37. 情報は刃物
会議室は珍しくほぼ満席。
長机が並び、書類を抱えた職員たちが次々と腰を下ろしていく。
窓口のカンナとレイチェル、特務のメルシェ。
少し離れた席にはジークやライゼルの姿。
普段は別々の部署で働く面々が、こうして一堂に会するのは珍しい。
「……全員か。研修って聞いたけど、本気で必須にしたんだな」
ジークが椅子を傾け、後ろに並ぶ顔ぶれをざっと眺める。
「当然です」
メルシェは端末を開いたまま、視線を上げることなく答える。
「内部資料の流出は、組織存続に直結します。全員参加は妥当です」
カンナは両手を膝に置き、少し落ち着かない様子で周囲を見回した。
「……でも、こんなに集まると、ちょっと緊張しますね」
レイチェルは帳簿を閉じ、淡々とした調子で応じる。
「講師の前で舟を漕ぐのは、やめておいた方がいいわよ」
「うぅ、気をつけます……」
そんなやり取りの最中、前方の扉が開いた。
灰色の上着をまとった講師役の職員が入室する。
片手には厚い資料の束。
眼鏡の奥の目が一同を鋭く見回した。
「——全員揃っているな」
静かな声に、場がすっと引き締まる。
講師は机に資料を置き、手早く配布を始めた。
「今回の研修は“情報の取り扱い”だ。
理由は言うまでもない。数日前の流出を受け、再発防止を徹底するためだ。今日の内容は基礎であり、同時に最低限の義務でもある」
ジークが小さく鼻を鳴らす。
「おお……説教くさい匂いがしてきたな」
「静かに」
ライゼルが短くたしなめる。
講師は手元の書類をめくりながら淡々と続けた。
「まず、任務報告の精度についてだ。
——一字一句、正確に記録せよ。
依頼内容、日時、関係者、証紙の番号。曖昧な記載は、後に“改ざん”と見なされる危険がある」
カンナが小さく息をのむ。
「えっ……番号まで全部……」
「当然です」
レイチェルが横目で釘を刺す。
「“おおよそ”で通ると思わないことね」
講師は続ける。
「次に、書類の扱い。
修正が必要なら、理由を明記した上で訂正印を押すこと。二重線もなく書き直した書類は、外部に渡った瞬間“改ざん”と判定される。信用を失うのは一瞬だ」
メルシェが淡々とペンを走らせる。
「記録。訂正印の有無が改ざん認定の基準」
「うわ……怖い」
カンナが肩をすくめる。
「怖いのは事実だ」
講師の声が低くなる。
「情報漏洩は命に関わる。たとえば依頼人の住所が外に出れば——その家族が狙われる可能性すらある」
場の空気が重くなった。
ジークもさすがに口を閉ざし、腕を組んだ。
「さらに、回覧の記録だ」
講師は指で机を軽く叩く。
「書類は誰が、いつ、閲覧したかを残す。署名でも端末でも構わない。
“誰が触ったか分からない紙”は、正式な証拠にならない」
ライゼルが静かに頷いた。
「責任の所在を明らかにするため、か」
「その通りだ」
講師は短く答える。
そして最後に、声を一段と落とした。
「最も重いのは、複写と持ち出しだ。
許可なく写すな。許可なく外へ持ち出すな。
一枚のコピーが市場に流れれば、依頼人も証人も危険に晒される。……信用の失墜は、依頼そのものを消す」
資料に「機密」の朱印が並ぶ。
カンナの手が震え、ペン先が紙にカツンと音を立てた。
講師は全員を見回し、静かに告げた。
「今日の研修で求められるのは知識ではない。行動だ。
書き方一つ、扱い一つが、外から見れば“ギルド全体の姿”になる」
張り詰めた空気の中、誰も口を開かなかった。
ただ、机に並んだ資料の朱色だけが鮮やかに目に残った。
講師は配布資料を閉じ、机の前に立った。
「ここまでは原則だ。では次に、演習を行う」
数枚の紙束が各机に配られる。
依頼報告の見本だが、わざと抜けや誤記が散りばめられている。
「この中から不備を三つ以上指摘しろ。制限時間は十分」
短く告げられると同時に、部屋に筆記音が広がった。
*
カンナは眉を寄せながら紙に目を落とす。
「えっと……依頼人の名前が……“商会関係者”って……ざっくりすぎません?」
「それは立派な不備」
レイチェルは即座に書き込みながら頷いた。
「依頼人を特定できない記録は、無効扱いになる」
「なるほど!」
カンナが必死にペンを走らせる。
その隣でジークが腕を組み、斜めに資料を眺めていた。
「……報酬の金額が“袋一つ”って書いてあるぞ。曖昧すぎる。通貨単位と額面が明確でないと、横領の温床だろ」
メルシェは無言で紙を見つめ、すらすらと指摘を列挙していく。
「記録番号の欠落。署名の不一致。日付と曜日の齟齬」
一行ごとに正確に並ぶ字が、隣のカンナの紙と対照的だった。
「さすが……」
カンナがぽかんと呟く。
ライゼルは沈黙を保ったまま、淡々と数箇所を書き込んでいく。
講師が覗き込み、小さく頷いた。
「見落としの少なさは実地経験の差だろう。的確だ」
*
十分後、講師が手を叩いた。
「そこまで。では発表を」
カンナが最初に手を挙げた。
「えっと! 依頼人の記載が曖昧なのと、報酬がはっきり書かれてないのと……あ、あと! 署名が違うのも気づきました!」
「よろしい」
講師が軽く頷く。
「その三つだけでも、依頼は無効になる。受付で通した時点で、ギルドの信用が傷つく」
カンナの顔が引き締まった。
「……こ、怖いですね」
「怖いと思うなら正しい。恐れは誤りを減らす」
講師は次の発表を促した。
レイチェルが淡々と追加を述べる。
「金額表記が二種類ある。——『金貨十枚』と『袋一つ』。どちらかが虚偽。
さらに、日付が“霜月十二日(火)”と書かれているけれど、その日は月曜。曜日がずれてる」
「よく気づいたな」
講師は満足げに頷いた。
「虚偽か単純な誤記かを判断するのは後だが、どちらにせよ“齟齬がある”という事実が大事だ」
ジークが片手を上げた。
「質問いいか? 依頼人がわざと曖昧に書いてきた場合はどう処理する?」
講師は間髪入れずに答える。
「受けるな。受けてはならん。依頼人の安全を守るのもギルドの責務だ。名前を隠すならば、正規の手続きを踏ませること。例外を作ると組織全体が脆くなる」
ジークは静かに頷いた。
その横顔を見て、カンナが少し驚いたように瞬きをする。
*
最後に、メルシェが読み上げる。
「署名の不一致、番号の欠落、日付の齟齬……加えて、証紙の押印が途中でかすれています。改ざんの可能性があります」
講師は一瞬だけ目を細めた。
「よく見ているな。……その通りだ」
講師は全員を見渡し、静かに続けた。
「不備は小さなものに見えるだろう。だが、それが積み重なれば“情報の信頼性”は崩れる。
依頼人はもちろん、外部の役所や監査部にも提出する書類だ。
——そこに嘘や曖昧さがあれば、ギルド全体が『信用ならない』と刻まれる」
カンナがごくりと喉を鳴らした。
レイチェルは無言でペンを置き、背筋を正す。
ライゼルは目を細め、資料を閉じた。
ジークがぽつりと呟く。
「結局……書類一枚で、人が死ぬこともあるってわけだ」
「そうだ」
講師の返答は、短く重かった。
沈黙の後、メルシェが手を挙げる。
「質問。……万一、流出が起きた場合、初動はどうなりますか」
講師は即答する。
「封鎖だ。まず記録を止め、流出経路を断つ。次に監査部と治安隊へ通達し、関係者を保護する。
その一手が遅れれば、依頼人の命が消える」
明快な答えに、場の空気がさらに引き締まる。
メルシェは頷き、淡々と書き留めた。
カンナが恐る恐る尋ねた。
「……じゃ、じゃあ……今回みたいに情報が外に出ちゃった場合って……」
「責任を取るのは、最後はギルドそのものだ」
講師の声は硬い。
「一人の過ちで全員が疑われる。……それが組織に属するということだ」
返す言葉がなく、沈黙が落ちた。
*
やがて講師が手元の砂時計を裏返す。
「以上で演習は終わりだ。残りは質疑の時間とする」
それぞれの机に残るメモ。
そこに並ぶのは数字や日付だけではなく——“責任”という重い言葉だった。
会議室を包む静寂は、午前の日差しの中でなお強く残っていた。
会議室の空気は、緊張の糸をぴんと張ったままだった。
講師は全員の顔をゆっくり見渡し、最後に口を開いた。
「よいか。——情報は刃物だ」
短い言葉に、全員の視線が集中する。
「正しく扱えば命を守る。だが一度誤れば、人を殺す。
だからこそ我々は、情報を“信頼できる形”で残し、守り、伝えねばならない」
静かな声だったが、部屋にずしりと響いた。
「任務の成否は、報告の一行で変わる。
依頼人の信頼は、書類の一枚で崩れる。
そして……組織の信用は、一度失えば戻らない」
誰もが息を詰めて聞き入っていた。
講師は手元の資料を閉じ、軽く机を叩いた。
「今日の研修で学んだことを、業務に落とし込め。
忘れるな。情報を扱う者の一筆一筆が、ギルドを支えている」
その言葉を最後に、講師は深々と一礼した。
*
静寂がしばし続いた。
最初に息を吐いたのは、カンナだった。
「……なんか、背筋がしゃんとしました」
彼女の言葉に、張り詰めていた空気がわずかに緩む。
「当たり前のことを言われてるだけなのに、妙に重いな」
ジークが腕を組み、椅子の背に体を預ける。
「でも、確かに……報告一つで命が繋がるって考えると、笑ってらんねぇ」
普段の軽口を抑えた声音に、隣のレイチェルが目を向けた。
「あなたでもそう思うのね」
「おいおい、俺を何だと思ってんだ」
ジークは片手をひらひらさせて笑う。
ライゼルは静かに頷いた。
「……書類や報告の正確さが、兵站を決める。戦地でも同じだった。
軽んじれば、誰かが餓死し、誰かが遅れて死ぬ」
淡々とした言葉だが、その奥に積み重ねた現実の重さが滲んでいた。
カンナは思わず口を結ぶ。
それでも小さく拳を握り、真っ直ぐに言った。
「わ、私も……ちゃんと書きます! 間違えないように!」
「意気込みは結構。でも実際は“確認”が一番大事よ」
レイチェルが静かに釘を刺す。
「自分が完璧だと思わないこと。二重三重に見直して、初めて誤りは減る」
「は、はいっ!」
カンナが背筋を伸ばす。
そのやり取りを聞きながら、メルシェは淡々とメモを整理していた。
「……報告様式の再設計を提案します。現在の用紙は、記載漏れの発生率が高い」
「おいおい、もう改善案かよ」
ジークが思わず吹き出した。
「やっぱお前、仕事至上主義だな」
「業務効率の最適化は当然です」
メルシェは首を傾げる。
「……効率化に反対意見はありますか?」
「いや、ねぇけどよ……」
ジークが頭を掻き、ライゼルはわずかに口元を緩めた。
「正しいが、融通がないな」
「……必要最小限の柔軟性は考慮します」
メルシェの返答に、思わずレイチェルも小さく笑った。
「柔軟性を“必要最小限”って言う人、初めて見たわ」
*
研修が終わり、解散の声がかかる。
椅子の音が一斉に響き、紙束がまとめられていく。
「いやー、頭使った……午後の業務に響きそうです」
カンナが肩を回すと、ジークがすかさず茶化した。
「安心しろ、元からお前の頭は空いてる分が多い」
「ひどい!」
カンナが頬を膨らませる。
「まあでも……」
ジークは真顔に戻り、紙束を軽く叩いた。
「これで“うっかり”が減るなら、意味ある研修だな」
「当たり前よ」
レイチェルが呆れたように返す。
「一人のうっかりで、ギルド全体が疑われるんだから」
「そういうのは……俺ら、忘れがちだ」
ジークがぼそりと呟いた。
メルシェは淡々と補足する。
「忘却は防げません。定期的に再確認するしかありません」
「……結局、また研修か」
ジークが頭を抱えると、場が少し和んだ。
ライゼルがその空気を切るように、短く告げる。
「だが、必要なことだ」
低く重い一言に、全員が頷いた。
*
会議室を出る廊下。
昼の光が差し込む中、五人は並んで歩く。
「それにしても……」
カンナがぽつりと呟いた。
「今日の話、ちょっと怖かったです」
「怖いと思ったなら、まだ大丈夫よ」
レイチェルが横から言う。
「油断してる人ほど危ないんだから」
「う……気をつけます」
カンナがしょんぼりすると、ジークが頭を軽く叩いた。
「まぁ、完璧なんて無理だ。けど、仲間でカバーすりゃいい」
「ジークさん……」
「おっと、真面目なこと言っちまったな。忘れろ」
彼が鼻を鳴らすと、笑いが起きた。
ライゼルはふと視線を横に流した。
「……いずれまた、試される時が来る」
誰に言うでもなく落とされた言葉。
その静かな重さに、自然と口を閉ざす一行。
メルシェだけが、真っ直ぐに前を見ていた。
「……その時は、記録を基に動きます」
彼女のぶれない声音が、ひとつの指針のように響いた。
廊下の先、窓口へ戻る足音が重なる。
研修で得た緊張と笑いの余韻を抱えながら、午後の業務へと歩みを進めていった。




