39. 小さな工夫
窓口の朝。
紙の擦れる音、帳簿に走るペン先。
今日も依頼書の山から始まる。
カンナが鞄から取り出したのは、一枚の紙。
「……ふふっ、完璧です!」
大きく書かれた表題には、堂々とこうある。
——『抜け漏れゼロ作戦 チェックリスト』
「今日からこのリストを使って、漏れなく確認します!」
胸を張り、勢いよく宣言する。
「……何それ」
帳簿を整えていたレイチェルが視線を向ける。
「昨日の反省を活かしました! これがあれば、署名欄の見落としなんて二度とありません!」
カンナは胸を張り、紙を高々と掲げた。
ジークがその文字を覗き込み、噴き出す。
「お前……なんだこれ。“署名確認よし!”“日付確認よし!”って、子供の宿題チェックかよ!」
「ち、違います! 本気です!」
カンナは慌てて両手を振り、赤い顔で言い返す。
「ちゃんと順番に確認できるように、工夫したんです!こうすれば絶対に抜けません!」
カンナは得意げに依頼書を取り、チェック欄を一つひとつ埋めていく。
「ほら! 署名よし、日付よし、印鑑よし、……」
ペン先が走るたびに、カチッと小気味いい音が鳴る。
そのたびにカンナの顔はどや顔に近づいていった。
「……印鑑ぐらい、見りゃ分かるだろ」
ジークは笑いながら肩をすくめた。
「合理的です」
メルシェが短く断言する。
「えっ」
カンナの目が輝く。
「順序立てて確認すれば、作業効率が安定します。……標準化すれば、誤記発生率は減少するでしょう」
「ほら! メルシェさんが認めてくれました!」
カンナが両手を握り締める。
ジークは大げさに呻いた。
「効率効率って……やっぱお前ら全員、同じ穴のムジナだろ!」
「言葉の意味が不明確です」
メルシェは小さく首を傾げる。
「そういうところだよ!」
ジークの突っ込みが響いた。
メルシェがチェックリストを無表情で一読した。
「髪色確認よし、…… この欄は要りません。依頼人の髪色は不要です」
「えぇぇっ!? そこは工夫したポイントだったのに……!」
カンナが机に突っ伏す。
ジークは腹を抱えて笑い転げた。
「ははっ! 何入れてんだよ、髪色確認って! 美容院の受付か!」
カンナは真っ赤な顔で抗議する。
「し、ししし仕方ないじゃないですか! 特徴欄とかでつい……!」
レイチェルはこめかみを押さえ、小さくため息をつく。
「……とりあえず試しに今日の業務で使ってみなさい」
「はい!」
カンナが勢いよく頷いた。
ライゼルは黙ってリストに視線を走らせる。
「……実用性は、使ってみなければ分からん」
カンナがさらに勢いづく。
「よーし、今日からこの“抜け漏れゼロ作戦”、実施開始です!」
ジークは頭を抱えた。
「おいおい……また面倒事が始まったな……」
それでも口元には、わずかに笑みが浮かんでいた。
*
抜け漏れゼロ作戦は幕を開けた。
「——あの」
控えめな声。
茶色い外套を羽織った若い男性が窓口に立っていた。
手にした依頼書を差し出す。
「依頼をお願いしたいんですが」
「は、はいっ!」
カンナが慌てて受け取り、机に広げた。
「では、チェックタイムです!」
妙に張り切った声。
依頼人が少し目を瞬かせた。
「日付、よし! 依頼内容、よし! 証紙の番号……よし!」
依頼人が不思議そうに首を傾げた。
「……な、なんで口に出してるんですか?」
「えっ!? あっ……こ、これは……! えっと……」
カンナがしどろもどろになり、顔が真っ赤に染まる。
ジークが堪えきれずに吹き出した。
「おいおい……点呼かよ! “よし!”って、軍隊か!」
「うぅ……! だって声に出した方が確認しやすいんです!」
「まぁ、理に適ってはいる」
ライゼルが冷静に補足する。
「発声による二重確認は効果的だ」
「ほら! ライゼルさんも認めてくれてます!」
カンナが勢いづく。
冒険者は苦笑しながら依頼書を受け取り、頭を下げて去っていった。
「抜け漏れゼロ作戦、成功です!」
カンナが得意げに胸を張る。
ジークは肩をすくめた。
「客の前で“抜け漏れゼロ作戦”って連呼するのやめろ。ギルドの信用が逆に減るぞ」
「そ、そんなぁ!」
その隣で、メルシェは淡々と判を押しながら呟いた。
「……命名の再考を提案します」
「えっ!? な、名前ですか!?」
カンナが顔を上げる。
「“作戦”という単語は、任務用語です。書類処理に適用するのは、外部に誤解を与える可能性があります」
ジークが腹を抱えて笑う。
「だってよ! 確かに“作戦”は大げさだな!」
「じ、じゃあ……“抜け漏れゼロ運動”とか……?」
「もっと悪い!」
ジークが即座に突っ込む。
「それじゃ学園の標語ポスターだろ!」
「標語ポスター……」
カンナがしょんぼりしていると、ライゼルが静かに口を開いた。
「……呼び方より、中身の実効性だ」
ライゼルは依頼書を一枚手に取り、視線を落とした。
「実際に記録の精度が上がるかどうかが重要だ」
その横で、レイチェルが依頼書を覗き込み、チェックリストと照合する。
「……漏れはないわね」
「ちゃんと効果ありました!」
カンナは勝ち誇ったようにジークを振り返る。
「ぐぬぬ……」
ジークは不満そうに頭を掻いた。
「ただ、このままじゃ現場向きじゃないわね」
レイチェルが赤いペンを取り出し、容赦なく線を引いていく。
「“確認よし!”の文字はいらない。ただのチェック欄にすれば十分。住所と連絡先はまとめる。証紙と押印も同じ行で処理できる」
「わ、わっ、勝手に直さないでください!」
カンナが慌てて手を伸ばす。
レイチェルは冷静に赤を入れ続ける。
「仕方ないでしょう。このままじゃ、時間がいくらあっても足りないもの」
「……再設計は合理的です」
メルシェがすっと横から口を挟んだ。
端末を立ち上げ、素早く入力を始める。
「項目を削減し、配置を最適化します。例えば“依頼人情報”を一つの枠にまとめ、氏名・住所・連絡先を横並びにすれば、確認工数は三割削減可能」
「三割!?」
カンナが目を丸くする。
「さらに、署名欄の下に“確認済”チェックを直付けすれば、見落としは物理的に不可能になります」
メルシェの声は淡々と、しかし一切の迷いがなかった。
レイチェルは手を止め、わずかに頷く。
「……なるほど。現実的ね」
「おいおい」
ジークが大げさに手を広げた。
「なんか知らんが、どんどん本格的になってきてねぇか? カンナのお遊びチェック表が、ガチ改善案になっちまってるぞ!」
「お遊びじゃありません!」
カンナは必死に首を振る。
「私だって、本気で考えたんです!」
「結果的に良い方向へ進んでる。悪くはない」
ライゼルの一言が、またカンナの背を押した。
「で、でも……」
カンナは自分のリストを見下ろす。
修正だらけの赤線と、メルシェの端末に映る効率化された新案。
「……私のは、無駄ばっかりだったのかな」
その声に、レイチェルが小さく笑った。
「無駄があるから改良できるのよ。最初の一歩はあなたでしょ」
「……!」
カンナの顔に、ぱっと明るさが戻った。
その後も依頼書は途切れることなく届いた。
カンナは必死にチェックリストをめくり、声を抑えて確認を繰り返す。
*
昼下がり。
窓口は一息ついたかに見えたが、机の上にはまだ数件の依頼書が残っていた。
墨の匂いと紙のざらつき。
外からは馬車の音が遠く響いている。
「よし、これで最後ね」
レイチェルが帳簿を整え、印章を押した。
「ふぅ〜〜……!」
カンナは大きく伸びをして椅子に倒れ込む。
「午前中よりずっとスムーズに終わった気がします!」
レイチェルが頷いた。
「確認の順番が決まってると、迷いがなくなるわね」
メルシェが端末を閉じ、淡々と告げる。
「処理件数は平常時より一割増。確認手順が固定された分、迷いが減ったのが要因です」
「数値化されると説得力あるな」
ジークが肩をすくめる。
「……でも名前はやっぱダサい。抜け漏れゼロ作戦って」
「ぬ、抜け漏れゼロは大事なんです!」
カンナが必死に抗議する。
「それに、分かりやすいですし!」
「分かりやすいけどなぁ……」
ジークは唸り、レイチェルは苦笑しながら首を振った。
「まぁいいわ。呼び方は置いといて、徹底できるかどうかの方が大事よ」
レイチェルは静かに帳簿を閉じ、視線をカンナに向ける。
「今日だけで満足しないこと。明日も明後日も同じように繰り返す。それが一番難しいの」
カンナがぱっと顔を輝かせた。
「採用ってことですか!? 正式に使っていいんですか!?」
「ええ。明日から正式に窓口で回しましょう」
レイチェルが軽く頷く。
「やったぁぁ!」
カンナは椅子から飛び上がり、両手を握りしめた。
「これで私の“抜け漏れゼロ作戦”がギルドに残るんですね!」
「残るのは形式だけよ」
レイチェルの声が冷ややかに差し込む。
「責任は減らないわ。チェック欄を埋めても、見落としたら同じ。——結局は使う人間次第」
ライゼルも重ねる。
「……油断は禁物だ。仕組みがあっても、使う者が徹底しなければ意味はない」
「う……は、はい……」
カンナの笑顔が少ししぼむ。
ジークが後ろで腕を組み、ぼそりと呟いた。
「でもまぁ……昨日よりは安心だな」
普段の軽口を抑えた声に、カンナは目を丸くする。
「ジークさんが真面目に言った……!」
「おい、珍しい生き物みたいに言うな」
ジークが鼻を鳴らす。
「俺だって大事なときは真面目なんだよ」
ライゼルは静かにリストを手に取り、紙面を眺めた。
「……小さな工夫が、大きな被害を防ぐ」
低い声が落ち着いて響く。
「仕組みを整えることは、戦場でも日常でも変わらん」
誰も反論しなかった。
重さを伴ったその言葉が、自然と胸に落ちてきたからだ。
空気を変えるように、ジークが大げさに両手を広げた。
「よし、今日の総括! “抜け漏れゼロ作戦”は意外と役に立った!」
メルシェがリストを手元の端末に並べ、無表情で結論を下した。
「……作業効率五%上昇が見込めます」
一瞬の沈黙。
次の瞬間、ジークが勢いよく突っ込んだ。
「パーセントで言うな!」
メルシェは無表情のまま、端末に記録を打ち込んだ。
「本日の総括:抜け漏れゼロ作戦=効果有。命名は課題」
「記録すんな!」
ジークの突っ込みが響き、笑いが弾けた。
緊張を含んでいた空気が、ようやく柔らかく解けていった。
新しいチェックリストは、今日から窓口の机に置かれる。
それがどれほどの成果をもたらすかはまだ分からない。
だが、少なくとも全員の意識に一つの刻印を残した。
——小さな欄の一つが、命を守る。




