32.炎上の翌朝
霜月十四日、朝。
窓から差し込む光。
まだ冷えを残す会議室を淡く照らしていた。
長机の上には紙の山と端末が並ぶ。
墨の匂いがほのかに残っている。
ライゼルは椅子に腰掛け、短く吐息をついた。
「……内部からの流出は確実だ」
ジークは背もたれに大きく体を預ける。
腕を組んで鼻を鳴らした。
「おかげで全員研修だとよ。紙の山片付けるより、堅苦しい話聞かされる方がきついぜ」
「情報管理は基盤。流出は組織存続に直結します」
メルシェが端末を閉じ、冷静に告げた。
その声は淡々としていた。
机に落ちる影は硬い。
ジークは片眉を上げ、口端をゆがめる。
「堅ぇな。けどまぁ、黒塗りだらけの資料が出回ったってだけでも十分面倒だ。街ん中じゃ、すでに尾ひれついて広まってるぜ。証言者が消えた”だの“黒幕がいる”だの騒いでやがる」
ライゼルが頷いた。
「“断片を拾い集めて真実に見せかける”。噂の拡散は情報戦と同じだ。止められない流れをどう扱うかが重要になる」
「ギルド内部でも調査班が立ち上がったそうです」
メルシェが短く報告を添える。
「削除までの時間、閲覧数、投稿経路。すべて追跡中とのこと」
「で、研修だろ」
ジークが椅子をきしませ、片手で天井を指した。
「“情報を持つ者の責務”ってやつか。俺らまで受けろってのは、信用がねぇってことか?……で、研修中に寝たら減点か? 起きてるだけで合格か?」
メルシェが淡々と即答する。
「居眠りは“理解不足”と見なされます。記録に残ります」
ジークが顔をしかめる。
「……マジかよ。夢見ながらでも知識は定着すんだがな」
ライゼルが静かに首を振る。
「知識は定着しても、信用は削がれる。
それに研修する事は信頼云々の問題ではない。再発防止に全員を巻き込むのが組織の常套手段だ。……それ自体は正しい」
「正しいけどよ、やっぱ気分は良くねぇな」
ジークが机を小さく叩き、苦々しく笑った。
メルシェは表情を崩さず、端末を無言で閉じた。
ライゼルが小さく眉を寄せる。
「……問題は、ここからだ。噂は必ず我々の調査と結びつけられる。街が“真実”と“虚構”を混ぜ合わせる前に、我々自身が整理しておかねばならない」
ジークがふっと息を吐き、視線を天井に泳がせた。
「整理、ねぇ……。だったらまず、“リーク”した奴を抑えねぇとな」
「犯人探しは後です」
メルシェの声は変わらず淡白だった。
「重要なのは、真実と噂を分離すること。情報混濁は、調査を遅延させます」
ライゼルは短く頷き、二人を見渡した。
「調査の成果を持ち寄り、証拠を積む。その上で流言を切る。それが今日の我々の仕事だ」
ジークは口端を吊り上げ、やれやれと肩をすくめる。
「結局やることは変わらねぇか。」
「それしかない」
ライゼルの声は硬く、だが静かに会議室に落ちていった。
窓の外から朝のざわめきが流れ込む。
街の喧噪。
紙をめくる乾いた音。
会議室の空気は冷たいまま。
三人は次の報告を待っていた。
*
扉が二度、控えめに叩かれた。
「失礼します。カイルさんとティモさんをお連れしました」
職員が頭を下げ、二人を会議室に導き入れる。
ティモは胸に帳面を抱えたまま、緊張で肩をすぼめている。
カイルは背筋を伸ばし、落ち着いた歩調で入室した。
ジークが手を振って椅子を示す。
「おう、座れ。ティモの胃が爆発する前にな」
ティモはぎこちなく笑みを浮かべ、慌てて席に着いた。
カイルは軽く一礼し、書類を机に置く。
「まずは私から報告を——」
その言葉を遮るように、ジークが片手を上げた。
「悪い、カイル。その前に一つ。……昨日の件、掲示板に内部資料が流れて荒れた。あれで商会の名も飛び交った。先に謝っとく」
メルシェも端末を閉じ、静かに続ける。
「削除は迅速でしたが、断片が拡散しています。黒塗りでしたが“証言者所在不明”などの文言が伝播しました。ご迷惑をおかけしました」
ライゼルは深く頭を下げた。
「監督責任はギルドにあります。今回の混乱について、私からも謝罪を」
会議室に短い沈黙が落ちる。
カイルは姿勢を崩さず、淡々と応じた。
「謝罪は不要です。資料は確かに流出しましたが、現場の対応は迅速だったと聞いています」
ティモも小さく頷き、帳面を抱き締める。
ジークが苦々しく鼻を鳴らす。
「止めたっつっても、噂は残る。すまねぇ。……とりあえずこっちは研修だ。」
メルシェが端末に視線を落とし、短く告げた。
「全員必須受講です。例外は認められません。今回の件我々は重く受け止めています」
ライゼルは小さく頷き、落ち着いた声で結んだ。
「……商会の業務に支障が出たら、遠慮なく言ってくれ。対応する」
カイルは姿勢を崩さず、静かに頷いた。
「お気遣い、感謝します。……では、仕切り直して本題に入りましょう」
ライゼルが顎を引き、促す。
全員の前に示されたのは、一枚の履歴書。
隅には端正な字で書かれた名。
生年月日、出身地、経歴。
どこを見ても整っていて、不自然な箇所はない。
「ラド。年齢二十七。出身は隣国。
前職は隣国のシェルダ商会勤務。——一見すれば、特段の違和感はありません」
ティモが小さく息をつき、胸に抱える帳面を握り直す。
「確認のため、同商会へ使いを出しています。」
カイルの声がわずかに低く落ちる。
「そしてラド以外に、現時点で所在の確認出来ていない者が二名います。」
会議室に短い沈黙が落ちる。
「そしてその三名共が隣国ゆかりの者達でした。隣国出身は珍しくはありません。偶然の可能性はあります。しかし軽視も出来ません」
ジークが腕を組み、鼻を鳴らした。
「三人まとめて同じ隣国出身、で三人とも消えた。……偶然にしちゃ出来すぎだな」
メルシェが短く言った。
「繋がりがあると決めつけるのは早計です。同商会に偏っているのは事実。しかし偶然の可能性も否定はできません」
ジークが椅子をきしませ、口端をゆがめる。
「一見違和感なしってのが逆に臭ぇな。履歴書なんざ見栄え整えりゃ何とでもなる」
カイルは淡々と応じた。
「はい。だからこそ確認を重ねる必要があります。
記録上は問題ない。だが現実に人が消えている」
ティモが不安げに口を開いた。
「ラドさんだけじゃなくて……他の人まで……」
声は細く震えていた。
メルシェが打鍵を止め、冷静に告げた。
「記録:履歴書=整合性在/出身=隣国商会/隣国出身者他二名=失踪」
ジークが机を小さく叩き、鼻を鳴らす。
「どっちに転んでも碌でもねぇな。偶然なら偶然で気味が悪ぃし、仕組まれてたならもっと悪い」
カイルは端末を閉じ、低く言った。
「このままでは商会全体への疑義にも繋がりかねません。
調査を続けますが、慎重さが必要です」
ライゼルは深く頷き、視線を三人に巡らせる。
「今日の整理で核心に届くとは限らない。
だが、全員で断片を積み重ねる。
……それが唯一の道だ」
会議室の窓から、光が差し込んでいた。
紙の上に伸びる影は、まだ形を定めてはいなかった。
カイルの言葉が途切れる。
会議室には沈黙が落ちた。
紙の上に視線を落とす者、組んだ腕に力を込める者。
それぞれが思考を巡らせる。
ティモが小さく咳払いをした。
「……つ、次は、僕から……」
声はわずかに震えていた。
「昨日あの後、搬送班や商会の人たちに聞いて回りました。……ラドさんの、普段の様子について」
ジークが顎をしゃくる。
「で、何が出てきた?」
ティモは胸の帳面を強く抱きしめながら、言葉を繋いでいった。
「几帳面で、手際も良くて、頼りにされていて。誰も悪い印象は持っていませんでした。むしろ“真面目で、感じがいい人”って」
メルシェが端末に打鍵し、短く頷く。
「職務上の違和感=なし」
「だからこそ、昨日荷車にぶつかった時の対応がラドさんらしくなくて。後……」ティモは言葉を濁した。
視線が帳面の端をさまよう。
ジークが眉をひそめる。
「ん? 歯切れ悪ぃな。出せるもんは全部出せ」
ティモは顔を赤くし、しばし口ごもった。
やがて観念したように小さな声で続けた。
「……休みの日に、一緒に出かけたとか、飲みに行ったとか……そういう話は、一度も出てきませんでした」
カイルが目を細める。
「つまり、職場以外での交友関係が見えないと」
「はい……」ティモはさらに声を落とす。
「それで、みんなが……えっと……その……」
「なんだ、いきなりはっきりしなくなってきたな」ジークが口端をゆがめる。
「噂のまま言ってみろ」
ティモは深く息を吸い込み、しぼんだ声で吐き出した。
「……束縛の強い彼女でもいるんじゃないかって。……本人も否定はしなかったと」
室内に、わずかなざわめきが走った。
ティモは慌てて言葉を継いだ。
「ほ、本当にそういう人がいて、ちょっと揉めて……急いで会いに行ったとか……そ、そんな事……」
口にしながら、自分でも力なく肩を落とす。
「……無いですよね……」
沈黙。
重い空気が一瞬広がったが、ライゼルが静かに断ち切った。
「現時点では全て憶測にすぎない。ティモ、君が今言ったそれもまた、一つの可能性として否定は出来ない」
支えるような響きがあった。
ティモは俯きながら、小さく頷いた。
「……はい」
メルシェが端末を閉じ、冷静に結論をまとめた。
「記録:職務上の印象=好意的。私生活=痕跡希薄。交友・交際=不明」
ジークが鼻を鳴らし、椅子に深くもたれた。
「仕事じゃ真面目な好青年、プライベートは見えねぇ。……余計に胡散臭ぇな」
「見えないこと自体が、不自然なのです」メルシェが補足する。
ジークが口端をゆがめる。
「お前が言うかよ……」
普段なら笑いが漏れる一言。
だが場は重く、誰も笑わない。
ライゼルが横目を向け、短くたしなめる。
「——今は茶化す時ではない」
ジークは肩をすくめ、苦笑を残した。
「悪ぃ」
窓から差す光が、静かな影を床に落としていた。
全員の胸に、答えのない不安がじわじわと広がっていった。
空気は重く沈んでいた。
木目の机に映る光は穏やか。
しかさ、その下に広がる沈黙は硬い。
ライゼルが視線を落とし、短く結ぶ。
「履歴書には不自然は無い。だが、同じ隣国出身の者が相次いで消えている。これは偶然とは言い切れない」
カイルも静かに頷く。
「商会としても、出身先との照会は必須です。使いを出している以上、返答が来るまでは断定はできません」
メルシェが端末を操作し、淡々とまとめた。
「現状の要素を整理します。
——勤務態度=好意的評価。
——交友関係=不明。
——生活痕跡=希薄。
——出身=隣国。」
ジークが腕を組み、鼻を鳴らした。
「真面目で好かれてたってのは事実だ。だがプライベートは影も形もねぇ。……こいつぁ、むしろ器用にいい奴を演じてたって可能性もあるぜ」
ティモは唇を噛んだまま、小さく俯いた。
「……やっぱり、ラドさんは……」
言葉は続かず、拳だけが膝の上で震えていた。
ライゼルが静かに首を振る。
「ジーク、可能性に過ぎん。——事実は、まだ揃っていない」
「……あぁ、わかってるさ」ジークが肩をすくめる。
「ただ、どうにも腹の虫がおさまらねぇんだよな」
場にわずかな苦笑が走った。
硬さを削ぐには程遠い。
しかし張りつめた空気に小さな綻びを作るには十分。
だがすぐに、再び重い沈黙が戻ってくる。
外から差し込む光が机の端を照らす。
その明暗の境目に全員の思考が沈んでいた。
カイルが視線を伏せたまま、低く吐き出す。
「……追うほどに、その姿が霞んでいくように感じます」
沈黙が落ちた。
窓の外では朝の陽光が差し込んでいるのに、その言葉は薄い靄のように場を包んだ。
ライゼルがわずかに身を乗り出し、声を落とす。
「ああ、だが立ち止まるわけにはいかない」
短い言葉は空気を断ち切った。




