表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
52/58

52.誠実さは武器

霜月二十九日の朝。

冷たい空気を切り裂くように、馬車の車輪が石畳をがたごとと鳴らしていた。


車内にはカイルとティモの二人。

窓から差し込む光が、揺れる帳面の上に淡く落ちている。


ティモは膝に帳面を抱え込んだまま、何度もページをめくり返していた。

「……昨日まとめた要点、繰り返し読んでます。けど……やっぱり緊張します」

声はわずかに震えている。


カイルは隣で静かに背を伸ばす。

黒い外套の襟を整えながら淡々と答える。

「緊張は自然なことです。——ただ、必要以上に萎縮するのは相手に失礼です」


「……失礼、ですか」

ティモが目を瞬かせる。


「ええ。今日の巡回は誠意を伝える場です。こちらが委縮すれば、相手は『隠し立てしているのではないか』と疑うでしょう。落ち着いた姿勢で臨むことこそが誠意になる」


ティモは小さく息を吐いた。

「……はい。でも、取引を切られるかもしれないと思うと……」


「恐れるのは当然です。しかし」

カイルは窓の外へ目をやり、静かに続ける。

「失敗を恐れて口を閉ざすよりも、誠実に言葉を尽くした方が、まだ繋がる可能性がある。

——それが謝罪巡回です」


ティモは拳を握りしめ、俯いていた顔を少しだけ上げた。

「……必ず、誠意を伝えます」


「その意気で十分です」

カイルの声は穏やかで、しかし凛としていた。


馬車は角を曲がり、最初の取引先がある街路へと進んでいった。



馬車が停まったのは、大通りから少し外れた細い路地。

木製の看板に小さな茶葉の紋章が刻まれた、こじんまりとした店。


扉を押し開けると、乾いた木の香りとともに、茶葉の柔らかな香気が鼻をかすめた。

棚には麻袋が整然と並び、奥からは湯を沸かす音が微かに響いている。


「これはこれは……」

年配の店主が現れる。

丸めた背を支えるように両手を腰に当て、それでも笑みを絶やさない穏やかな人柄が滲んでいた。


「商会のお二人が、直々に足を運んでくださるとは」


カイルが即座に一歩進み、深く礼を取った。

「お手数をおかけしております。——先日の納品分について、入れ替えの疑いが生じました。こちらに代替品を持参いたしましたので、交換をお願いしたく参上しました」


ティモも慌てて帳面を抱え直し、頭を下げる。

「……ご迷惑を、本当に申し訳ありません。今回は検品の段階で見抜けなかった私たちの落ち度です。必ず改善します」


店主は驚いたように目を丸くしたが、やがて頷いた。

「実はね、常連から“香りが薄い”と言われて困っていたんだ。今年は天候も悪くなかったのに……と首を傾げていたところでね」


カイルは表情を崩さず、深く頭を下げる。

「その通りです。お客様にご迷惑をおかけしたこと、重ねてお詫び申し上げます。どうか、代替の正規品をお試しください」


ティモは急いで麻袋を差し出した。

縫い目は均一で、刻印も鮮明。

店主はその場で袋の口を開き、ひとつまみを取り出して湯に落とした。


ふわりと立ち上る蒸気。

香りは濃く、甘みを帯びた芳香が室内に広がる。


店主は湯呑を口に含み、静かに瞼を閉じた。

やがて深く息を吐き、口角を上げる。

「……ああ、これだ。香りが戻った」


そのひと言に、ティモの胸が一気に解けた。

「よ、よかった……」


店主は笑い皺を深くし、二人に視線を戻す。

「『商会が誠実に対応してくれた』と話せば、皆も納得してくれるだろう」


カイルは深く一礼した。

「ご理解に感謝いたします。今後はこのようなことが二度と起きぬよう、体制を再構築いたします」


ティモも強く頷いた。

「必ず改善します。……本当に、ありがとうございます」


店主は穏やかに手を振った。

「いいんだよ。人のやることに完璧はない。大事なのは、その後どうするかだ」


柔らかな声。

けれどティモの胸の奥に、小さな棘が残った。


——“助かったよ”。

その言葉に確かに安堵はした。

だが同時に、「これで許されたわけじゃない」とも思った。

信頼を取り戻すには、もっと長い時間と行動が必要なのだ。


ティモは帳面を閉じ、深く頭を下げた。


店を出ると、風が二人の頬を撫でた。


ティモの表情はまだ硬かい。

しかし握り締めた拳は震えていなかった。


石畳の通りを抜け、馬車が止まったのは、大通りの角にある大きな茶屋。

暖簾は年季を帯び、軒先には古びた木の看板。

立ち止まる客は多く、名の知れた老舗であることがひと目で分かる。


ティモは胸の前で帳面を握りしめ、喉を鳴らした。

「……ここは、街でも指折りの老舗です。常連も多くて、影響力が大きい。……もし契約を失えば」


「だからこそ、誠意を示す」

カイルの声は落ち着いていた。

「焦らず、丁寧に」


扉を押すと、香ばしい茶の香りが鼻を打った。

磨き込まれた床、きちんと整えられた棚。

店の奥から現れたのは、白髪混じりの厳めしい男だった。

深く刻まれた皺が、そのまま歴史の重みを示しているようだった。


「……ローゼン商会か」

低い声が落ちた。

「来るのが遅かったな」


ティモは即座に深く頭を下げた。

「ご迷惑をおかけして……申し訳ありません!」


しかし、店主の視線は冷ややかだった。

「迷惑どころか、客を失いかけた。『味が落ちた』と言っていたのに、……商会は何をしていた」


ティモの頬から血の気が引いた。

「……それは、僕たちの確認不足で——」


「言い訳はいらん」

店主の声が鋭く遮る。

「もう別の商会が話を持ってきている。あちらは検品体制を強化済みだと明言していた。正直、乗り換えた方が安心できる」


ティモの手が小さく震えた。

帳面を抱える腕に力を込めても、揺れは止まらない。

「……そんな……」


言葉を失うティモの横で、カイルが一歩前に出た。

「確かに、ご不安はごもっともです」

落ち着いた声音。

感情を乱さず、相手の視線を正面から受け止める。

「ですが、契約を切ることは——御店にとっても損となるはずです」


店主の目が細まった。

「どういう意味だ」


「我々ローゼンは、この街での流通基盤を長年にわたり担ってまいりました。納期の安定性、品種の幅、価格調整力。すぐに別商会へ切り替えれば、必ず穴が生じます」

カイルの声は低く、だが力強かった。

「短期的には安心を得られるかもしれません。ですが、長期的に見れば支障と追加負担” が発生するでしょう」


老店主の眉が動いた。

「……脅しか?」


「いいえ」

カイルは即座に否定した。

「事実です。そして、同じ事を繰り返さぬために、私たちはすでに対策を始めています」


ティモは俯きながらも、必死に声を絞り出した。

「封印の二重化、承認の二人制、帳票の照合……現場で必ず実行します。今後は絶対に、このようなことを起こしません!」


声は震えていたが、真剣さがにじんでいた。


老店主はしばし無言のまま二人を見据えた。

やがて大きく息を吐き、腕を組む。

「……誠意は分かった。だが信用は一度落ちれば戻らん」


「承知しております」

カイルが深く頭を下げる。


「次はない」

店主の声は重く、石のように固かった。

「次に一度でも同じことがあれば、容赦なく契約を切る。それを肝に銘じろ」


ティモは両手で帳面を握りしめ、深く頭を下げた。

「必ず、改善します。……二度と、ご迷惑はかけません」


老店主はわずかに視線を外し、短く吐き捨てた。

「言葉ではなく、行動で示せ」


店を出ると、冷たい風が二人を迎えた。

ティモの肩はまだ震えていたが、その眼差しには諦めではなく、必死な決意が宿り始めていた。


「……次はない」

その言葉が、重石のように胸に刻まれていた。



ティモは帳面を抱きしめたまま、深くうつむく。


「……僕は、全然だめでした」

吐き出す声は掠れていた。

「言葉が震えて、店主に押されて……結局、カイルさんに助けてもらっただけで……」


カイルは歩みを緩め、穏やかな声で返す。

「そうは思いません」


ティモは驚いたように顔を上げた。

「え……」


「あなたの言葉がなければ、切られていたでしょう」

カイルの黒い瞳は静かに光を宿していた。

「誠実さは、理屈よりも強いときがある。店主は“次はない”と言いましたが……それは、あなたの真剣さを見たからこその条件です」


ティモの唇がわずかに震える。

「……僕の、誠実さ……」


「武器になります」

カイルははっきりと告げる。

「取り繕うより、誠実に向き合う方が、最後には信用を繋ぎ止める。あなたにはそれができる」


ティモは胸の奥が少し温かくなるのを感じ、強く頷いた。

「……僕、もっと、誠実さで返していきます」


カイルは小さく笑みを浮かべた。

「ええ。それが、あなたの役割です」



巡回を終えた二人は、馬車に揺られながら帰路についた。

夕陽が街の屋根を赤く染め、車輪の音が石畳に響く。


ティモは窓の外を見つめながら、拳を握った。

「……僕は、まだ足りません。でも、誠実さだけは絶対に失いません。次に会うときは、必ず“改善した”って胸を張って言えるようにします」


その声は小さいが、確かな力があった。


カイルは静かに頷く。

「それでいい。あなたの言葉には、必ず重みが宿る」


ふと、カイルは視線を落とす。

老舗の店主が口にした言葉が、耳に残っていた。


——「もう別の商会が話を持ってきた」


偶然か、意図的か。

取引先に先んじて接触していた“別商会”。


「……競合の動き、か」

カイルの心の中で低い独白が漏れる。


ティモはまだ気づかない。

だが確かに、盤面の外から仕掛ける者が存在する。


馬車は大通りへと入り、夕刻の喧噪が近づいてくる。

ティモは胸の内で繰り返した。

——「誠実さで返す」


その小さな決意が、やがて重い壁にぶつかるときが来る。


カイルは薄く目を閉じ、静かに思う。

「信用を守る戦いは、始まったばかりだ」


夕陽が沈み、街に夜の影が落ち始めていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ