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26. 黒衣の幕引き

霜月十三日、昼前。

鐘が一つ。紙の音。油の匂い。


窓口前、列が二本。

冒険者は帳簿を握る手に力を込め、商人は汗を拭いながら順を待つ。

息は揃わず、空気は張りつめていた。


カンナの「次の方どうぞー!」が一段高い。

緊張を少しでも和らげようと、声を張っているのがわかる。

レイチェルは朱を置き、端だけぴたりと揃える。

その仕草ひとつで列の背筋が伸びた。


その脇、柱の影でジークが腕を組む。隣にティモ。

奥への扉は閉じている。取っ手は冷えた金。

メルシェとライゼル、カイルは既に会議室に入っている。


ティモ「……これで、セリンさんが黒かどうか、はっきり――」


ジークは片手をひらひら。

「ならねぇよ。監査が見るのは“不正があったかどうか”までだ」


ティモが思わず食い下がる。

「じゃあ……誰がやったかは――」


ジークが肩をすくめる。

「犯人探しは俺らの仕事だ。役割が違うんだよ」


列の先で、若い冒険者が依頼票を落としかける。

レイチェルが無言で紙縁を直し、朱が一つ増えた。

肩が一つ、楽になる音。


カンナが笑顔で札を返す。

「はいっ、お疲れさまでした!」

列の空気が一息ぶんゆるむ。


扉の前を誰かが通る。底革の擦れる短い音。


ジークが視線だけ動かす。

「来るぞ。背筋伸ばしとけ」


ティモが思わず姿勢を直す、その時——

外扉が開いた。

蝋の冷たい匂いが一気に混じり、蝶番は鳴らなかった。


黒衣が三。灰の外套が一。襟の銀糸に“律”。

足音がしない。石床だけが冷たい。


通路の人波が左右に割れた。

誰も合図を出していないのに、道ができる。

冒険者の一人が紙を落としかけ、慌てて胸に抱き直す。

商人は息を呑み、汗を拭う手を止めた。


レイチェルは視線だけで一瞥して、朱筆を戻す。

「——列を乱さない」

囁きではない。届く声。


カンナは息を飲み、胸の帳面を抱き直す。

笑顔だけは崩さない。


黒衣は窓口を見ない。歩幅は一定。肩も揺れない。


「こっちだ。」

ジークは短く告げ、黒衣達と扉の奥へ消えた。

扉が閉まり、外のざわめきが途切れた。



会議室。長机の上に帳簿の束。

窓は半分閉じられ、外のざわめきは遠い。

紙のざらつきと青く乾いた封蝋の匂いが重なる。


カイルは椅子に腰を下ろしている。

背筋は崩さず、視線も揺れない。


ライゼルは背に手を組み、窓際に立っている。

影が長机へ静かに伸び、場を見渡す視線は揺れない。


メルシェは端末を起動し、画面に光を走らせる。

刻む音は一定。時折、指先を止めて光を見据えた。


その時、扉が開いた。

ジークが先に足を踏み入れる。

「連れてきたぞ」


背後から黒衣三人と灰外套一人。

足音は揃い、衣擦れの音は短く切れる。

机の前に立つと、先頭の黒衣が一歩進んだ。


机上に写し帳が置かれる。紐は揃い、押印は新しい。

「提出帳簿、依頼票、端末記録。——照合完了」


乾いた声。会議室の空気を一段下げる響きだった。


一冊を開き、指で行をなぞる。

その指は速くも遅くもなく、迷いがない。

黒衣が端末ログを広げ、光が帳簿の紙面に落ちる。


山から抜かれた一冊が机の中央に置かれた。

頁が開かれ、紙をなぞる指先がかすかに音を立てる。

音は細く、誰も口を開けない。


「まず筆跡。該当の帳票には“特定の癖字”が見られた」


紙に走る払いが鋭い“2”。

カイルもギルドの三人も、その形に見覚えがあった。


「セリンの筆跡に一致している、と」ライゼルが静かに口にする。


だが黒衣は首を横に振る。

「確かにセリンの癖字と一致。

——しかし、それは三ヶ月前に記された正規記録との一致」


ライゼルが眉をひそめる。

「どういう事だ」


黒衣が頷き、帳簿を差し出す。

新たな帳簿が広げられる。

三ヶ月前の日付。担当者印は正しく押されている。

そこに並ぶ字が、今回の不審帳票とぴたり重なった。


「他の癖字についても、過去の記録と完全一致。圧や傾きは確かに癖として残る。だが、通常は完全に同じにはならない。」


メルシェは帳簿の字を丁寧に見比べていく。

「つまり過去の正規記録から切り取ったと考えるのが自然。……新たに書かれたものではないという事ですね」


黒衣は肯定も否定もしなかった。ただ次の証跡を示す。


机に置かれた封緘紐。結び目は固く、端が内へ傾いている。


「次に紐の癖。確かに“左回し=内寄り”はセリンの結び癖と一致」

黒衣の指が結びをほどき、再び結んでみせる。端が自然に内へ沈む。


「しかし今回の封緘は、見た目だけを似せた逆結び。力のかかり方が不自然で、実際の彼の癖とは異なっている」


ライゼルが短く言う。

「模倣、か」


カイルが小さく目を伏せる。

「……ならば、彼の“証跡”にはならない」


ジークが肩をすくめる。

「わざとらしい真似事だな。近くで見りゃバレるのによ」


「だからこそ、通り一遍の確認では見抜けない」メルシェが静かに言葉を継ぐ。


最後に机へ端末が置かれた。刻印は“S-7”。セリンの常用端末だった。


黒衣が抑揚を排した声で告げる。

「伝票“B-21”の印字自体は確かにS-7から行われてた。——これは既にギルド側の調査でも確認されていたはずだ」


カイルが小さく頷いた。

「……ええ。ただその時間は本人が休憩中で、利用履歴には“持ち出し記録”は存在しませんでした。」


別の黒衣が端末を開き、指先で画面を弾く。

「こちらでもそれは確認しました。また利用ログをさらに解析した結果、通常の操作では残らない痕跡を検出しました。闇系統の干渉が微量に混ざっています。」


メルシェは端末に指を走らせる。

「闇系統の干渉、微量検出。」


ライゼルが眉を寄せる。

「改ざんの痕跡か」


「可能性はあります。ただ短期間では解析不能。即時に断定はできません」

黒衣は声に揺れを見せず結んだ。


ジークは腕を組み、鼻で笑った。

「……結局、セリンが黒だと思ってた根拠、どれも決め手にならねぇのか」


黒衣が静かに拾う。

「現時点で“セリン本人が操作した”と断定できる証拠は、一つもありません」


ライゼルが静かに口を添える。

「証拠なき断定は、規律に反する。……それが結論だ」


メルシェは端末に指を走らせる。

「付記。闇干渉=未確定。……規律上は“不正の可能性”で処理」


カイルは瞼を伏せ、短く息を整えた。

「……つまり、疑いは晴れずに残る」


鐘が遠くで鳴り、部屋の空気が揺れた。


静まり返る机上。

数刻前まで“黒”だと信じられていた根拠が、一つずつ外れていく。


メルシェは端末に視線を落とし、光を映したまま指を止めた。

ライゼルは目を細め、帳簿から一瞬も外さない。

カイルは瞼を伏せ、一度だけ深く息を吐いた。


窓の隙間から差した光が、青く乾いた封蝋の面で鈍く揺れた。


黒衣は次の帳簿をめくる。

「“R”印の件。乱用は不正利用だけでなく、南支部の運用自体が普段から大雑把である事が確認された」


カイルが眉を寄せる。

「……普段から、ですか」


黒衣は短く頷いた。

「はい。必要以上に押され、記録が粗い。印影の圧も傾きも統一がなく、杜撰な管理でした。その緩みが、今回の不正に利用された」


ジークが肩をすくめた。

「普段から穴だらけなら、そりゃ潜られるわな」


ライゼルが低く呟く。

「規律に照らせば、管理不十分」


カイルが目を伏せ、静かに言葉を継いだ。

「我々の管理不足です。責は商会にあります。すでに対応済みです。」


メルシェは端末を見やり、指を止める。

「……午前の窓口で見た“新しいR印”は、押印の圧が揃っていました。——差は明確です」


黒衣が最後の書面を閉じた。

「最後に経理証言と詰所での目撃について。本人にも確認済み。当日欠勤があり、人手不足を補うため詰所に出ていたと」


ジークが片眉を上げる。

「休みなのに? 物好きだな」


黒衣は淡々と続ける。

「過去にも同様の行動があったとの証言も取れた。本来は休日出勤の申請が必要だが、行っていなかった。それが露呈しないよう、経理では自分の名で署名しなかったという事も確認した」


カイルが短く言う。

「どちらも規定違反です」


ジークが口の端をゆがめる。

「そういう日頃の杜撰さのツケが今回の疑いに繋がったってわけか」


メルシェは端末に指を走らせ、冷静に打鍵した。

「事実=無届け出勤。違反=規定外処理。……ただし“不正そのもの”とは直結しない」


黒衣は頷く。

「証言は事実。しかし、不正との直接の結びつきは認められない」


カイルは瞼を伏せ、一度だけ深く息を整えた。

そして顔を上げ、視線で机上の全員をまとめるように言った。

「……帳簿と行動の矛盾は確かに存在しました。だが、それをもって彼を“不正の実行者”と断じるのは早計です」


黒衣の監査官は帳簿を閉じ、机の上に静かに置いた。

室内の紙の音が止まり、視線が一点に集まる。


監査官

「——不正は確認された」


短い一言。

ジークが腕を組み、鼻を鳴らす。


黒衣

「ただし、提示された証跡は“特定個人の断定”には至らない」


机端に置かれた端末を、メルシェが静かに叩く。

「付記。不正=確定/セリン=関与未立証」

指先が一度止まり、光が消える。


カイルは沈黙を守ったまま、小さく頷いた。

唇に言葉は乗せない。ただ、その微笑の欠片はどこにもなかった。


ジークが椅子の背にもたれ、軽く吐き出す。

「……黒だと思ってたのに、結局グレー止まりかよ」


カイルは小さく頷き、一度だけ口を開いた。

「……早計に断ずるべきではない。それだけです」


ライゼルが淡々と続ける。

「不正の痕跡は残る。だが、監査の役割はここまでだ。——犯人を決めることではない」


黒衣は席を立ち、帳簿を閉じたまま抱え上げる。

「報告は以上です。規律の枠内で確認できた事実のみを提出します」


黒衣たちが一礼し、足音なく退室する。

扉の蝶番は鳴らなかった。


残された四人の間に、しばし沈黙が落ちる。

紙の端を揺らす風もなく、ただ机の上の封蝋が鈍く光っていた。


ジークが口の端を上げる。

「さぁて。ここからが俺たちの番だな」


ライゼルはゆっくり瞼を伏せ、呼吸を整えて言葉を置いた。

「不正を見つけたのなら、追う。——それがギルドの役目だ」


メルシェは端末を閉じ、わずかな光が指先から離れるのを見届ける。

「付記。次工程=調査開始」


カイルはようやく顔を上げた。

その瞳には余分な色はなく、ただ一点を射抜くように前を見据えていた。


——セリンは黒ではなかった。

だが、不正は確かにあった。


静かな余韻の中で、机上の封蝋だけが冷たく、硬質の光を返した。




今回のお話は、監査による精査と照合作業が中心の調査回でした。

ざっくり整理すると──

•筆跡は「セリン本人の癖字」と一致したが、新規記録ではなく過去の正規帳簿からの切り取りだった

•封緘紐は「似ているが逆向き」=模倣の可能性が高い

•端末S-7は使用痕跡がありながら、持ち出し記録が存在せず

•解析では、闇系統の微量な干渉が検出された

•南支部の臨時印“R”の乱用という杜撰さも明らかになった


……という展開でした。


つまり監査の結論は「不正は在るが、セリンの名は結ばれない」。

これまで“黒だ”と思われていた証拠が次々と外れ、むしろ「模倣」や「杜撰な運用」が浮かび上がりました。


偶然では片付かない“誰かの手”が、記録や印を操作しているのかもしれません。

――いよいよ、ギルドの調査が本格的に動き出します。

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