25. 黒衣の余波、商会の順序
商会の正門前は、普段の喧騒とは違う空気に包まれていた。
石段を行き交う人々の足は速い。門番の視線も固い。
帳簿を抱えた書記が駆け抜ける。
封緘箱を積んだ荷車が石畳をきしませ、鈍い音を落とした。
ジークが口笛を吹き、軽く肩を揺らす。
だが視線は外さない。
「……固ぇ空気だな。胃薬でも配るか?」
ライゼルが即答する。
「監査が入れば当然だ」
メルシェは端末を抱え、正門を見上げた。
「提出が滞れば罰点に直結します。——ギルドと同様緊張が高まっています。」
三人は並んで門をくぐった。
*
職員が帳簿や依頼票を抱えて行き交う。
廊下の壁には「監査提出口→」の札。
封緘箱が並び、封蝋の薄青が紙束の白に映える。
紙を繰る音と蝋の匂いが、狭い空間に重なっていた。
ジークが真っ先に歩み出て、視線を走らせる。
「おー、思った通りだな。ぴりっぴりじゃねえか」
軽口混じりだが、誰も笑わなかった。
むしろ一斉に視線が吸い寄せられ、息遣いが固くなる。
ライゼルは一歩遅れて入室する。
背筋を伸ばし、周囲へ静かに視線を巡らせた。
ただ立っているだけで均衡が生まれる。
近くの職員が思わず息を呑む。
だが彼は何も言わず、全体の流れを見守った。
最後に入ったメルシェは、端末を操作しながら周囲を観察する。
画面の小さな光が点り、場にさらに冷たさを足した。
ジークは肩をすくめ、手をひらひらさせた。
「そんなに睨むな。飯の邪魔しに来たわけじゃねえ」
それでも場は緩まない。
紙の音だけが、かすかに続いた。
「ギルドの人間が来た」——その事実だけで緊張が増幅する。
小走りの若手二人が帳簿を抱え、落としそうになって立ち止まる。
「ギ、ギルドの方……!」
ライゼルが低く告げた。
「通してくれ。邪魔はしない。……心配はいらない」
若手は一瞬目を見開き、それから慌てて道を空けた。
その声音に、肩の強張りが少しだけ抜けた。
*
仕分け室。
机が増設され、帳簿の山が整然と並んでいる。
端には「写し済」「照合待ち」の札が掛かっていた。
押印台には新しい“R”印。
古い印は布で包まれ、封をされて隅に置かれている。
ジークが鼻を鳴らした。
「……現場の“変えられるところ”から、か」
メルシェは無言で紙束を繰り、目を走らせる。
「綴じ方向、統一。印影のかすれなし。——運用、維持されています」
奥の扉が静かに開いた。
長身の影が差し込む。
——ローゼン商会当主、カイル。
「お待ちしておりました」
三人に一礼する。
微笑は薄い。声はいつも通りの温度だった。
背後では、年配の簿記係ヘルダが封緘箱の口を指で確かめている。
「見に来ただけだ」ジークが肩をすくめた。
「様子は」ライゼルが短く問う。
「——提出、順調です」
カイルは簡潔に答え、机端の札を指した。
「午前中の通達以降、商会名義は即時切り出し。副本は写し、原本は保存命令に従い封緘。立ち会いはヘルダに一任。私は差し止めも口出しもしません」
ヘルダが会釈する。
「封緘番号、三番まで進行。写しは二十四冊、照合待ち八」
「黒衣は?」ジークが顎で奥を示す。
カイルは目線だけで隣室の扉を示した。
札には「面談中」。
「一人ずつ順番に呼ばれています」
部屋の隅では、青ざめた顔の書記が椅子に腰掛け、呼び出しを待っていた。
ジークが腕を組み、鼻を鳴らす。
「……胃が痛くなる順番待ちだな」
「監査の指示に合わせ、慌てず遅れず動いています」
「らしい返答だ」ジークが肩をすくめる。
メルシェは隣室の扉に視線を走らせ、端末へ短く打ち込んだ。
「付記:面談の札“面談中”掲出、立会いなし——監査標準手順に一致」
奥から若手の声。
「ヘルダさん、日付の十の下に小点が……」
「修正線ではなく更正印を。ここに——はい」
迷いなく走る手。
緊張はあるが、流れは途切れない。
「……張りつめてる割に、乱れてねぇな」
ジークの言葉に、カイルは小さく首を傾けた。
「業務内容は変えていません。ただ、作業の順番を整えること。提出、写し、封緘の手順を守らせているだけです。」
さらにカイルは言葉を重ねる。
「誰も責めません。止めもしません。——順が回れば、空気は落ち着きます」
「理にかなっているな」ライゼルが静かに言った。
メルシェは“R”印へ視線を落とした。
「新しい印面、摩耗なし。使用回数の管理は」
「日次で」
「押印数は写し帳の下段に。すり減りの早期発見が目的です」
「昨日の黒衣の余波で、街はざわついてる」
ジークが廊下の方へ目をやる。
「ここにも恐れが残ってるはずだ。職員の顔色が硬い」
「恐れるべきは規律ではなく、逸脱です。」メルシェが淡々と挟む。
「——ただ恐れの感情自体は、記録を正す方向へも働きます。」
カイルは静かに言葉を足した。
「恐れるからこそ、記録を丁寧に残そうとする。
それが“急ぎ”に傾くと乱れます。ですから——“急がず、遅れず”。それだけです」
二人の応酬に、ジークが片眉を上げる。
「お前ら、恐れを肯定しすぎだろ。……まあ、お前ららしい」
廊下の先で、若手が封緘箱を持ち上げかけて止まる。
「重いです、交代を——」
ヘルダがすっと手を添えた。
「二人で。角を落とさない。——はい、歩幅合わせて」
ライゼルが自然に一歩横へ。
搬送路が開き、箱は滞りなく進んだ。
若手は気づかぬまま通り抜け、扉の蝶番は音を立てなかった。
「さて」ジークが片手で机を叩く。
「“S-7”の端末は?」
「端末室で保全。鍵は監査側。——我々はログの写しを添付するだけです」
「“R”の共通印は」
「交換済。旧印は封緘保存」
「“登録外”の洗い出しは?」
「名簿の再点検を今夜で終えます。背後照合は明朝」
投げられる球は短く、返球も短い。
やり取りのリズムに、近くの職員の肩から少しずつ硬さが抜けていく。
メルシェが机端の帳簿に指先を置いた。
「この副本、押印の圧が一定です。午前のギルドの窓口で見た物と同じ。——ヘルダさんですね」
ヘルダは目だけで微笑む。
「“癖”は消せません。だから揃える側に回ります」
隣室の扉がわずかに開いた。
灰の外套が一瞬だけ廊下に現れて消える。
場の空気がぴんと張る。
若手が喉を鳴らし、視線を落とした。
「……怖い」若手が小さく漏らす。
封緘箱の紐を締める指が白くなった。
言葉を拾ったのはライゼルだった。
「——怖くていい。いまは」
若手は驚いて顔を上げる。
ライゼルが目を細め、静かに続ける。
「怖いときほど、手順に従え。手順が安全を守る」
視線が若手の肩を一瞬だけ見守るように和らいだ。
ジークが横目で言う。
「何事も締めすぎは良くねぇな」
ヘルダが手を添え、指一本ぶん緩める位置を示した。
「規格はここ。運ぶ者が替わっても、同じ力で結べるように」
若手が頷き、次の箱にはその“標準”が移された。
呼吸が小さく整う。ヘルダが“よし”とも“急げ”とも言わない視線を一つだけ送る。
若手は軽く会釈を残し、持ち場へ戻った。
ジークが片目を細め、空気を切り替えるようにカイルへ顎をしゃくった。
「で、当主。……お前は?」
「順序に従います」カイルは即答した。
「監査は監査。私たちは、提示する。……それだけです」
ジークが口角を上げる。
「……逃げないって言葉は足さなくて良いのか?」
カイルは一瞬だけ笑みを深めたが、すぐにいつもの表情へと戻った。
「余計な言葉は要りません。言葉にするのは、必要なときだけ。今は行動で示します」
ライゼルが静かに頷く。
「十分だ」
「一点だけ」メルシェが端末から顔を上げる。
「“面談中”の札。——職員の導線に重なっています。緊張が溜まる導線です。位置を半歩、右へ」
ヘルダがその場で札を外し、半歩右に寄せた。
廊下の幅がわずかに広がり、視線が流れる。
溜まっていた緊張が、通路の外へ抜けた。
カイルが短く言う。
「採用します」
「現場で変えられることから」
メルシェはいつもの調子だ。
奥の窓に光が差し、封緘蝋の面に淡い艶が走る。
紙を繰る音、筆先の擦過、封緘紐のこすれるささやき。
——“動いているが、慌ててはいない”音。
カイルが三人へ向き直る。
「見に来てくださって助かります。——“ここは見られている”。それ自体が、抑止になります」
ジークは口角だけ上げた。
「監査や記録精査は嫌がられるが、街にとっては安心を保つ薬のような存在だ」
ライゼルが静かに結ぶ。
「透明性は、街の安心の根だ」
メルシェは最後に端末へ打鍵する。
『付記:商会提出導線——面談札位置修正/旧R封緘保存確認/S-7鍵保全・監査保管』
「——急がず、遅れず」
カイルが短く復唱し、職員たちの方へ視線を流した。
そのひと撫でで、また数人の肩が下がる。
誰も誉めず、叱らず、ただ順序に戻す視線。
鐘が遠くで一度鳴る。
ジークが踵を返す。
「じゃ、引き続き“順序”でやってくれ。……何かあれば、窓口を叩け」
「叩く前に、連絡します」
カイルは即答し、いつもの“商会の微笑”を一瞬だけ乗せた。
「——急ぎません。遅れません」
廊下へ出ると、風が封蝋の匂いをほどいていく。
背後で「面談中」の札が、半歩右へ寄ったまま静かに揺れた。
ライゼルが横目でメルシェを見る。
「半歩、効いたな」
「詰まりは“半歩”から始まります」
ジークが笑う。
「名言っぽい。額に——」
「貼りません」
三人の声が重なり、扉が無音で閉まった。
その会話を廊下で聞いていた職員が、思わず吹き出した。
小さな笑いは、すぐに紙の音へ溶けていった。
外から露店の呼び声が一瞬だけ流れ込む。
さっきまで黒衣を茶化していた声も、商会前だけは半音下がる。
風が封蝋の匂いを薄め、石段の影を延ばした。
中では紙が進み、外では噂が歩く。
どちらも、順序に従って。
——黒衣の影は、まだ商会の上を歩いている。
けれど、順序は回り始めた。
透明な手順と、少ない言葉が、場の温度を一段戻していく。
次の鐘まで、それで十分だ。




