52.誠実さは武器
霜月二十九日の朝。
冷たい空気を切り裂くように、馬車の車輪が石畳をがたごとと鳴らしていた。
車内にはカイルとティモの二人。
窓から差し込む光が、揺れる帳面の上に淡く落ちている。
ティモは膝に帳面を抱え込んだまま、何度もページをめくり返していた。
「……昨日まとめた要点、繰り返し読んでます。けど……やっぱり緊張します」
声はわずかに震えている。
カイルは隣で静かに背を伸ばす。
黒い外套の襟を整えながら淡々と答える。
「緊張は自然なことです。——ただ、必要以上に萎縮するのは相手に失礼です」
「……失礼、ですか」
ティモが目を瞬かせる。
「ええ。今日の巡回は誠意を伝える場です。こちらが委縮すれば、相手は『隠し立てしているのではないか』と疑うでしょう。落ち着いた姿勢で臨むことこそが誠意になる」
ティモは小さく息を吐いた。
「……はい。でも、取引を切られるかもしれないと思うと……」
「恐れるのは当然です。しかし」
カイルは窓の外へ目をやり、静かに続ける。
「失敗を恐れて口を閉ざすよりも、誠実に言葉を尽くした方が、まだ繋がる可能性がある。
——それが謝罪巡回です」
ティモは拳を握りしめ、俯いていた顔を少しだけ上げた。
「……必ず、誠意を伝えます」
「その意気で十分です」
カイルの声は穏やかで、しかし凛としていた。
馬車は角を曲がり、最初の取引先がある街路へと進んでいった。
*
馬車が停まったのは、大通りから少し外れた細い路地。
木製の看板に小さな茶葉の紋章が刻まれた、こじんまりとした店。
扉を押し開けると、乾いた木の香りとともに、茶葉の柔らかな香気が鼻をかすめた。
棚には麻袋が整然と並び、奥からは湯を沸かす音が微かに響いている。
「これはこれは……」
年配の店主が現れる。
丸めた背を支えるように両手を腰に当て、それでも笑みを絶やさない穏やかな人柄が滲んでいた。
「商会のお二人が、直々に足を運んでくださるとは」
カイルが即座に一歩進み、深く礼を取った。
「お手数をおかけしております。——先日の納品分について、入れ替えの疑いが生じました。こちらに代替品を持参いたしましたので、交換をお願いしたく参上しました」
ティモも慌てて帳面を抱え直し、頭を下げる。
「……ご迷惑を、本当に申し訳ありません。今回は検品の段階で見抜けなかった私たちの落ち度です。必ず改善します」
店主は驚いたように目を丸くしたが、やがて頷いた。
「実はね、常連から“香りが薄い”と言われて困っていたんだ。今年は天候も悪くなかったのに……と首を傾げていたところでね」
カイルは表情を崩さず、深く頭を下げる。
「その通りです。お客様にご迷惑をおかけしたこと、重ねてお詫び申し上げます。どうか、代替の正規品をお試しください」
ティモは急いで麻袋を差し出した。
縫い目は均一で、刻印も鮮明。
店主はその場で袋の口を開き、ひとつまみを取り出して湯に落とした。
ふわりと立ち上る蒸気。
香りは濃く、甘みを帯びた芳香が室内に広がる。
店主は湯呑を口に含み、静かに瞼を閉じた。
やがて深く息を吐き、口角を上げる。
「……ああ、これだ。香りが戻った」
そのひと言に、ティモの胸が一気に解けた。
「よ、よかった……」
店主は笑い皺を深くし、二人に視線を戻す。
「『商会が誠実に対応してくれた』と話せば、皆も納得してくれるだろう」
カイルは深く一礼した。
「ご理解に感謝いたします。今後はこのようなことが二度と起きぬよう、体制を再構築いたします」
ティモも強く頷いた。
「必ず改善します。……本当に、ありがとうございます」
店主は穏やかに手を振った。
「いいんだよ。人のやることに完璧はない。大事なのは、その後どうするかだ」
柔らかな声。
けれどティモの胸の奥に、小さな棘が残った。
——“助かったよ”。
その言葉に確かに安堵はした。
だが同時に、「これで許されたわけじゃない」とも思った。
信頼を取り戻すには、もっと長い時間と行動が必要なのだ。
ティモは帳面を閉じ、深く頭を下げた。
店を出ると、風が二人の頬を撫でた。
ティモの表情はまだ硬かい。
しかし握り締めた拳は震えていなかった。
石畳の通りを抜け、馬車が止まったのは、大通りの角にある大きな茶屋。
暖簾は年季を帯び、軒先には古びた木の看板。
立ち止まる客は多く、名の知れた老舗であることがひと目で分かる。
ティモは胸の前で帳面を握りしめ、喉を鳴らした。
「……ここは、街でも指折りの老舗です。常連も多くて、影響力が大きい。……もし契約を失えば」
「だからこそ、誠意を示す」
カイルの声は落ち着いていた。
「焦らず、丁寧に」
扉を押すと、香ばしい茶の香りが鼻を打った。
磨き込まれた床、きちんと整えられた棚。
店の奥から現れたのは、白髪混じりの厳めしい男だった。
深く刻まれた皺が、そのまま歴史の重みを示しているようだった。
「……ローゼン商会か」
低い声が落ちた。
「来るのが遅かったな」
ティモは即座に深く頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして……申し訳ありません!」
しかし、店主の視線は冷ややかだった。
「迷惑どころか、客を失いかけた。『味が落ちた』と言っていたのに、……商会は何をしていた」
ティモの頬から血の気が引いた。
「……それは、僕たちの確認不足で——」
「言い訳はいらん」
店主の声が鋭く遮る。
「もう別の商会が話を持ってきている。あちらは検品体制を強化済みだと明言していた。正直、乗り換えた方が安心できる」
ティモの手が小さく震えた。
帳面を抱える腕に力を込めても、揺れは止まらない。
「……そんな……」
言葉を失うティモの横で、カイルが一歩前に出た。
「確かに、ご不安はごもっともです」
落ち着いた声音。
感情を乱さず、相手の視線を正面から受け止める。
「ですが、契約を切ることは——御店にとっても損となるはずです」
店主の目が細まった。
「どういう意味だ」
「我々ローゼンは、この街での流通基盤を長年にわたり担ってまいりました。納期の安定性、品種の幅、価格調整力。すぐに別商会へ切り替えれば、必ず穴が生じます」
カイルの声は低く、だが力強かった。
「短期的には安心を得られるかもしれません。ですが、長期的に見れば支障と追加負担” が発生するでしょう」
老店主の眉が動いた。
「……脅しか?」
「いいえ」
カイルは即座に否定した。
「事実です。そして、同じ事を繰り返さぬために、私たちはすでに対策を始めています」
ティモは俯きながらも、必死に声を絞り出した。
「封印の二重化、承認の二人制、帳票の照合……現場で必ず実行します。今後は絶対に、このようなことを起こしません!」
声は震えていたが、真剣さがにじんでいた。
老店主はしばし無言のまま二人を見据えた。
やがて大きく息を吐き、腕を組む。
「……誠意は分かった。だが信用は一度落ちれば戻らん」
「承知しております」
カイルが深く頭を下げる。
「次はない」
店主の声は重く、石のように固かった。
「次に一度でも同じことがあれば、容赦なく契約を切る。それを肝に銘じろ」
ティモは両手で帳面を握りしめ、深く頭を下げた。
「必ず、改善します。……二度と、ご迷惑はかけません」
老店主はわずかに視線を外し、短く吐き捨てた。
「言葉ではなく、行動で示せ」
店を出ると、冷たい風が二人を迎えた。
ティモの肩はまだ震えていたが、その眼差しには諦めではなく、必死な決意が宿り始めていた。
「……次はない」
その言葉が、重石のように胸に刻まれていた。
*
ティモは帳面を抱きしめたまま、深くうつむく。
「……僕は、全然だめでした」
吐き出す声は掠れていた。
「言葉が震えて、店主に押されて……結局、カイルさんに助けてもらっただけで……」
カイルは歩みを緩め、穏やかな声で返す。
「そうは思いません」
ティモは驚いたように顔を上げた。
「え……」
「あなたの言葉がなければ、切られていたでしょう」
カイルの黒い瞳は静かに光を宿していた。
「誠実さは、理屈よりも強いときがある。店主は“次はない”と言いましたが……それは、あなたの真剣さを見たからこその条件です」
ティモの唇がわずかに震える。
「……僕の、誠実さ……」
「武器になります」
カイルははっきりと告げる。
「取り繕うより、誠実に向き合う方が、最後には信用を繋ぎ止める。あなたにはそれができる」
ティモは胸の奥が少し温かくなるのを感じ、強く頷いた。
「……僕、もっと、誠実さで返していきます」
カイルは小さく笑みを浮かべた。
「ええ。それが、あなたの役割です」
*
巡回を終えた二人は、馬車に揺られながら帰路についた。
夕陽が街の屋根を赤く染め、車輪の音が石畳に響く。
ティモは窓の外を見つめながら、拳を握った。
「……僕は、まだ足りません。でも、誠実さだけは絶対に失いません。次に会うときは、必ず“改善した”って胸を張って言えるようにします」
その声は小さいが、確かな力があった。
カイルは静かに頷く。
「それでいい。あなたの言葉には、必ず重みが宿る」
ふと、カイルは視線を落とす。
老舗の店主が口にした言葉が、耳に残っていた。
——「もう別の商会が話を持ってきた」
偶然か、意図的か。
取引先に先んじて接触していた“別商会”。
「……競合の動き、か」
カイルの心の中で低い独白が漏れる。
ティモはまだ気づかない。
だが確かに、盤面の外から仕掛ける者が存在する。
馬車は大通りへと入り、夕刻の喧噪が近づいてくる。
ティモは胸の内で繰り返した。
——「誠実さで返す」
その小さな決意が、やがて重い壁にぶつかるときが来る。
カイルは薄く目を閉じ、静かに思う。
「信用を守る戦いは、始まったばかりだ」
夕陽が沈み、街に夜の影が落ち始めていた。




