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38. 一筆の重み

午後の窓口。

昼休憩を終え、再び積み上がった依頼書の束。

帳簿と印章、紙の匂いが机の上に広がる。


カンナは受付処理を終え、帳簿に綴じようとした。

ふと手が止まる。

「……あれ?」


依頼書の最後の欄。

署名の部分が、ぽっかりと空白だった。


「え、署名……ない!?」

カンナの声が少し裏返る。


「ちょ、ちょっと待ってください! お名前が……」

慌てて視線を上げる。

依頼人の姿はもう見えない。


「れ、レイチェルさーん!」

半ば悲鳴のような声が響く。


帳簿を整理していたレイチェルがすぐに駆け寄り、依頼書を一瞥した。

「……無効よ」


「ひっ……!」

カンナの顔が青ざめた。

「ど、どうしましょう……依頼人、もう帰っちゃいました!」


メルシェが端末を閉じ、静かに告げる。

「原因は確認工程の欠落。提出時に署名欄を確認していれば防げました」


「うぅ……そ、それはそうですけど……!」

カンナの肩がさらに落ちる。


丁度書類を取りに窓口に来ていたジークが、口端をゆがめて笑った。

「ははっ、さっそく実地試験かよ。研修から戻ってきて、いきなり出題されるとはな」


「笑い事じゃないわ」

レイチェルがすぐさま冷たい声を差し込む。


ジークは両手を上げて肩をすくめた。

「わーってるよ。でもまぁ、すぐに気がついてよかったじゃねぇか」


「そういう問題ではありません」

メルシェが即座に返す。

「署名がなければ、依頼成立の証拠が欠落します。支払い請求や証紙の発行も、すべて無効になります」


その一言で、空気が重くなった。


カンナは唇を噛み、両手で依頼書を抱える。

「も、もう一度依頼人を呼んで……署名してもらわないと……!」


レイチェルは即座に頷いた。

「ええ。至急、呼び戻すしかないわ」


「でも、依頼人もう帰っちゃって……」

カンナの声がか細くなる。


ジークが片眉を上げる。

「連絡はできんのか? 帳簿に住所なり記録があるだろ」


「確認します」

メルシェは端末を操作し、依頼人情報を呼び出す。

「住所ありました!」


「じゃあ追いかけるしかねぇな」

ジークが腰を上げる。


カンナは慌てて立ち上がる。

「わ、私が行きます! 私のミスですから!」


「待ちなさい」

レイチェルが冷静に制止する。

「あなた一人で行っても、署名の手続きはできない。正式な確認者が必要」


「……私も行きます」

メルシェが淡々と名乗りを上げる。

「依頼人に事情を説明し、署名を取得する。それが最も効率的です」


「効率効率って……でも、確かに正しいけど……」

カンナがしゅんと肩を落とす。


ライゼルは静かに立ち上がり、二人のやり取りを見下ろした。

「俺も同行しよう。依頼人が動揺すれば、言葉だけでは足りん」


その声に、カンナはようやく顔を上げた。

「……すみません。本当に……」


ジークが鼻を鳴らして笑う。

「ま、落ち込むな。こういうのはな——“やらかした時に、どう立て直すか”が大事なんだよ」


レイチェルは静かに依頼書を整え、きっぱりと言った。

「失敗を繰り返さないために、動くしかないわ」


カンナは大きく頷き、依頼書を胸に抱き締めた。

「……はいっ!」



依頼人は幸いまだギルド内にいた。

事情を説明すると、窓口に戻り署名に応じてくれた。


「これで……ひとまず成立です」

カンナが安堵の笑みを浮かべ、胸を押さえる。


「“ひとまず”で済んでよかったわね。でも一件止まれば、その後ろに控えてる人たち全部が足止めになるの。今回は相手が素直に戻ってくれたからいいけど……」


「……すみませんでした」

カンナが小さく頭を下げる。

「次からは、ちゃんと見ます!」


「言葉より確認」

レイチェルは帳簿をぱらぱらとめくった。

「“見てるつもり”が一番危ないの。こっちは十、こっちには10、表記がバラバラだから見にくいでしょ。こういう所もちゃんとしていかなきゃ」


「うぅ……す、すみません……」

カンナがしょんぼりと頭を下げる。

「午前中、情報を扱う者の一筆一筆が、ギルドを支えているって言われて、気をつけてるつもりなのに全然駄目ですね。」


カンナは紙を握りしめ、うつむいた。


肩をすくめる彼女に、ジークが大げさに手を振った。

「おいおい、そんな顔すんな。ミス自体は大事にならなかったんだ。次に繋げりゃいい」


「で、でも……」

カンナは小さく頷いた。

「……はい。次からは絶対に、絶対に見ます!」


その横で、メルシェが端末を操作しながら静かに口を開く。

「再発防止には、個人の注意力に頼るだけでは不十分です」


カンナがはっと顔を上げる。

「ふ、不十分……?」


「はい」

メルシェは紙束を指先で整え、無表情のまま続ける。

「帳簿様式そのものを修正すべきです。——各欄の横に“確認済”のチェックを入れる欄を設け、必ず一緒に確認をして、印をつける仕様にする」


「確認欄……」

レイチェルが目を細める。


「左端に並んだチェック欄を、順に埋めていく形式です。空欄が残れば不備と即座に分かる。確認工程を自然に強制できます」

淡々とした声。だが、その理屈は明快だった。


レイチェルは短く息をつき、頷いた。

「……現実的ね。記録様式を少し直すだけで済む。これなら周りに無理を強いないわ」


「で、でもそんなことできるんですか?」

カンナが不安げに尋ねる。


「帳簿のフォーマットを修正する権限なら、私にある」

レイチェルは即座に答えた。

「むしろ今まで無かった方が問題だったわね」


「レイチェルさん……」

カンナは胸をなでおろし、小さく笑みをこぼした。


「でも、ちゃんと見なかったのは私の落ち度です。次からは、必ず確認します!」

きゅっと拳を握り、声を張る。


その真剣さに、ジークがにやりと笑った。

「よしよし、やる気になったな。まぁ、今回のは被害ゼロだ。結果オーライだろ」


「——そうとも限らん」

低い声が割って入る。


全員の視線が向いた先。

ライゼルが椅子に背を預け、淡々と依頼書を見下ろしていた。


「小さな綻びは、大きな破綻を呼ぶ」

静かな声。

「今日のように依頼人がすぐに見つかればいい。だが、もし遠方に帰っていたら? もし署名の欠落に気づかぬまま書類が外に出ていたら? その一枚で命を落とすこともある」


「……そこまでですか?」

カンナがおずおずと口を開いた。

目の前の依頼書を抱える手は、小さく震えている。


ライゼルは少しの間、視線を落としたまま黙していた。

やがて低い声で語り出す。


「……昔、盗賊の根城を潰す任務に就いたことがある」


カンナが思わず息をのむ。


「報告には“拾九名”とあった。——十九人という意味だ。だが、現場に届いた報告では“九名”と認識された」

ライゼルは淡々と続ける。

「普段は“十九”や“19”と書かれることが多い。“拾”は見慣れない。……だから、受け取った者は見落とした」


ジークが腕を組んだまま、視線を落とした。

普段なら茶化す場面だが、声は出ない。


「部隊は“九人の盗賊”だと踏んで、突入した。だが実際は十九。倍以上だ」

声は淡々と落ちる。

「撤退もできず、死を覚悟した」


場が静まり返る。

レイチェルは無言で眉を寄せ、ペン先を止めた。


「結局、増援の到着救われた。だが——」

ライゼルは静かに言葉を落とす。

「誤解がなければ、犠牲者は出なかったかもしれない」


カンナの唇が震える。

「……た、ただの……数字の違い、で……」


「“ただの”ではない」

ライゼルが低く返す。

「戦力の読み違えはあり得る。だがこの件は、防げたはずの誤りだった。」


カンナがぎゅっと依頼書を抱き締める。

背筋に冷たいものが走った。


「……っ」

声にならない声が漏れる。


ジークも笑みを消し、短く息を吐いた。

「……確かにな」


レイチェルは机に視線を落とし、真剣な顔で帳簿をめくった。

「だからこそ、仕組みで支える必要があるのよね」


「ええ」

メルシェは端末に新しい様式案を入力しながら答えた。

「注意力に依存する限り、必ず抜け落ちは発生します。ならば“抜け落ちにくい形”を作るしかありません。……数字の表記統一も必須要件です」


「ふふ……まったく、あなたは」

レイチェルはわずかに口元を緩める。

「こういう時だけ、即断即決で動くのね」


「必要な対応です」

メルシェは小さく首を傾げた。


「ほんと、仕事至上主義ですね……」

カンナが苦笑まじりに呟いた。


けれど、その声には少し安心の色が混じっていた。


窓口に流れる空気は、さっきまでの慌てふためきから一転、静かに引き締まっていた。


誰もが心に刻んでいた。

——情報は刃物。

一枚の紙、一つの署名。

それが命を左右するのだと。


ジークがふっと笑い、肩をすくめた。

「おっかねぇ研修だと思ってたけど……意外と、仲間意識の再確認ってやつかもな」


「……再確認は必須です」

メルシェが即座に返す。

「忘却は避けられません。繰り返すことでしか防げない」


「だからまた研修か」

ジークが頭を抱えると、場に小さな笑いが戻った。



窓から差す光は柔らかく、先ほどまでの緊張をわずかにほぐしていく。


カンナはぽつりと漏らす。

「……でも、本当に、背筋が伸びますね」


「伸びてるうちが一番よ」

レイチェルが隣で帳簿を抱え直す。

「油断してたら、また同じことを繰り返すわ」


「気をつけます!」

カンナは力強く答えた。


ジークは後ろから二人を見て、にやりと笑う。

「まぁ、完璧なんて無理だろ。だから、俺たちでカバーすんだよ」


「……カバー、ですか」

メルシェが首を傾げた。


「おう。お前が数字の怪物みてぇに細かいとこ拾うから、俺らが雑なとこ補う。逆も然りだろ」


「補完関係……有効です」

メルシェは真顔でうなずいた。


「だろ?」

ジークが得意げに笑う。


ライゼルは窓際に視線を向けたまま、静かに言葉を落とした。

「……小さな綻びを潰し合えるうちは、生き残れる」


沈黙が落ちる。

だが、誰も否定はしなかった。



机の上に置かれる一枚一枚の書類。

そこに込められる意識は、先ほどまでとは違っていた。


——記録は重い。

——一筆が命を左右する。


その余韻を胸に、それぞれが再び仕事へと戻っていった。

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