41. 線と面の狭間
午後の訓練所。
乾いた土の匂いが立ち込めていた。
広場の真ん中に丸く線が引かれている。
周囲には訓練生たちが集まっていた。
線の内側に立つのは二人。
頬は上気、瞳をぎらぎらさせたアメリア。
「お願いします!」
木剣を胸の前で立て、真っ直ぐに頭を下げた。
向かいで木剣を肩に担いだジークは、いつもの気の抜けた笑み。
「おーおー、元気だな。昼飯、唐揚げでも食ってきたか?」
「手加減なんてしないでよ」
アメリアは少し顎を上げ、挑発めいた笑みを返す。
剣を握る指はわずかに震えているが、その瞳には負けん気が宿っていた。
観客席のように並んだ窓口メンバーも、その様子を見守っている。
「……アメリアさん、緊張してる」
カンナが小声で呟き、両手を胸にぎゅっと握る。
「当然でしょ。相手はジークよ」
レイチェルは冷静に帳簿を閉じ、淡々とした調子で返す。
「普段は軽口ばかりでも、腕は確かだから」
ライゼルは腕を組んだまま、ただ黙って様子を見ている。
横でメルシェが端末を起動し、記録を取り始めた。
「記録開始。模擬戦……午後三時五分、開始予定」
「おいおい、実況でもすんのかよ」
ジークが遠くから声を張り、肩を揺らして笑う。
アメリアはその隙を逃さず言葉を重ねた。
「笑っていられるのも今のうちなんだから。」
「おお、怖い怖い」
ジークはあっさり受け流し、剣ではなく左手をひらひらさせる。
「ただし俺は防御特化。真正面から突っ込んでも、土の壁にぶつかるだけだぜ?」
「なら、その壁を越えてみせる」
アメリアの返答は真っ直ぐだった。
訓練生の中から小さな歓声が漏れる。
新人の彼女がどこまで食らいつけるのか、皆の興味は尽きないらしい。
カンナが不安げにアメリアを見つめる。
「だ、大丈夫かな……」
「試す場だからこそ意味がある」
ライゼルが短く答え、視線を外さない。
「効率的な経験則の蓄積。——有効です」
メルシェが端末に文字を刻みながら淡々と告げる。
レイチェルは小さくため息をついた。
「実況と解説が揃ってるわね、まったく」
ジークはにやりと笑い、改めてアメリアを見据える。
「じゃ、始めるとするか。手加減なしって言ったのはお前だしな」
アメリアは木剣を構え直し、足を踏み出す。
陽光がその横顔を照らし、真剣な影を落とした。
広場の空気が一気に張りつめる。
——模擬戦の幕が、いま上がろうとしていた。
*
「始め!」
教官の合図と同時に、アメリアが走り出した。
土を蹴る音が響き、木剣が一直線にジークへ振り下ろされる。
——ガキィン!
乾いた衝撃音。
ジークは軽く片腕を動かしただけで、その剣を受け止めていた。
肩に担いでいた木剣をひょいと下ろし、土の壁のように正面に構える。
「おー、悪くない振りだな」
気の抜けた声。だが足は微動だにしない。
「まだまだっ!」
アメリアはすぐに体を回転させ、横薙ぎの一撃。
それも木剣と前腕で受け流され、弾かれる。
「くっ……!」
歯を食いしばり、連撃を叩き込む。
縦、横、斜め。汗が飛び散るほどに必死の剣筋。
だがジークは軽く足をずらし、木剣を盾のように操る。
「ほらほら、焦ると隙が増えるぞ」
「言われなくても分かってる!」
アメリアの声が震えながらも響いた。
*
観客の訓練生がざわめく。
「すげぇ、あの新人、全然止まらない!」
「でも当たってない……」
窓口メンバーもそれぞれ反応を見せていた。
カンナは両手を口元に当て、声を抑えきれない。
「が、頑張ってアメリアさん!」
「無謀に突っ込むのは悪手。……でも気持ちは買うわ」
レイチェルは小さく呟き、目を細めた。
メルシェは相変わらず端末に記録を残している。
「攻撃精度……命中率ゼロ。持久戦では不利」
ライゼルは黙ったまま腕を組み、動きを追っていた。
その眼差しは静かだが、どこか戦場を思わせる鋭さがあった。
*
アメリアが飛ぶ。
砂を蹴る音が軽い。
直線。速い。正面——からふっと消え、右へ滑る。
斜めの一閃。肩口を狙う綺麗な角度。
「へいへい」
ジークは片手で受け、木剣の腹で軽く払い落とす。
腰は崩れない。
アメリアの足首が砂を散らし、すぐさま二段目の突き。
踏み込み、正中線。
呼吸が詰められている。練ってきた手だ。
「いい踏み込みだ」
ジークの声が、のんきで、しかし近い。
受けた面から返すように、こつん、と額すれすれを撫でるタッチ。
アメリアの前髪が跳ねた。
「っ……!」
下がらない。アメリアは歯を見せる。
木剣の位置をわずかにずらし、ジークの手元に絡めるように回す。
柄で押し、刃で払う——武器を殺す動き。
「お?」
ジークの片眉が上がる。
アメリアの木剣が、手首をなでる寸前まで入り込んだ。
「余裕余裕……おっと危ねぇ」
ほんの一呼吸、ジークの足が一枚ずれた。
砂の上に、靴底の浅い軌跡。
次の瞬間には、間合いが空いている。
「見えない……!」
カンナが目を丸くする。
メルシェは瞬きの回数を減らし、低く結ぶ。
「受け流しからの位置交換。——効率的です」
*
「……っ!」
アメリアは大きく距離を取ると、木剣を握り直した。
肩が上下に揺れ、呼吸は荒い。
「息切れ、早いな」
ジークは木剣を肩に担ぎ直し、飄々と笑う。
「唐揚げじゃなくて甘いもん食っときゃよかったんじゃねぇか?」
「馬鹿にしないで!」
アメリアは叫び、再び踏み込む。
その瞬間、ジークの表情がほんのわずかに引き締まった。
振り下ろされた木剣を受け止めつつ、逆に体重をかける。
「ぐっ……!」
アメリアの足が土に沈む。力負けして押し返される。
——ドンッ!
背中が地面に叩きつけられた。
砂埃が舞い上がり、観客からどよめきが上がる。
「アメリアさん!」
カンナの悲鳴。
だがアメリアはすぐに体を起こした。
泥で汚れた顔に、それでもぎらついた目。
「まだ……まだ終わってない!」
木剣を支えに立ち上がる。
ジークは頭を掻き、ため息をついた。
「ったく……根性だけは一人前だな」
アメリアは再び突っ込む。
足取りは重いが、瞳は折れていない。
*
レイチェルが小さく呟いた。
「……やっぱり新人ね。でも、この粘りは悪くない」
メルシェは淡々と補足する。
「戦闘力の差は明白。しかし精神的耐性は一定以上」
ライゼルの口元がわずかに動いた。
「粘るほど、学べるものもある」
ジークは迫る木剣を軽く受け止め、受け流す。
何度も何度も。
やがて——アメリアの腕が震え、剣が重く垂れた。
「……限界か」
ジークの声は低く、しかし笑みは消えていなかった。
アメリアは息を切らしながら、それでも木剣を構え続ける。
「まだ……立ってる……!」
アメリアは一歩、深く息を吐いた。
木剣を下げず、膝を緩める。肩が落ちた。力みが抜ける。
「もう一回!」
彼女は今度、正面から振らない。
砂地をすべるように半円を描き、視界の端から打ち込む。
脇腹、手首、喉元——狙いが散る。
一本当てさせて、と全身で言っている。
ジークは受ける。受けて、返す。
打突の芯を外し、木と木が“鳴らない”角度でぶつかる。
音が小さい。砂が、風が、アメリアの呼吸だけが大きくなる。
「いいぞ、アメリアちゃん、いい流れ!」
カンナの声が空に跳ねる。
「……息、上げすぎ」レイチェルが釘を刺す。
アメリアは舌先で唇を湿らせた。
(当たらない。……でも、近い)
木剣の柄を握り直し、足を入れ替える。
視界の端で、ジークの笑みが薄くなる。
(——今)
彼女の身体が前に消えた。
砂がふた筋、鋭くえぐれる。
ジークの胸元、誘うように空いた一点へ、矢のような突き。
木と木が、甲高く鳴る。
弾かれなかった。止まった。
風が一筋、汗を冷やす。
刃の先端に、ジークの木剣の「面」が乗っている。
ただそれだけで、突きが動けなくなる。
「そこは“通した後”が勝負だ」
耳元。
アメリアの背に、ひやりと風。
気づいたときには、ジークの木剣が彼女の肩に“置かれていた”。
打っていない。置いただけ。
——それでも、そこで勝負は付く。
「一本」
教官の声が落ちる。
*
「っ、悔しい……!」
アメリアは肩で息をしながら、地面を二度、靴で叩いた。
汗が顎から落ち、砂に吸い込まれる。
ジークは木剣を肩に戻し、にかっと笑う。
「悪くない。軌道を散らすの、あれは効いた。まだまだ伸びる」
「今の、通ったと思ったのに……」
「通ったよ。通った“後”を止めただけだ」
アメリアはきょとんとする。
ジークは自分の胸を指で軽く叩き、からかうように片目をつぶった。
「線で来ると、俺みたいな横着者には止められやすい。面で押すか、通した瞬間に“もう一手”置け。欲を出せ」
「もう一手……」
アメリアは木剣を握り直し、喉まで出かかった悔しさを飲み込む。
「——次は、勝つ」
「おう。何度でも相手してやる」
柵の向こうで、カンナが腕をぶんぶん。
「すごかったよアメリアちゃん!」
メルシェが淡々と続ける。
「接触強度は訓練基準内。危険行為なし。アメリアさんの疲労度は中程度。回復に水分二百、塩分少量を推奨」
「数字で刺さる〜!」
カンナが笑い、アメリアもつられて口元を緩めた。
ライゼルが、そこで初めて口を開く。
「……これが戦場なら」
空気が一瞬、ひんやりした。
砂に沈む靴跡、遠くの号令。
ジークが目だけでライゼルを見る。
アメリアは背筋を伸ばした。
「“一本”は、誰かの動脈に入っている。置いた、では済まない」
短い言葉。
砂地の静けさが、少しだけ深くなる。
カンナが小さく息を呑み、レイチェルは視線を落として頷いた。
「……だから、ここで失敗して、ここで治す」
ジークが口元を上げる。
冗談の温度を、半歩だけ落として。
「遊べるうちに、いっぱい転べ。俺らがいる」
アメリアは木剣を胸の前で立て、きゅっと顎を引いた。
「はい。——もう一戦、お願いします」
「やる気だねぇ」
ジークの足が、砂を柔らかく踏んだ。
さっきより、影が近い。
見学の輪が、自然と息を合わせる。
「両名、構え——始め!」
乾いた木の音が、午後の空にまた跳ねた。
*
二戦目は、最初から面を押すアメリアだった。
真っ直ぐを嫌い、半歩外して、面で包み、触れてから押し出す。
ジークは受ける。遊びの足を少しだけ重くし、角度をひとつ増やす。
「いい修正」レイチェルが言う。
「学習速度、速い」メルシェが続ける。
「呼吸を落とせ」ライゼルが短く落とし、カンナが「がんばれー!」で全部を上書きする。
乾いた音が数を重ねるたび、砂の軌跡が増える。
アメリアの肩が、少し落ち着き、目が静かになっていく。
——そこで、ジークの笑みがふっと薄れた。
足が一歩、鋭く砂に刺さる。
木剣が、軽く、泳いだ。
たわむように見えて、たわんでいない。
目線が、外れて戻る。その戻りで、全部の線が閉じられる。
「——っ」
アメリアの木剣が、空を切った。
次の瞬間、喉元すれすれに“置かれる”軽い重み。
「一本」
今度は誰も、すぐには声を出さなかった。
ジークが木剣を外し、笑う。
「悪いな。ちょっとだけ、先を見た」
アメリアは肩で息をし、そして笑った。
「ずるい。でも、かっこいい」
「褒められた」
カンナが拍手を叩き、レイチェルが口角をわずかに上げる。
メルシェは「安全に配慮。——適正範囲です」と締めた。
ライゼルは、風に前髪を揺らしながら、短く結ぶ。
「続きは、また」
「いつでも」
ジークが木剣を肩に担ぎ直し、アメリアの頭をぽんと撫でた。
彼女はむっとして手で払い、けれど払う強さは優しかった。
陽はさらに傾き、影は細く伸びる。
砂に残る足跡は、二人分。
その重なり方を見て、誰もが少しだけ、安心した。
——転べるうちに、転んでおく。
——ここなら、何度でもやり直せる。
訓練所のざわめきが、また日常の音に戻っていく。
「水、二百」
メルシェが水筒を差し出す。
アメリアが「はいっ」と元気に受け取った。
カンナはその横で、「私も唐揚げで補給を——」「やめなさい」とレイチェルに止められている。
ジークは空を見上げ、目を細め、そして——いつもの笑い声を、風に放った。




