4.窓口、午後のざわめき
昼のざわめきが落ち着き、午後の光が差し込む。
大扉は重い音を立て、ゆっくり開いたり閉じたりしていた。
荷馬の軋み。香辛料の匂い。汗と油に混じる羊皮紙の手触り。
レイチェルは朱肉を軽くあおぎ、カンナは番号札を束ね直す。
メルシェは差し出された依頼票を等速で捌いていた。
「受領しました。控えはこちらです。……次の方、どうぞ」
声は抑揚なく、それでいて澄んでいる。
顔を上げるのは最小限。視線は手元に落ちたまま。
「緊急搬入の許可を!」
香辛料商が駆け込む。匂いが一瞬強まった。
「舶来の乾燥草が湿気で……」
「乾燥庫を押さえます。番号札はそのままお持ちください。——レイチェルさん、鍵を」
「三番棚。カンナ」
「はい!」
合図は短く、動きに無駄がない。
香辛料商は胸に手を当て、ほっと息を吐いた。
「助かる……蝋封はやっぱりダメか?」
「香りが移ります」
「だよな」
やり取りは三往復で終わる。
情報は端的。けれど冷たさはない。
「へえ、噂通りだな」
軽い声が差し込んだ。
茶髪の青年がカウンターに身を預け、肩で笑う。
「ジークさん。お帰りなさい」
レイチェルが声を掛ける。
青年は人差し指を眉に当てて挨拶を代わり、メルシェの前で立ち止まった。
「初めまして、だな。俺はジーク。技術、実務、現場支援、デバイス整備、記録補助に調整役……まあ、困ったら“だいたいジークに聞け”で通る何でも屋だ。困ったら呼べ」
指先でカウンターを軽く叩き、流れを眺める。
「承知しました。昨日転属してきました、メルシェ・フィリーネです」
「初日から手際が良かったって聞いた。さっきの回しも早かったな」
軽口に温度をのせ、押しつけにならない褒め方。
「それと——掲示板じゃ“傾国現る”って大騒ぎだ。俺は“噂の新人”くらいで呼びたいけど?」
「掲示板は見ていません。業務外通信の優先度は低いので。業務に参考があれば共有を」
淡々とした答え。
カンナが思わず吹き出しかけ、慌てて口を押さえる。
「真面目だな」ジークは笑い、天板を軽く叩いた。「了解、ほどほどにな」
その時、扉の金具が小さく鳴った。
場の空気が引き締まる。
視線の集まり方で、誰が来たかがわかる。
立ち姿だけで“場の中心”を作る人物——ライゼル・ヴァルトハイン。
黒い上衣に金の装飾がきらりと光る。鋭い眼差し。上品さを崩さぬ歩み。
ただ近づいてくるだけで、周囲の空気が整っていく。
「……ライゼル様だ」
「相変わらず、絵になる……」
誰かの小声が連鎖し、ざわめきが広がる。
ジークが手を上げ、窓口へ誘う。
「おお、ちょうどいいとこだ。紹介しとく」
「こっちはライゼル。うちの“顔”みたいなもんだ。護衛でも外交でも、困った時に前に立って全員を勝たせるやつ」
「誇張が過ぎる」ライゼルは穏やかに笑う。
「で、こっちがメルシェ。特務係に昨日配属。行列を速く回す新人だ」
ライゼルが視線を動かすと、まるで光に射抜かれたように、場にいた者たちが思わず息を呑む。
だが当のメルシェは変わらない声で答えた。
「特務係のメルシェ・フィリーネです。本日、二番窓口を担当しています。ご用件があれば承ります」
ライゼルは、一瞬だけ片眉を上げた。
その視線の奥に、ごく小さな驚きが走る。
すぐに微笑を整え、わずかに頷く。
「挨拶に寄っただけだ。窓口を乱すつもりはない。……失礼、続けてくれ」
「承知しました」
会話は、そこで終わる。
感嘆も、余計な礼も、ない。
周囲の数人が、信じられないという顔で互いをつつく。
――“あのライゼル様を前にして、赤面一つしないだと?”
――“並んで立つと、まるで絵画だ……”
囁きが散発的に漏れ、場の空気は奇妙な熱を帯びていく。
「珍しいな」ジークが肩をすくめる。「ここで特別扱いしないのは初めて見た」
「勤務中です」メルシェは帳面に視線を戻す。「列が詰まります」
「はいはい」ジークは笑う。
「じゃ、続きは俺が空気を読む。——ライゼル、邪魔しねえ程度に見学してけよ」
ライゼルは返事をせず、列を一望した。
空気の綻び、動線の詰まり、職員間の合図。
——それだけで場の温度が落ち着く。彼が場を締める、いつもの効果だ。
カンナがひそひそ声。
「通常営業が強すぎます……! だって、ライゼル様の隣で空気変わらない人、初めて見ました!」
レイチェルが「持ち場」と短く釘を刺す。
その時、カンナの前に紙束が荒く机に叩きつけられた。
「聞いてねぇぞ! 振替の荷路、俺は南門で確認済みだ!」
カンナの声が詰まる。
「え、えっと、それは——」
「失礼します」
メルシェが二歩で前に出る。紙の潰れ方、汗の滲みを一瞥。
「通達が二本走っています。現行は西門。お手元は旧通達。——両方を満たす方法を出します」
「両方?」
「荷馬は二台。軽い方を西門へ先行、重い方は南門で待機。先行便で安全が確認された時点で追走。損失を最小化できます。署名はこちら」
「だが時間が——」
「先行便の到着報告を私が受けます。あなたの名で“安全確認済”の印を回します。三分ください」
数字だけが落ちる。
男は息を吐き、「助かった」と印を押す。
列が静まり返る。
「カンナさん、印を」
「は、はいっ!」
流れが戻り、ざわつきは沈んだ。
戻る途中、メルシェはライゼルとジークの前で足を止める。
「……失礼しました」
それだけ告げて持ち場へ戻る。
朱肉の蓋が閉じられ、場が収束する。
「さて——」ジークが肘でライゼルの肩を軽く小突く。
「昨日配属して今日これ。もう“ここにいた人”みたいだろ。何より——」
言葉を一拍置き、顎で二番窓口を示す。
「お前を前にして、あの反応は珍しい。俺、初めて見た」
ライゼルは視線を二番窓口から外さず、ほんのわずかに息を落とした。
「……そうだな」
声音は穏やか。
同意にも、ただの確認にも聞こえる。
ジークだけが、その余白を拾った。
列の先頭で、メルシェが手元の紙を整えた。
「受付番号はこちら。——次の方どうぞ」
ライゼルは場が収まったのを見届け、踵を返す。
視線の先はホール全体。
「行く」
それだけ言い、入口脇を同じ速さで抜けていった。
ジークはその背に向けて指をひらひら振り、肩を竦める。
「やれやれ」
笑みは、軽い。
*
「番号札九番の方、こちらへ」「荷受けの時間は——」
いつものやり取りが重なり、午後の陽が角度を変える。
壁の時計の影が伸び、床の艶が少しずつ鈍くなっていく。
——午後の窓口は、静かに回り続けた。
*
午後の陽は角度を落とし、柱の影がカウンターに細い縞を作る。
出入りは途切れないが、秩序は戻っている。
メルシェは落とし物の届出を一件、搬入の裏書きを二件、緊急便の時間前倒しを一件、淡々と処理した。
「拾得物、刻印はこちらに。——ありがとうございます」
「裏書きの相手方はここ。瓶は紙封でお願いします」
「急ぎ便は左の窓口と連携します。番号札は保持を」
声は一定、視線は手元。
それでも、さっきの場面の余韻が客の顔に残っている。
「さっき助かったよ」と礼を言う者。
「“西と南の両立”なんて考えたことなかった」と感心する者。
言葉は簡素でも、空気は柔らかい。
カンナが水差しを持って戻る。
「メルシェさん、さっき……ありがとうございました。私、もっと確認してから案内しなきゃですね」
「規約が増える時期は重なります。聞き間違いが起きやすい。……通達の最終時刻を付記してから案内すれば誤差が減ります」
「はいっ、付記、ですね……付記、付記……(小声で復唱)」
レイチェルが横から静かに補う。
「“二本走る時は、まず一本に束ねる”。それが今日の教訓。……カンナ、よく見ておきなさい。今のが“特務の整理”よ」
「はい!」
短いやり取り。評価はない。
けれどカンナの背筋はさっきより伸びていた。
*
「番号札十一番の方、こちらへ」
黒ずんだ外套の男が一歩出る。
迷いのある足取り。差し出された包みの角は心許なく曲がっていた。
「……これ、商会から回された部品なんだが、照合印が。俺、字がちょっと」
「私が読み上げます。ここに線を引きますので、あとをなぞってください。ゆっくりで結構です」
「助かる……」
男の肩が落ちた。
メルシェは筆致を少し太く、迷いの出ない幅で線を引く。ゆっくり、正確に。
“手間”に見える作業が、列全体の“速さ”に返るのを彼女は知っていた。
「完了しました。控えはこちらです。——次の方どうぞ」
入口近くでささやき合う声。
「今の見た?」「書いてあげてた」「感じ悪くないな」
「掲示板の“傾国”って呼び方どうかと思ってたけど……仕事はすごい」
誰かが端末を半分取り出し、また仕舞う。
“今は書かない”。空気が、仕事の側へ戻っていった。
*
夕刻が近づく。外の光は橙を帯び、木目に長い影を落とす。
終業の鐘まであと少し。
「これで最後です」レイチェルが看板を返す。
少年使いが飛び込む。
「伝令! 南の外れで小競り合い——え、もう処理済み? 西門振替は——」
「実行中です。先行便の到着報告を。……助かります」
メルシェの声は、ほんの少し柔らかかった。
少年は目を丸くして頷き、走り去る。
「……今日も滞りなし」
レイチェルが帳面を閉じる。
カンナは小さくガッツポーズ。
列が消え、喧騒は薄いざわめきに変わる。
さっきの“二人”の姿は、もうホールにはない。
「ね、ねえ、レイチェルさん……」カンナが恐る恐る問う。
「ライゼル様って、あんなに人目を集めても気にしないんですか?」
「見た目でも家柄でも、注目を浴び続けてきた方でしょうから。……慣れているのよ」
「えぇ……すごい。普通なら絶対に照れたりしそうなのに……」
「だから“普通”じゃないの。彼も、メルシェも」
レイチェルはそれ以上は語らず、書類に目を落とした。
カンナはぽかんとしつつ、どこか誇らしげに笑みを浮かべる。
メルシェは端末を定位置に戻し、最後の紙の端を揃えた。
「本日の控え、提出します。……失礼します」
背筋の角度も、歩幅も、朝と同じ。
ただ今日ひとつ、“新しい導線”が引かれたのは誰の目にもわかった。
——仕事は、今日も仕事の顔で終わる。
ざわめきは廊下へ流れ、扉の外で夕風にほどけた。
この日の光景も、夜には誰かの端末に文字となって流れた。