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44. 薄い酒の理由

霜月二十四日の朝。


窓口の一角に、ジークの軽快な声が響いた。

「よーし、今日は酒場に顔出してくるか!」


書類を抱えたカンナが目を丸くする。

「えっ……飲みに行くんですか?仕事中ですよ!」


ジークは大きく伸びをしてから、にやりと笑う。

「ばーか、仕事だ仕事。……昨日聞いた酒が薄ぇって話がちょっと気になる。じいさんの気のせいって可能性もあるが、念のため酒場に話聞いてくる。」


「……また思いつきですか?」

レイチェルが目を細め、帳簿を閉じた。


端末に記録を打ち込んでいたメルシェが、視線を動かさずに応じる。

「質に関してはデータが存在しないため、現場確認は有効です」


カンナは椅子から半分立ち上がって、慌てて口を挟んだ。

「で、でも……ジークさん、また酒場で飲んじゃうんじゃ……」


「おいおい、俺を何だと思ってんだ」

ジークは大げさに肩を竦め、片手で頭を掻いた。

「朝っぱらから飲むほど落ちぶれちゃいねぇよ。ただ話を聞くだけさ」


「だけで済むならね」

レイチェルが皮肉っぽく呟く。


ジークは片目をつぶって返した。

「任せとけ。俺はこう見えて、聞き上手なんだぜ?」


場の空気がわずかに和らいだ。


カンナが心配そうに声をかける。

「気をつけてくださいね。……ほんとに飲みすぎちゃだめですよ?」


ジークは豪快に笑い、片手をひらひら振った。

「ったく、人をなんだと思ってやがる。……ま、安心しろ。帰ってくる頃にはネタのひとつやふたつ、拾ってくるさ」


窓口の扉が勢いよく開かれ、石畳の音と朝のざわめきが差し込む。

ジークはその中に身を投じるように歩き出した。


——昨日、酒場で耳にした小さな愚痴。

「最近酒が薄い」。

くだらない雑音のひとつに過ぎないかもしれない。


だが、その裏に仕掛けがあるなら——。


ジークの足取りは軽くも、目の奥は真剣だった。



午前の街はまだ冷たい空気を残していた。

石畳を踏む馬車の音、行き交う商人たちの呼び声。


市場に近い一角の細い路地に、その酒場はあった。

——昨日ジークが騒いでいた馴染みの店ではない。

愚痴をこぼしていた年配冒険者の「近所の酒場」。


木の扉を押し開けると、かすかに古びた酒樽の匂いが漂ってきた。

奥には低い声で談笑する常連たち。

活気よりも、落ち着いた空気の方が濃い。


「……へぇ、なかなか渋いとこじゃねぇか」


ジークは肩を揺らして笑い、空いた席に腰を下ろした。


カウンターの奥に立つのは、丸太のような腕をした店主。

だが目は細く、初対面の客を値踏みするように細めている。


「……何を飲む?」

短い言葉。

常連には慣れているが、余所者には警戒も滲む。


ジークは片手を上げた。

「いつもの、って言いてぇとこだが……初めてだからな。とりあえず一番出てるやつをくれ」


「……ほう」

店主が小さく鼻を鳴らし、樽から注いだ琥珀色の液体を差し出す。


ジークは豪快に受け取り、ひと口。

舌に残るのは確かな苦みと香り。だが——。


「……ん?」

喉を鳴らして飲み干すと、ジークは眉をわずかに寄せた。

「悪かねぇ。悪かねぇんだが……“丸み”が足りねぇな。角が残るっていうかよ」


「気のせいだろ」

店主はそっけなく返したが、その声音にかすかな揺れがあった。


ジークはニヤリと口角を上げる。

「おっさん、自分でも思ってんだろ。最近味が落ちたって」


カウンターの奥で、布巾を握る手がぴたりと止まった。


ジークは椅子に深く腰をかけ、腕を組んだ。

「やっぱりか。客からも似た声が出てるんだろ?」


「……耳ざといな」

店主は苦笑し、周囲を一瞥した。

「俺の舌が鈍ったかと思ったが……何人も同じことを言う。勿論、ウチで薄めてるなんて事もねぇ」


「へぇ。面白れぇ話じゃねぇか」


ジークはジョッキを指で叩き、声を落とす。

「なぁ、最近入った納品で、何か変わったことは?」


店主はしばし考え、首を捻る。

「……変わった事は何もねぇな。今までなかったってだけで、ハズレを引いちまったって事もあるだろ。様子見だ」


ジークは空のジョッキを回し、軽く鼻を鳴らした。

「ハズレを引いちまった……か。まぁない話ではねぇな。思い過ごしか。」


「……妙な客だな、あんた」

店主は呆れたように笑い、追加のジョッキを差し出した。

「飲むか?」


ジークは豪快に受け取り、喉に流し込んだ。

「ぷはぁ! 悪くねぇ。悪くねぇが……やっぱ薄いな」


笑い声に、常連の何人かも苦笑を漏らす。


「なぁ、一応樽見せてくれねぇか。ここまで来たんだ、気になる事は全部確認しときてぇ。」


店主の目が細められる。

「……あんた、何者だ」


空気が一瞬だけ張り詰めた。


ジークはそこで、わざと大きく手を広げて見せる。

「すまん、言うの忘れてた。ギルド所属だ。昨夜の愚痴が引っかかってな、確認に来た」


「ギルド……」

店主はわずかに肩を落とし、苦笑を浮かべた。

「なるほど。こっちだ」


店主は奥の扉を開け、樽の並ぶ小部屋へと案内した。

木の香りが立ち込め、薄暗い空間にずらりと積まれた丸樽が並んでいる。


「こいつが今出してるやつだ。仕入れ先はいつも通りだ」


ジークは頷き、樽へと近づいた。

指先で表面をなぞると、木肌の感触に混じって、わずかな違和感。

「……ん?」


ジークは腰を落とし、樽の側面をじっと覗き込んだ。

焼き印の刻印が押されている。

葡萄の蔓を模した紋章。


「これが仕入れ元の刻印か?」

「ああ。全部その印がある」


「……ふむ」

「どうした?」店主が覗き込む。


ジークの笑みが消える。

「返す予定の空樽はあるか?」

「ああ、裏に——」


空樽を横に並べて比べる。

一見すると同じ。


ジークは黙って、先ほどと同じように表面を指でなぞった。


「……同じに見えるが、違うな」

ジークは、指先でその部分を軽く叩いた。


店主の顔が固まった。

「……まさか」


ジークはくつくつと笑い、別の樽を指した。

「返す予定の空き樽と見比べてみろ。」


二つの刻印を交互に指差す。

「本来のはこうだ。線が深くて潰れてねぇし、縁まで焦げがしっかり残ってる。けどこっちは浅ぇ。線が丸まってて、焦げも薄い。——上から焼き直したか、模したかだ」


店主は、慌てて樽を覗き込み、眉を寄せる。

「……確かに、刻みが浅いな。……気づかなかった」

二つを並べて息を呑んだ。


「普通は気づかねぇよ」ジークは肩をすくめた。

「数は合ってる。中身も酒だ。だが本物の樽と似せ物の樽が入れ替わってたって事だな」


店主は言葉を失い、額に汗をにじませた。


ジークは真剣な目で見据え、低く告げた。

「……この件ギルドで預からせてくれ」


店主は深く頷き、言葉を失ったまま頭を下げた。



外に出ると、陽射しはもう強く、街は昼の顔に変わりつつあった。

ジークは顎を掻きながら、空を見上げる。

「入れ替え、か……。面倒な匂いしかしねぇな」


彼は踵を返し、その足でカイルの商会へ向かった。


門を抜け、商会の大きな建物に入る。

応接室に通されると、まもなくカイルが現れた。

きっちりとした礼を示し、淡々と口を開く。


「ジークさん。突然のご来訪ですね」


「悪ぃな。ちょっと気になることがあってな」

ジークは椅子に腰を下ろすなり、手を組んで身を乗り出す。


ティモも帳面を抱えたまま同席していた。

緊張の色を拭えない顔だ。


「倉庫の再点検を進めてるってのは聞いてる。証紙も荷札も、改ざんの跡は見つからなかったんだよな」


「ええ。徹底的に確認しましたが、少なくとも抜かれた形跡はありません」

カイルは真剣な面持ちで答える。


ジークは鼻を鳴らした。

「……入れ替えはどうだ?」


一瞬、ティモの手が止まった。

帳面の端が小さく揺れる。

カイルも目を細め、言葉を選ぶように繰り返した。

「入れ替え……ですか?」


「ああ。中身を丸ごと、似たもんに差し替える。数も合ってりゃ、ぱっと見は分からねぇ。倉庫で数合わせしたときも異常なし。……だが、納品された先では質が落ちたなんて声が出てる」


ティモが小さく息を呑む。


ジークが続ける。

「常連のじいさんが、酒が薄くなったって愚痴ってた。で、酒場に行って確認したら、仕入れ先も品も変えてねぇのに、味が違うって話だ。念の為に樽を確認したら、樽ごと入れ替えられてる可能性があった。」


「……」

カイルの瞳が鋭くなる。


ジークは指を一本立て、机を軽く叩いた。

「混ぜるでも、抜くでもねぇ。入れ替えられてたら、数が合ってる分だけ発覚しにくい。……これも、商会の信用を揺るがす立派なやり口だ」


カイルは短く頷き、ティモに視線を向ける。

「——ティモ。納品済みの分も含め、取引先への聞き取りを行う。味や質に変化がなかったか、丁寧に確認を」


「は、はい!」

ティモは慌てて帳面を開き、必死に書き込む。


ジークは椅子に背を預け、わざと気楽な笑みを見せた。

「気になる種は早めに摘んどくに越したことはねぇ」


「ええ。ご指摘感謝します」

カイルは静かに頭を下げた。


「……ただ、もし本当に入れ替えが行われていたなら」

カイルの声がわずかに低くなる。

「それは、商会と仕入れ元、両方の関係を揺るがしかねません。疑心暗鬼は取引を壊します。……こちらとしても、軽視はできません」


ティモが小さく唇を噛んだ。

「そんな……じゃあ、僕たちの仕事が……」


ジークは笑って肩をすくめた。

「気にすんな。こういう時こそどう立て直すかが肝心だ」


「……はい」

ティモは帳面を握りしめ、小さく頷いた。


「調査を進めた結果は、改めてギルドへ報告します」

カイルがはっきりと告げる。


ジークは満足げに立ち上がった。

「おう。こっちはこっちで耳を澄ましておくさ。……酒の席で拾える話も、案外馬鹿にできねぇからな」


軽く片手を上げ、ジークは応接室を後にした。



ジークが立ち去った後の応接室。


「……入れ替え。盲点でした」

「はい……数が合ってるから安心してしまって……」


「もう一度洗い直しましょう。小さな違和感でも、必ず拾う。相手によっては遠回しに濁すこともある。『仕入れ元のせいだ』と早合点されても困ります。——だから、調査は細心に」

「承知しました」


カイルは数名の職員を呼び出した。

「すぐに各納品先へ確認を。」


職員たちは素早く動き出す。

廊下を駆け抜ける足音が、商会の中に緊張を広げていった。


ティモは深く息を吐き、カイルを見上げた。

「……ジークさんに、助けられましたね」


「気づかせてくれただけです。あとは我々の責務」

カイルの表情は変わらない。

だが、その目には決意が宿っていた。


——入れ替え。

見落としていた可能性が、静かに商会を覆い始めていた。


午後の街路は、夕刻に向けて少しずつ色を変え始めていた。

商会の応接室を出たジークの言葉は、そのままカイルとティモの胸に残っていた。

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