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53.港の噂

裏路地の酒場は、昼でも薄暗い。

窓は煤け、隙間風に煙草の煙が流れる。

床は湿り、どこかで酒をこぼした匂いが鼻を突く。


ジークが扉を押し開けた。

ざわつく視線が一瞬だけ集まる。

だが誰も長くは見ない。


「よぉ」

気取らない調子で声を掛け、ジークは奥へ向かった。

すでに一人の男が腰を下ろしている。


痩せぎすで、背は丸まっている。

擦り切れた外套、やつれた顔。——目だけが妙に鋭い。


ジークはためらいなく対面に腰を下ろした。

椅子が軋み、重みを受け止める音が響く。

「待たせたか?」


男は肩をすくめただけで答えない。

代わりに、卓上の杯を指先で軽く回した。

淡い酒の液面が揺れる。

映る二人の影が波紋で歪んだ。


「……商品は出ないままか」

ジークの声は低く抑えられていた。


情報屋はゆっくりと目を細めた。

しばらく沈黙したのちに口を開いた。

「——出てねぇ」


ジークは眉をひそめる。

「影も形もなし、か」


「普通なら、入れ替えた品は流れる。だが正規の市場筋も、裏の抜け道も。……痕跡はゼロだ」

情報屋は杯を傾け、乾いた喉を湿らせた。

「まるで——誰かが意図的に封じてるみてぇだ」


ジークは鼻で笑い、杯をあおる。

「だったら話は早ぇ。誰かが隠してるってことだ」


情報屋の目がかすかに細まる。

「奴等に後ろが、いると?」


「当たり前だろ」

ジークは卓を軽く叩いた。

「三人がいきなり消えて、足跡も品も全部かき消えた。そんな芸当、下っ端にゃできねぇ」


男はしばし沈黙し、かすかに笑った。

「行方を追うほど、牙を剥かれるかもしれねぇ」


ジークは肩を揺らし、笑みを深めた。

「なら剥かせりゃいい。上等だ」


酒場の奥で誰かが大声をあげた。

その笑い声が、妙に乾いて響いた。



酒場のざわめきに紛れて、二人の会話は続いた。

ジークが杯を傾け、安酒を一気に喉に流し込む。

喉の奥に焼けつくような熱さが広がるが、顔色ひとつ変えない。


「で? 三人の足取りは、本当にゼロかよ」

笑い交じりに問いかける声。

だが、その眼差しだけは鋭い。


男はゆっくり杯を傾け、唇を湿らせる。


「……まぁ、何もねぇって言うのも味気ねぇな」

声はかすれているのに、不自然に澄んでいた。


ジークは眉を上げる。

「小ネタくらい出せるだろ。タダ酒飲ませてんじゃねぇんだ」


男はわざと間を置き、杯を指でなぞる。

「数日前、一人を見たって話はある」


ジークの眉がわずかに動いた。

「おいおい、それを先に出せよ」


「言っても、噂だ。港の裏通りで、荷運びの連中とつるんでたってさ。……だが、誰も顔をはっきり覚えちゃいねぇ。酒の匂いの中での話だ。酔っ払いの目撃談なんざ、眉唾だろ」


ジークは豪快に笑い声を上げた。

「ははっ! そりゃ確かに、酔っ払いの言葉は宛てにならねぇ!」

杯をどんと卓に叩きつける。


周囲の常連が「うるせぇぞ」と振り返るが、すぐにまた笑いに戻っていく。

ジークは意に介さず、煙に燻された天井を仰いだ。


ジークは腕を組み、大きく背もたれに寄りかかった。

笑みは崩さない。

だが心の奥では、笑ってはいなかった。


——わざと煙を残していやがる。


痕跡ゼロなら完全に消えた話になる。

けれど、「誰かが見た」と曖昧な証言が転がっている。


港の裏通り、荷運び。

それは偶然かもしれない。

だが、偶然にしては“都合がよすぎる”。


ジークは杯を傾け直し、安酒をぐびりと呑んだ。

舌に苦味が残る。

表情は相変わらず豪放。

けれど、拳は卓の下でゆっくり握られていた。


「……んで、その噂、誰から聞いた」

笑みを崩さぬまま問いを重ねる。


情報屋は目を細めた。

「さぁな。酒場で拾った噂は、誰が最初に言ったかなんざ辿れやしねぇよ」


ジークは肩を揺らし、にやりと笑う。

「だよなぁ。尻尾見せる奴なんざいねぇ」

鼻で笑い、酒を追加で頼んだ。


新しいジョッキが卓に置かれる。

泡が弾け、じわりと流れる。

ジークは一息で飲み干し、大げさに口を拭った。

「結局よ、今出せるのはそれだけか?」


情報屋は肩をすくめる。

「港の裏、宿屋の裏庭、博打場の帳場。……探ったが、足取りはなし。噂ひとつ拾うのもやっとだ」


ジークは豪快に笑い飛ばす。

「だったら、ひとまずそのネタ追うしかねぇな」


(……カイルや坊主には、まだ言わねぇ)


ティモの蒼白な顔を思い出す。

酒場で頭を下げ続け、肩を震わせていた若い背中。

「次はない」と告げられても唇を噛み、必死に言葉を絞り出していた姿。


カイルは冷静に処理するだろうが、それでも「根拠薄弱」と切ってしまえば、噂の価値はゼロになる。


確証を掴むまでは、自分の胸にしまっておく。

そう決めて、ジークは卓を指で軽く叩いた。


杯を飲み干し、どんと卓に叩きつけた。

「よし、情報代だ。足りなきゃ次は拳で払うぜ」


「物騒だな」

男は細く笑い、差し出された銀貨を掴んだ。

「また来い。次は、煙が濃くなってるかもしれん」


「そのときゃ火事場だな」

ジークは立ち上がり、外套を翻す。


裏路地の冷気が、酒場の熱を一気に奪った。

ジークは息を吐き、笑みを深める。


石畳に、重い靴音が響いた。



港は喧しい。

波が石の岸壁を叩き、魚の匂いが潮風に混ざって鼻をつく。

荷運び人たちの怒鳴り声が飛び交い、台車の車輪が石畳を軋ませていた。

マストにはカモメが数羽止まり、船乗りの残飯を狙って甲高く鳴いている。


ジークは外套の裾を踏まれそうになりながら、人混みを縫って歩いた。

人の肩と肩がぶつかり、汗と塩と酒の匂いが混じる。

ざらついた空気の中でも、耳だけは澄ませていた。


ジークは肩をすくめ、煙草を口に咥えた。

火をつけずに噛んだまま、周囲を睨む。

「さて……煙の根っこは、ここか」


馴染みの荷運びが声を掛けてきた。

「おいジーク、珍しいな。ギルドの仕事か?」


「まぁな」

ジークは軽く顎をしゃくる。

「黒髪の大男を見なかったか。数日前、この辺で」


男は眉を寄せ、首を傾げた。

「黒髪……でかいのは多いぞ。港はそんなのばっかだ」


別の若い運搬手が口を挟む。

「俺、見たかもしれねぇ。夜、裏通りで……」


ジークの視線が鋭く刺さる。

「……続けろ」


若い運搬手は慌てて両手を振った。

「いや、酒が入っててよ。本当に人だったかも怪しい」


「酔っ払いの見間違い、か」

ジークは鼻で笑い、煙草を指で転がした。


そこへ別の声が割り込む。

「俺も聞いたぜ。黒髪の大男、港の倉庫の影で何かしてたって」


「見たんじゃなく、聞いたのか」

「そうだ。船乗り仲間からな。……ただ、顔までは誰も覚えちゃいねぇ」


違う口から黒髪の大男が出る。

証言はどれも曖昧。

「人から聞いた」「誰かが言ってた」「そういう噂を耳にした」——その繰り返し。

曖昧な証言が積み重なっていく。


ジークは肩を揺らして笑った。

「なるほどな。誰も見ちゃいねぇのに、話題にはなってんだな」


荷運びの若い衆が首を傾げる。

「いや、本当に見たって話もあった気がするんすけど……誰だったか、忘れちまって」


「忘れた、ねぇ」

ジークは鼻で笑い、銀貨を弾いた。

「お前ら、誰も自分の目で見ちゃいねぇんだろ」


返るのは曖昧な笑いだけ。

視線は逸らされ、誰も核心を語らない。


港のざわめきに、ジークは煙の匂いを感じた。

——意図的に流された話。

出所不明のまま広げられる噂は、火種よりも煙の色が濃い。


鐘が鳴り、新しい船が入港する。

荷車の音と掛け声が一段と強くなり、人混みが波のように揺れる。


港の喧騒を背に、ジークは踵を返す。



港の喧騒を背に、ジークは裏路地を歩く。

(煙だけ広がってる。……誰かが焚いてやがる)


そんなとき、背後から低い声。

「……ジーク」


振り返ると、片目に古傷を持つ老船乗り。


「珍しいな。あんたがここまで来るとは」

ジークは笑って肩を竦める。


「昔の借りを返しに来ただけだ」

老人が近づき、声を潜める。

「黒髪の大男を見た、なんて話が出てるがな……あれは流された噂だ。俺の仲間にも“見たと言ってくれ”と金を握らされた奴がいた」


ジークの目が細まる。

「やっぱりか。……誰に?」


「顔は隠されてた。だが、港で仕切ってる連中じゃねぇ。」

老人は首を振る。

「放っておきゃ、港じゅうで見たって話が勝手に増えるだろうさ」


ジークはしばし沈黙したのち、低く笑った。

「……やっぱりな。煙ばら撒く奴がいやがったか」


ジークはしばらく黙り、鼻で笑った。

「恩返しにゃ十分だ。……礼はする」


老人は片手を振り、背を丸めて去っていく。

その背中を見送りながら、ジークは外套を翻した。


(痕跡を消す奴と、煙を焚く奴。……二手同時か。下っ端三人の後ろには、やっぱりデカい影がいるな)


笑みは崩さない。

けれど拳は、外套の下で硬く握られていた。


——次に追うのは、“煙を焚いた手”だ。

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