59.消された轍(わだち)
師走三日、夕刻。
ギルド会議室。
窓の外で、茜色が群青にゆっくりと飲み込まれていく。
数日前の喧騒はどこにもない。
あるのは冷めきった茶の渋い香りと、インクが紙に乾いていく匂い。
長机の上には、広げられた市街地図。
上にはジークが数日かけて集めたメモ書きが散乱している。
ジークは椅子に深く体を預け、天井を仰いだ。
「……ふぅ」
机の端に残っていた包み紙を弾く。
甘い菓子の残骸が、乾いた音を立ててゴミ箱へと吸い込まれた。
「鶏だの恋バナだので騒がしい数日だったが」
声の温度が、一段落ちる。
「裏の方も、きっちり洗ってきたぜ」
窓際に立っていたライゼルが、振り返る。
逆光で表情は見えない。
「……報告を」
「先日掴んだ『煙』の件」
ジークは散乱したメモの山を、顎で示した。
「港の噂。宿の目撃談。路地裏の証言。あれから金主や出処をさらに追ってみたが……」
一枚、また一枚と紙を指で弾く。
「金で雇われたゴロツキ共も、指示役の顔すら知らねぇときた」
「つまり尻尾は掴めなかった、ということか」
「逆だ、ライゼル」
ジークは口の端を歪めた。
「尻尾しかねぇんだよ。この数日、埃が出るまで叩いたが……出てきたのは『虚像』だけだ」
低く、吐き捨てる。
「本体はいねぇ」
「……なるほど」
ライゼルの目が、わずかに細まる。
「街中に溢れていた目撃情報は、すべて囮だったか」
視線が、地図へと落ちる。
「ああ。捜査の目を散らすための、時間稼ぎだな」
「街を洗って、出ないなら」
ライゼルの指が地図を滑る。
一つ、また一つ。
門を弾き、一本の線で止まる。
「……外だ」
「同感です」
メルシェが端末を起動する。
淡い光が、薄暗い室内に青白く滲んだ。
「街への潜伏は確認できません。東西南北、正規の門にも該当する通過記録は存在しません」
視線を落としたまま、淡々と続ける。
「先日の調査結果と照合済みです」
指先が地図の上を滑る。
東門、西門、南門――すべてに「×」の印。
残る空白は一箇所。
「残る可能性は……」
ライゼルが、一点を指し示す。
北門。
「あの日、北門は『資材搬入』の名目で閉鎖されていた。警備の目は、門の外ではなく内側の作業に向いていたはずだ」
メルシェが小さく頷く。
定規を当てるように、北門の脇から伸びる細い線をなぞった。
「警備の死角。それから、搬入作業による騒音。人目を避けて抜けるなら……このルートが最適解です」
指が止まった先には、地図上では途切れている「旧街道」の道。
今は封鎖され、森に飲まれかけた獣道。
「消去法、という形になりますが」
そう前置きしてから、メルシェは端末を閉じる。
パタン。
硬質な音が、室内に残った。
ジークが椅子を蹴って立ち上がる。
「へっ。ようやく、手応えってやつか」
ライゼルが外套を翻した。
「行くぞ。……煙の向こう側へ」
三つの影が、廊下へ滑り出す。
群青に沈む通路の先には、まだ何も見えない。
ただ、夜の気配だけが、静かに待っていた。
*
街の北外れ。
封鎖された旧街道。
森の入り口に立った瞬間、空気が変わった。
冷たい。
湿っている。
音が、ない。
風が止まり、草の匂いだけが濃く残る。
「……おい」
殿のジークが声を落とした。
剣の柄に手を掛けたまま、周囲を見回す。
「静かすぎねぇか。虫の音もしねぇ」
「ああ」
先行していたライゼルが足を止める。
鳥の声はない。
ただ、踏みしめた下草が微かに鳴るだけだ。
一見すれば、誰も通っていない獣道。
草は伸び、枝も折れていない。
ライゼルは屈み込み、地面に指を伸ばした。
小石を一つ拾い、親指で潰す。
ぱき、と乾いた音。
「……石だけが砕かれている」
顔を上げ、道の幅をなぞるように視線を走らせる。
「枝は無事だ。下草も寝ていない。だが――」
立ち上がり、短く息を吐いた。
「道がないんじゃない。……消された」
ジークが眉を寄せる。
「消された?」
「『撤収の作法』だ」
淡々と告げる。
「部隊が通った後、痕跡を後ろから潰していく。通った事実だけを、残さないやり方だ」
メルシェが一歩前に出て、屈んだ。
土をすくい、指の腹で擦り合わせる。
さらさらと指の間から落ちた。
「……均一です」
端末の光を当てる。
「粒子のサイズ、配列。深さ三十センチまで誤差ゼロ。 自然現象ではありません。——整地されています」
立ち上がり、手を払った。
「物理的な処理ではありません。
人為的に、配列が変えられています」
ジークが鼻を鳴らす。
「シャベルじゃねぇってことか」
メルシェは答えず、足元の土を踏みしめた。
ぐ、と沈む感触。
「……微量ですが、残滓があります。属性は特定できません」
ライゼルが森の奥を見る。
闇が、道を飲み込んでいる。
メルシェが端末を取り出し、光量を落として地面を照らす。
均された土の下。
わずかに盛り上がる、二本の線。
「……圧力痕」
指先でなぞる。
「重量級の車両。複数台分です」
「轍か」
ライゼルが即座に応じる。
「ええ。隠蔽層の下に、残っています」
沈黙。
森の奥から、冷たい風が吹き抜けた。
葉擦れの音が、一瞬だけ戻る。
ジークが、低く息を吐いた。
「行き当たりばったりの逃走じゃねぇな」
メルシェが、足元の地面を見る。
「……逃げ道は、最初から用意されていたと見るべきです」
ライゼルは、しばらく黙って森の奥を見ていた。
視線だけで、道の先をなぞる。
「ここまで整っている。……背後がいる、って線は固そうだな」
ライゼルが呟く。
「へっ、ようやく本丸の尻尾が見えてきたじゃねぇか」
ジークが口の端を吊り上げ、暗い森を睨み返した。
風が木々を揺らす。
ざわざわと、森が鳴り始めた。
*
隠蔽工作は、森の深部で唐突に途絶えた。
そこから先、地面には深い轍が刻まれている。
「……もう隠す必要はない、ということか」
ライゼルが轍の先を見据える。
「北だ」
木々の切れ間。
先には険しい山脈の黒い影。
「国境の山脈。……越えれば、隣国だ」
メルシェが地図を開く。
現在地から、轍の延長線をなぞる。
「関所を避けています。……正規の手続きを経ない獣道」
「高飛びかよ」
ジークが忌々しげに舌打ちをする。
「偽物の故郷へお帰りってわけか」
森の奥、見えない闇の先を、じっと見据える。
「……行くか?」
ジークが剣の鯉口を切り、問う。
ライゼルは、しばらく轍を見ていた。
深さ。幅。続き方。
「いや」
風が吹き抜け、ライゼルの金髪を揺らす。
ジークが眉を上げる。
「追わねぇのか」
「……国境を越えた瞬間、立場が逆になる。追う側じゃなく、侵入者だ」
「……チッ」
ジークが剣を戻す。
カチリ、と鍔鳴りの音が響いた。
メルシェは何も言わず、地図を閉じた。
端末の光が消え、森が闇に戻る。
背後で、風が木々を揺らした。
ざわり、と葉擦れの音が走る。
森が、何かを隠すように。
あるいは、見送るように。
三人は振り返らず、街へと歩き出した。
轍だけが、北へと続いている。
*
舗装されていない旧街道に三つの影。
月は雲に隠れ、足元は悪い。
靴底が土を噛む音だけが、等間隔に響く。
「……待て」
先頭を歩いていたライゼルが、不意に足を止めた。
音もなく、腰の剣に手が掛かる。
ジークとメルシェも即座に停止。
呼吸を殺す。
「どうした」
ジークが低く問う。
ライゼルは動かない。
「……いるな」
視線だけが、街道脇の深い闇——木々が密集する森の一点を射抜いていた。
「……視線を感じる」
暗闇の奥、何も見えない虚空を凝視している。
「敵か?」
ジークが眉を寄せ、周囲を探る。
風の音。草の匂い。
気配らしきものは、物理的には感じられない。
ライゼルは剣の柄から、ゆっくりと指を離した。
「殺気はない……か」
独り言のように呟く。
敵意ではない。
獲物を狙う獣の目でもない。
ただ、観察されている。
冷たく、無機質な何かが、こちらの動きを記録しているような感覚。
メルシェが端末を掲げ、周囲をスキャンする。
淡い光が森の縁をなぞった。
「熱源反応なし。マナ残滓、検出限界以下。……物理的な監視者は確認できません」
「……気のせいか」
ライゼルは短く息を吐き、歩き出した。
背中には微かな緊張が張り付いている。
ジークは森の闇を一瞥し、鼻を鳴らした。
「お前の勘だ。何かいるんだろうよ」
「警戒は怠るな」
「おうよ」
足音が再開する。
三人の背後で、風が止まった森が、じっと沈黙していた。




