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3.午前の三人

昨夜の掲示板は“傾国現る”で盛り上がっていた。

——けれど窓口の朝は、いつも通りに始まる。


磨かれた木のカウンターが薄く光り、番号札の束は輪ゴムの跡を整えられている。朱肉の蓋は上を向き、息を潜めていた。


レイチェルは帳面を開き、角を揃えて言った。

「昨日の処理時間、平均より一刻あたり七枚増し。誤記ゼロ。——以上」


「以上で済ませないでくださいよ先輩!」

カンナはすでにテンション高め。釣銭箱の鍵を胸に下げたまま、カウンターに身を乗り出した。


「昨日のメルシェさん、もうすごかったんですから! 紙が、紙が踊ってた! “書類ってバレエできるんだ……”って! しかも音が“しゃらん”って! あれは小さなオーケストラでした!」


「バレエは踊りです」

メルシェは淡々と返し、端末の時刻を確認して掲示板の端を直す。

「書類は……紙です」


「そういう意味じゃないです!」

カンナは空中で紙束をぱらぱらさせる真似をした。

「こう、ぱららって広げて、必要な項目だけすっと抜き取って、“とんっ”て角を合わせて。あの“とんっ”が世界を平和にする!」


「はいはい」

レイチェルは朱肉の蓋を軽く開け、乾きを確かめる。

「午前は内部確認と準備優先。外への告知は定例通り。大声は控える。……カンナ」


「ひゃい!」

「声量が上がってる」

「ひゃい……(小声)」



カウンターに道具が並ぶ。番号札、控え紙、計算札、筆記具、端末。どれも無駄なく配置されていく。


カンナはメルシェの指先を凝視した。

「それです! “紙の角だけで整える”やつ。令嬢みたいな手の角度……舞踏会行ったことないけど!」


「舞踏会の経験は不要です」

メルシェは紙束を軽く叩き、角を揃える。

「紙は四辺と四角。角を合わせると整います」


「説明まで整ってる……!」

カンナは感嘆し、鏡で笑顔の角度を確かめる。

「よし、私もやります! “角を合わせて均す”!」


「復唱は有効です」

「はいっ!」


カンナは紙束を抱え、メルシェの動きを真似して、ぱららっと広げた。

軽やかな音。紙の列が揃い、角が揃い——

次の瞬間、彼女は勢いのまま紙束を上下逆さにひっくり返してしまう。


「……あれ?」

紙の上部に来るはずの見出しが下側に。控えの色も逆。番号札の向きも逆。

「え、えっと、これは……逆順?」


「……逆順処理の実装は聞いたことがありません」

メルシェが真顔で言う。

「要件定義を確認。運用では上から下、左から右、番号は昇順、控えは背面。逆順は——」


「実装って言いました? 今、運用とか要件とか言いました?」

カンナは半泣き笑いで紙束を抱え直す。

「あの、単に、ひっくり返しちゃっただけです!」


「ミスです」

レイチェルが冷静に斬る。

「新機能ではありません。——ただし、気づいて直せたなら問題ない。はい、向きを戻して。控えの色はこちらが表」


「は、はいっ! すみません! あの、勢い余って“世界平和”を実装しようとして、逆順で世界を混乱させました!」


「世界の混乱は避けてください」

メルシェは紙束の端に触れ、くるりと正しい向きに示す。

「……角を合わせる際、手首の回内角度が過剰になると、紙束が反転します。回外角度で補正すると防げます」


「回内角度……回外角度……(復唱)」

カンナは腕をくるくる回し、「こう……こう……?」と首をかしげた。

「理屈は全然分からないのに、メルシェさんに言われると“なるほど”って思っちゃうの、ずるい!」


「ずるさはありません」

「表現です、表現!」


レイチェルは朱肉の蓋を軽く叩き、区切るように言葉を落とした。

「はい。——次。番号札の束、昇順で三束に分ける。カンナ、やり方は?」


「任せてください! ここ数日で“番号札三分割の舞”を会得しました!」


「舞ではありません」

「表現ですって!」



番号札の束が、ぱちぱちと小さく鳴る。

カンナは調子に乗って軽やかな指さばきを誇示した——が、途中で止まった。


「……あれ、四十二が見当たりません」

「四十二は存在します」

メルシェは即答し、端末の簡易照合を開く。

「昨日の終業前、四十台をまとめて袋に入れました。袋の縁に……」


棚を開け、袋の折り返しから一枚を滑らせる。四十二。

「ありました」


「うわ、魔法みたい!」

「魔法ではありません」

「表現です!」


レイチェルが目の端で笑い、しかし口調は変えない。

「散らかさないこと。——次、規約掲示の差し替え。新しい注意事項は?」


「“急ぎ便の連携は左窓口へ”を太字に。あと“乾燥庫の蝋封不可”を一行上げる。香りが移るので」


「蝋封不可……あ、これ昨日のおじさんの件!」

カンナは思い出し笑いをこぼす。

「“だよな”って言って去っていったの、好きだったな……」


「感想の記録は不要です」

メルシェは紙端を滑らかに撫で、画鋲を四隅に打つ。


カンナは感動を重ねる。

「画鋲の向きまで綺麗……! 私、こういうの見ると“女神……”って言っちゃうんですよね。メルシェさん、ほんと女神みたいで」


「宗教的信仰の対象ではありません」

「違います、比喩です!」


レイチェルが短く咳払いをし、静かに区切る。

「“女神”の表現は避ける。窓口は事実だけを扱う」


「は、はい……」

カンナは肩をすぼめるが、目は輝いたまま。

「でも、事実として“綺麗”は言ってもいいですよね?」


「発言は控えめに」

「……はい」



三人の声はカウンターの木目に小さく跳ね返り、すぐに吸い込まれる。

朝の光が扉の隙から差し込み、紙の縁に細い縞を作った。


端末の画面には、内勤用の掲示。最上段には定例の文言。


——本日は通常運用。混雑時は合図優先。


「合図優先……はい!」

カンナは自分に向けて頷き、次の作業へ。

「控え紙の色、今日は“桃・青・黄”の順で表に出します。視認性で混乱が減るって昨日学びました!」


「学習の速度は評価します」

メルシェは控え紙を三色に分け、視線の導線が最短になるよう重ねた。

「色は強いので、並置の順で速度が変わります」


「速度が変わる……(復唱)」

カンナは端末に小さくメモを打ち込む。

「メルシェさんの言うこと、なんでも速度に変換される気がする……」


「速度は重要です」

「でました、速度大好きヒロイン……」


レイチェルが視線だけ送る。

「“ヒロイン”と言わない」


「ひゃい……(小声)」



ふと、静かな間。紙の音も靴音も、呼吸に溶けた。


「——昨日の話、いいですか?」

カンナが声を落とし、身を乗り出す。

「列の真ん中にいた冒険者の人、完全に恋に落ちてましたよね。目が“ぽーっ”って」


「落下による怪我は確認していません」

メルシェは真面目に答え、控えの束の角を整える。

「列の安全性は……保たれていました」


「怪我じゃないです! 比喩です!」

カンナは両手をばたばたさせ、困ったように笑う。

「“恋に落ちる”は慣用句! 落下じゃない!」


「慣用句の意味は把握しています」

「じゃあ、そういう意味で……」


「ですが業務と関係ありません。速度に影響しない限り、観測対象からは除外します」


「ほら出た、“観測”と“除外”……」

カンナは肩を抱いて震えるふりをし、ぱっと笑った。

「でも、そういうところが好きです!」


レイチェルが軽く眉を上げる。

「“好き”の使用は控えめに」



備品確認。計算札、封緘紐、控え袋、画鋲、朱肉布。

「一枚足りません!」カンナが叫ぶ。


空気が一瞬止まった。


メルシェは窓際を見て、すぐ屈む。

「昨日の終業前、朱肉を拭きました。布は干すと乾きが早い。干す位置は……」


窓の外、細い光の帯に視線を止め、カウンター下にしゃがむ。

「ありました。足元です」


「え、なんで足元に?」

「干した布が落下し、縁で止まったものです。空調の角度で落ちやすい」


「空調の角度まで観測済み……」

カンナは目を丸くし、口を尖らせる。

「敗北感……!」


「敗北ではありません。収束です」

メルシェは布の埃を払い、畳んで所定の位置へ。

「再発防止として、干し場を一段高い位置へ変更します」


「再発防止……(復唱)」

「記録に残して」

レイチェルは帳面に一行、細く書き込む。

「“朱肉用布、干し位置変更。落下対策”」

「はいっ!」



作業は細かくても流れは途切れない。三人のやり取りは“淡々”と“賑やか”を往復する。


カンナがふと指を立てる。

「そうだ、メルシェさん、“笑顔練習カード”はやらないんですか?」


「必要性を感じません」

メルシェは端末で時刻を確認しながら答える。

「笑顔の角度は相手の緊張度によって最適化されます。固定角度は汎用性が下がります」


「最適化って言葉……」

カンナは笑い、鏡を覗いてすぐに伏せた。

「でも昨日のおじいさん、帰り際“ありがとよ”って、すごく良かったですよね。メルシェさん、声がちょっと柔らかかった」


「業務です」

「業務でも嬉しいやつ!」


レイチェルはそこで口を挟まない。朱肉の蓋を閉じ、控え袋を結ぶ音だけで会話を整える。



「——休憩前に、もう一回だけ練習させてください!」

カンナが紙束を抱える。目はきらきら。

「“角を合わせて均す”! “回内角度を抑える”! “回外角度で補正”!」


「復唱は有効です」

「はい!」


カンナは慎重に紙束をさばいた。今度は逆さにしない。

角がぴたりと揃い、控えの色も合っている。


「できた……!」

「できています」

メルシェは即答し、紙端を撫でる。

「角が一箇所、髪の毛一本分ずれています。——許容範囲です」


「髪の毛一本分って表現が美しい……!」



短い休憩。水差しの音が小さく響く。

カンナは水を飲みながら喋り続ける。


「昨日掲示板に“傾国現る”って書かれてたけど、実際の窓口を見たら“顔だけじゃない”ってみんなも気づいちゃうんだろうなって」


「掲示板の話は広げない」

レイチェルが釘を刺す。

「窓口は事実だけ」


「は、はい……」

カンナは頬をつつき、小声で続ける。

「でも……事実として“やりやすい”は書いてもいいですよね。昨日も今日も、“やりやすい”んです」


メルシェはコップを置き、首をわずかに傾けた。

「“やりやすい”の理由は導線の最適化と合図の簡素化。——カンナさんの復唱も有効です」


「また最適化……」

「事実です」


レイチェルは微かに口角を上げ、すぐ戻す。

「休憩、終わり。準備再開」



午前の終わりに向け、最後の確認。控え紙、番号札、筆記具、印章台。

もう三人の手の内にある。


カンナが胸に手を当てる。

「メルシェさん、私、今日ほんとに“やりやすい”んです。なんか、間違えてもすぐ直せる安心感があって」


「安心は速度になります」

メルシェは短く答え、名札の角を整える。

「焦りは速度を乱します。——焦らない導線を作ります」


「焦らない導線……(復唱)」

「復唱が癖になってきたわね」

「でも復唱って掲示板っぽい! “分かる”ってレスがつくみたいで!」


レイチェルは目だけで笑う。

「……確かに。流行は残りやすい」


看板を「準備中」から「受付中」に返す位置まで持ち上げ、途中で止めた。

「まだ鳴らさない。——最後に“逆順”の確認」


「逆順は実装しません!」カンナが元気よく敬礼。

「回外角度で補正します! 髪の毛一本分は許容範囲です!」


「復唱は有効です」

メルシェは小さく頷く。

「——“女神”は宗教的信仰対象ではありません」


「そこ復唱するんですか!」

カンナは吹き出し、慌てて口元を押さえる。

「すみません、笑って……」


「笑いも速度になります」

「どういう理屈ですか!」


「緊張が下がります。——手の震えが減ります」


「なるほど速度!」


レイチェルは看板を見上げ、静かに息を吸い、吐いた。

「はい。午前の、あなたたちの“劇場”はここまで。午後からは——」


レイチェルは看板をゆっくり回し、受付中の文字をこちらへ向けた。

「合図優先。事実だけ。——行くわよ」


「はい!」

「……承知しました」


三人の返事が同じ高さで重なる。


紙が光を拾い、朱肉が小さく息をする。

番号札は昇順に並び、控えの色は桃・青・黄。


カンナは背筋を伸ばし、横顔を盗み見る。

「今日も“やりやすい”にします!」


「“やりやすい”は、みんなの速度です」

メルシェは視線を手元に落とした。


「——次の方、どうぞ」


まだ誰もいない窓口に、手順だけが先に立つ。

磨かれた木目の上に、目に見えない導線が一本、確かに増えていた。


——この日のやり取りも、今夜の掲示板に刻まれるのだろう。

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