?どこに」
「どこでもいいです!ここじゃないどこかです!」
ドアの先から、レイチェルが顔だけ覗かせる。
「様子を見に来てみれば揃いも揃って……」
呆れたようにため息を漏らす。
「カンナ、このまま休憩に入りなさい。ここの煮詰まった連中も連れて行って。……士気回復も業務のうちよ」
「へいへい、出かけてきますよ。却下された技術顧問は用無しです」
ジークが気だるげに立ち上がる。
三人が廊下へと押し出された。
*
正面玄関。
ちょうど入ってきたライゼルの姿。
三人の異様な空気——殺気立ったカンナ、隈のあるメルシェ、死んだ目のジーク——を見て、ライゼルは足を止めた。
「……何かあったか」
「お、ライゼル。いいところに来たな」
ジークが乾いた笑いを浮かべる。
「被害者の会にようこそ」
殺気立つカンナ。
虚空を見つめるメルシェ。
抜け殻のジーク。
「……重症だな」
ライゼルは短く息を吐き、頷いた。
*
街の大通りから一本入った、石造りの瀟洒な建物。
「ブティック・ラ・フルール」
ショーウィンドウには、季節の流行を取り入れたドレスが飾られている。
レース、リボン、パステルカラー。
戦場とは対極にある、平和と浪費の象徴。
カランコロン。
軽やかなベルの音が鳴る。
「いらっしゃいませ——」
店員の女性が笑顔で出迎えかけ、言葉を詰まらせた。
先頭は、目を輝かせた小柄な可愛らしい少女。
背後には、死んだ魚のような目をした茶髪の青年。
さらに後ろ、氷のような無表情で周囲をスキャンする白銀の美少女。
最後尾は、場違いなほど整った貴公子然とした男性。
「今日は……」
店員の引きつった笑顔。
「はい!友人の服を選びに!」
カンナが元気に答える。
「予算はあります!とびっきり可愛くしてください!」
「お任せください!」
店員がプロの顔に戻った。
だが、その決意は数分で粉砕されることになる。
*
ジークが戦線を離脱した。
「……俺は、あそこの陣地を守る」
「サボらないでください!」
「サボりじゃねぇ。後方支援だ。……何かあったら起こせ。」
ジークは店の隅にある革張りのソファへ倒れ込んだ。
深く沈む体。
天井のシミを見つめ、瞬きを止める。
「もう……!ジークさんは放っておきましょう!」
カンナがぷりぷりと怒り、メルシェの手を引く。
「さあメルシェさん、戦場はこっちです!」
「了解。……索敵を開始します」
メルシェが頷き、陳列棚へ向かった。
その足取りは、魔獣の巣へ踏み込む斥候のように慎重だった。
*
店内中央。
色とりどりの布地が波のように並ぶ。
メルシェは一着のブラウスを手に取り、生地を指先で擦った。
シュッ、シュッ。
乾いた摩擦音。
「お客様、そちらは最新のシルクで——」
店員が説明しようと近づく。
「……摩擦係数が低い。これでは装備のベルトが滑ります。固定具との相性が悪い」
「は、はい……?」
店員が首をかしげる。
メルシェは次の棚へ。
レースのついたスカートを手に取る。
裏地をめくり、縫い目を凝視する。
「縫製強度、不足。激しい跳躍の際、裾が裂ける可能性があります。……スリットの深さは調整可能ですか?」
「ス、スリット? えっと、これはデザインですので……」
「可動域の確保は最優先事項です」
メルシェは真顔で、ハンガーにかかったドレスの袖を引っ張った。
「——このレースの難燃等級は?」
「な、なんねん……?」
「火属性魔法への耐性です。及び、飛来物に対する防御力」
店員の目が泳ぐ。
「え、えっと……こ、こちらはパーティ用ですので……火の粉が飛んでくるような場所での着用は想定しておりませんし、防御力と申されましても……」
「想定が甘いです」
メルシェが断言する。
「いつ何時、火球が飛んでくるとも限りません」
「そ、そうなんですか……!?」
店員が青ざめる。
カンナが慌てて割って入った。
「違います!飛んできません!メルシェさん、服は防御力じゃなくて、可愛さです!」
「可愛さ。定義が不明瞭です」
メルシェが首をかしげる。
「視覚的情報による敵対心の減衰効果、という意味でしょうか」
「うーん……まあ、だいたい合ってますけど!」
カンナは強引に話を戻す。
「いいから着てみてください! これ絶対似合います!」
カンナが持ってきたのは、薄桃色のフリルドレス。
リボンが多数あしらわれ、スカートはふわりと広がるタイプ。
メルシェの氷のような雰囲気を、強制的に甘くする作戦だ。
「……フリル。空気抵抗が増加します」
「いいから!」
カンナが背中を押し、試着室へ放り込む。
シャッ。
カーテンが閉まった。
*
衣擦れの音。
数分後。
「……装着、完了しました」
カーテンの向こうから、くぐもった声。
「開けますよー!」
カンナが期待に満ちた声を上げる。
ソファの死体が、片目だけ開けた。
ライゼルも、棚を見ていた視線を戻す。
シャッ。
カーテンが開く。
「おお……」
店員が感嘆の声を漏らした。
そこには、人形のような美少女。
白銀の髪に、淡いピンクのドレス。
ただただ、可憐な深窓の令嬢。
普段の面影はない。
「すっごい……! メルシェさん、めちゃくちゃ可愛いです!」
カンナが手を叩いて喜ぶ。
「これですよ! このギャップ!」
「……違和感があります」
メルシェは眉をひそめ、自分の腕を見下ろした。
「袖の装飾が視界に入ります。周辺視野の三%が遮断されます」
「気にしないでください!」
「それに……」
メルシェは足元を見た。
ふわりと広がるスカート。
次の瞬間。
ガバッ。
メルシェはスカートの両端を掴み、太ももまで一気にたくし上げた。
「きゃああああ!」
店員が悲鳴を上げ、目を覆う。
メルシェはそのまま、深く腰を落とした。
さらに、重心を左右に激しく移動させる。
「……やはり」
メルシェは息も乱さず、真顔でレポートする。
「スカートの布面積が過剰です。風圧で足捌きが遅れます。また、このフリルは障害物に引っかかるリスクが高いです」
スカートを下ろし、今度は架空の敵を想定して腕を鋭く振った。
ブンッ。
空を切る音。
袖のリボンがバシッと顔に当たる。
「——自滅リスクあり。視界妨害を確認」
店員が口を開けたまま固まっている。
ハンガーを持った手が震えている。
彼女の許容範囲を超えていた。
ソファのジークが、腹を抱えて笑い出した。
「くっ……はははは!おい、あいつに着せると『舞踏会』じゃなくて『武闘会』になるぞ!」
「笑わないでください!」
カンナが叫ぶ。
「メルシェさん、普通に立ってください!普通に!」
「直立不動ですか?」
メルシェが気をつけの姿勢をとる。
軍人の敬礼のような鋭さ。
「……不採用です」
メルシェはカーテンを閉めた。
「撤収能力に支障が出る服は、死装束と同じです」
店員が崩れ落ちそうになるのを、カンナが必死に支えた。
*
その後も、試着という名の「耐久テスト」は続いた。
タイトスカート。
「歩幅が制限されます。緊急時のダッシュ不可」
屈伸して縫い目が悲鳴を上げる音。
却下。
ロングコート。
「裾が長い。階段での転倒リスク増大」
却下。
花柄のワンピース。
「目立ちます。発見リスク大」
却下。
店員の顔から生気が消えていく。
カンナも肩で息をしている。
「……む、難しい。可愛いだけじゃダメなんですね……」
ジークは完全に面白がっている。
「次は鎧でも持ってくるか? それなら文句ねぇだろ」
「戦闘着を買いにきたんじゃありませんっ!」
騒ぎの中、ライゼルはずっと静かだった。
腕を組み、店内の棚をゆっくりと回遊していた。
流行の派手な服には目もくれず、生地の質と仕立てだけを見ている。
ライゼルが立ち止まった。
一着のワンピース。
色は淡い青。
装飾はほとんどない。
襟元に小さな銀のボタンが一つあるだけ。
だが、生地はしっかりとしていて、伸縮性がある。
派手さはないが、品がある。
ライゼルはメルシェの元へと歩み寄った。
「……これを」
メルシェが生地を指先で擦る。
縫い目を確かめる。
裏地を見る。
「……綿と麻の混紡。通気性と耐久性のバランスが良好。ストレッチ素材を含有。可動域への干渉は最小限。装飾なし。視界妨害リスク、ゼロ」
メルシェの目が、分析モードで光る。
「……合理的です」
「試せ」
「了解」
カーテンが閉まる。
*
「装着、完了」
シャッ。
店内が、水を打ったように静まり返った。
派手ではない。
フリルもリボンもない。
けれどメルシェの一部のように馴染んでいた。
彼女の氷のような色素の薄い髪、透き通るような肌。
淡いブルーグレーの生地が、その冷たい美貌を引き立てている。
「おお……」
ジークがソファから起き上がり、目を丸くした。
カンナが口元を押さえる。
「き、綺麗……。お人形さんみたい……」
店員も、今度は安堵と称賛のため息を漏らした。
「お客様の……その、凛とした雰囲気に、とてもお似合いです」
メルシェは鏡の前に立った。
自分の姿を見るのではなく、動きを確認する。
腕を回す。
引っかからない。
軽く屈伸する。
生地が伸びて追従する。
裾を翻す。
足に絡まない。
「……阻害要因、なし」
メルシェが頷く。
「機能性は合格点です。防御力は低いですが、回避行動で補える範囲」
メルシェは振り返り、ライゼルを見た。
沈黙。
店内の空気が、ふっと密度を増す。
「……似合っている」
短く、低い声。
「そう、ですか」
メルシェは瞬きをした。
「……へいへい」
ジークが頭をガシガシと掻き、天井を仰いだ。
「決まり、だな。」
カンナが二人の間を交互に見つめ、顔を赤くして身悶えする。
「……尊い……!」
メルシェはもう一度鏡を見て、服の裾を小さく整えた。
「では、これを購入します」
「はいっ、ありがとうございます!」
店員が今日一番の笑顔でレジへ走った。
手に入れたのは一着の服。
そして、言葉にできない「正解」の空気。
店の外では、夕暮れが街を染め始めていた。
*
手に提げた紙袋が、かさりと鳴る。
ジークが大きく伸びをした。
「あー、よく寝た。腹減ったな。肉食いに行くか」
朝の鬱屈は消えている。
カンナも笑顔に戻っている。
「行きましょう!今日は無礼講です!ジークさんの奢りで!」
「なんでだよ!」
笑い声。
馬車の車輪の音。
夕市の呼び込み。
賑やかな雑踏の中を、四人は歩く。
不意に。
最後尾を歩いていたライゼルが、ピタリと足を止めた。
カンナが気づいて振り返る。
「どうしまし——」
雑踏の一角。
路地の暗がり。
建物の隙間に落ちる、細い闇。
誰も、いない。
いや、そこだけ「音が吸われている」。
路地の奥、不自然なほどの静寂。
だが、ライゼルの目は動かない。
何もない虚空を、射抜くように見つめている。
「……ッ」
ライゼルの右手が剣の鯉口へとかかる。
ジークの顔から、笑みがスッと消えた。
全身の筋肉が収縮し、臨戦の構え。
メルシェが無表情のまま、ライゼルの視線の先へ顔を向ける。
端末には触れない。
己の感覚だけで、索敵する。
数秒の沈黙。
世界が真空になったような、息苦しさ。
雑踏の音だけが、遠い別世界のように流れている。
ふっ。
ライゼルが、力を抜いた。
「……行こう」
彼は視線を外し、そのまま歩き出した。
カンナがきょとんとする。
「そうですか?……あ、早く行かないとお店混んじゃいますよ!お肉行きましょう!」
「ああ」
カンナとライゼルが歩き出す。
残されたメルシェとジーク。
無言で、一瞬だけ顔を見合わせる。
ジークが小さく舌打ちをした。
メルシェが微かに顎を引く。
言葉は交わさない。
二人も再び歩き出した。
「……へいへい、肉だ肉」
「栄養補給は急務です」
四つの背中が遠ざかる。
その足元、夕闇が影を長く、長く伸ばしていた。
路地の奥。
誰もいないはずの闇だけが、じっと彼らを見送っていた。




