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25. 黒衣の余波、商会の順序

商会の正門前は、普段の喧騒とは違う空気に包まれていた。

石段を行き交う人々の足は速い。門番の視線も固い。


帳簿を抱えた書記が駆け抜ける。

封緘箱を積んだ荷車が石畳をきしませ、鈍い音を落とした。


ジークが口笛を吹き、軽く肩を揺らす。

だが視線は外さない。

「……固ぇ空気だな。胃薬でも配るか?」


ライゼルが即答する。

「監査が入れば当然だ」


メルシェは端末を抱え、正門を見上げた。

「提出が滞れば罰点に直結します。——ギルドと同様緊張が高まっています。」


三人は並んで門をくぐった。



職員が帳簿や依頼票を抱えて行き交う。

廊下の壁には「監査提出口→」の札。

封緘箱が並び、封蝋の薄青が紙束の白に映える。

紙を繰る音と蝋の匂いが、狭い空間に重なっていた。


ジークが真っ先に歩み出て、視線を走らせる。

「おー、思った通りだな。ぴりっぴりじゃねえか」

軽口混じりだが、誰も笑わなかった。


むしろ一斉に視線が吸い寄せられ、息遣いが固くなる。


ライゼルは一歩遅れて入室する。

背筋を伸ばし、周囲へ静かに視線を巡らせた。


ただ立っているだけで均衡が生まれる。

近くの職員が思わず息を呑む。

だが彼は何も言わず、全体の流れを見守った。


最後に入ったメルシェは、端末を操作しながら周囲を観察する。

画面の小さな光が点り、場にさらに冷たさを足した。


ジークは肩をすくめ、手をひらひらさせた。

「そんなに睨むな。飯の邪魔しに来たわけじゃねえ」


それでも場は緩まない。

紙の音だけが、かすかに続いた。

「ギルドの人間が来た」——その事実だけで緊張が増幅する。


小走りの若手二人が帳簿を抱え、落としそうになって立ち止まる。

「ギ、ギルドの方……!」


ライゼルが低く告げた。

「通してくれ。邪魔はしない。……心配はいらない」


若手は一瞬目を見開き、それから慌てて道を空けた。

その声音に、肩の強張りが少しだけ抜けた。



仕分け室。

机が増設され、帳簿の山が整然と並んでいる。

端には「写し済」「照合待ち」の札が掛かっていた。


押印台には新しい“R”印。

古い印は布で包まれ、封をされて隅に置かれている。


ジークが鼻を鳴らした。

「……現場の“変えられるところ”から、か」


メルシェは無言で紙束を繰り、目を走らせる。

「綴じ方向、統一。印影のかすれなし。——運用、維持されています」


奥の扉が静かに開いた。

長身の影が差し込む。


——ローゼン商会当主、カイル。


「お待ちしておりました」

三人に一礼する。

微笑は薄い。声はいつも通りの温度だった。


背後では、年配の簿記係ヘルダが封緘箱の口を指で確かめている。


「見に来ただけだ」ジークが肩をすくめた。

「様子は」ライゼルが短く問う。


「——提出、順調です」

カイルは簡潔に答え、机端の札を指した。


「午前中の通達以降、商会名義は即時切り出し。副本は写し、原本は保存命令に従い封緘。立ち会いはヘルダに一任。私は差し止めも口出しもしません」


ヘルダが会釈する。

「封緘番号、三番まで進行。写しは二十四冊、照合待ち八」


「黒衣は?」ジークが顎で奥を示す。

カイルは目線だけで隣室の扉を示した。

札には「面談中」。


「一人ずつ順番に呼ばれています」

部屋の隅では、青ざめた顔の書記が椅子に腰掛け、呼び出しを待っていた。


ジークが腕を組み、鼻を鳴らす。

「……胃が痛くなる順番待ちだな」


「監査の指示に合わせ、慌てず遅れず動いています」

「らしい返答だ」ジークが肩をすくめる。


メルシェは隣室の扉に視線を走らせ、端末へ短く打ち込んだ。

「付記:面談の札“面談中”掲出、立会いなし——監査標準手順に一致」


奥から若手の声。

「ヘルダさん、日付の十の下に小点が……」


「修正線ではなく更正印を。ここに——はい」

迷いなく走る手。

緊張はあるが、流れは途切れない。


「……張りつめてる割に、乱れてねぇな」

ジークの言葉に、カイルは小さく首を傾けた。

「業務内容は変えていません。ただ、作業の順番を整えること。提出、写し、封緘の手順を守らせているだけです。」


さらにカイルは言葉を重ねる。

「誰も責めません。止めもしません。——順が回れば、空気は落ち着きます」


「理にかなっているな」ライゼルが静かに言った。


メルシェは“R”印へ視線を落とした。

「新しい印面、摩耗なし。使用回数の管理は」

「日次で」

「押印数は写し帳の下段に。すり減りの早期発見が目的です」


「昨日の黒衣の余波で、街はざわついてる」

ジークが廊下の方へ目をやる。

「ここにも恐れが残ってるはずだ。職員の顔色が硬い」


「恐れるべきは規律ではなく、逸脱です。」メルシェが淡々と挟む。

「——ただ恐れの感情自体は、記録を正す方向へも働きます。」


カイルは静かに言葉を足した。

「恐れるからこそ、記録を丁寧に残そうとする。

それが“急ぎ”に傾くと乱れます。ですから——“急がず、遅れず”。それだけです」


二人の応酬に、ジークが片眉を上げる。

「お前ら、恐れを肯定しすぎだろ。……まあ、お前ららしい」


廊下の先で、若手が封緘箱を持ち上げかけて止まる。

「重いです、交代を——」

ヘルダがすっと手を添えた。

「二人で。角を落とさない。——はい、歩幅合わせて」


ライゼルが自然に一歩横へ。

搬送路が開き、箱は滞りなく進んだ。


若手は気づかぬまま通り抜け、扉の蝶番は音を立てなかった。


「さて」ジークが片手で机を叩く。

「“S-7”の端末は?」

「端末室で保全。鍵は監査側。——我々はログの写しを添付するだけです」

「“R”の共通印は」

「交換済。旧印は封緘保存」

「“登録外”の洗い出しは?」

「名簿の再点検を今夜で終えます。背後照合は明朝」


投げられる球は短く、返球も短い。

やり取りのリズムに、近くの職員の肩から少しずつ硬さが抜けていく。


メルシェが机端の帳簿に指先を置いた。

「この副本、押印の圧が一定です。午前のギルドの窓口で見た物と同じ。——ヘルダさんですね」


ヘルダは目だけで微笑む。

「“癖”は消せません。だから揃える側に回ります」


隣室の扉がわずかに開いた。

灰の外套が一瞬だけ廊下に現れて消える。


場の空気がぴんと張る。

若手が喉を鳴らし、視線を落とした。

「……怖い」若手が小さく漏らす。

封緘箱の紐を締める指が白くなった。


言葉を拾ったのはライゼルだった。

「——怖くていい。いまは」

若手は驚いて顔を上げる。


ライゼルが目を細め、静かに続ける。

「怖いときほど、手順に従え。手順が安全を守る」

視線が若手の肩を一瞬だけ見守るように和らいだ。


ジークが横目で言う。

「何事も締めすぎは良くねぇな」


ヘルダが手を添え、指一本ぶん緩める位置を示した。

「規格はここ。運ぶ者が替わっても、同じ力で結べるように」

若手が頷き、次の箱にはその“標準”が移された。


呼吸が小さく整う。ヘルダが“よし”とも“急げ”とも言わない視線を一つだけ送る。

若手は軽く会釈を残し、持ち場へ戻った。


ジークが片目を細め、空気を切り替えるようにカイルへ顎をしゃくった。

「で、当主。……お前は?」


「順序に従います」カイルは即答した。

「監査は監査。私たちは、提示する。……それだけです」


ジークが口角を上げる。

「……逃げないって言葉は足さなくて良いのか?」


カイルは一瞬だけ笑みを深めたが、すぐにいつもの表情へと戻った。

「余計な言葉は要りません。言葉にするのは、必要なときだけ。今は行動で示します」


ライゼルが静かに頷く。

「十分だ」


「一点だけ」メルシェが端末から顔を上げる。

「“面談中”の札。——職員の導線に重なっています。緊張が溜まる導線です。位置を半歩、右へ」


ヘルダがその場で札を外し、半歩右に寄せた。

廊下の幅がわずかに広がり、視線が流れる。

溜まっていた緊張が、通路の外へ抜けた。


カイルが短く言う。

「採用します」


「現場で変えられることから」

メルシェはいつもの調子だ。


奥の窓に光が差し、封緘蝋の面に淡い艶が走る。

紙を繰る音、筆先の擦過、封緘紐のこすれるささやき。

——“動いているが、慌ててはいない”音。


カイルが三人へ向き直る。

「見に来てくださって助かります。——“ここは見られている”。それ自体が、抑止になります」


ジークは口角だけ上げた。

「監査や記録精査は嫌がられるが、街にとっては安心を保つ薬のような存在だ」


ライゼルが静かに結ぶ。

「透明性は、街の安心の根だ」


メルシェは最後に端末へ打鍵する。

『付記:商会提出導線——面談札位置修正/旧R封緘保存確認/S-7鍵保全・監査保管』


「——急がず、遅れず」

カイルが短く復唱し、職員たちの方へ視線を流した。

そのひと撫でで、また数人の肩が下がる。

誰も誉めず、叱らず、ただ順序に戻す視線。


鐘が遠くで一度鳴る。

ジークが踵を返す。


「じゃ、引き続き“順序”でやってくれ。……何かあれば、窓口を叩け」

「叩く前に、連絡します」


カイルは即答し、いつもの“商会の微笑”を一瞬だけ乗せた。

「——急ぎません。遅れません」


廊下へ出ると、風が封蝋の匂いをほどいていく。

背後で「面談中」の札が、半歩右へ寄ったまま静かに揺れた。


ライゼルが横目でメルシェを見る。

「半歩、効いたな」

「詰まりは“半歩”から始まります」


ジークが笑う。

「名言っぽい。額に——」

「貼りません」

三人の声が重なり、扉が無音で閉まった。


その会話を廊下で聞いていた職員が、思わず吹き出した。

小さな笑いは、すぐに紙の音へ溶けていった。


外から露店の呼び声が一瞬だけ流れ込む。

さっきまで黒衣を茶化していた声も、商会前だけは半音下がる。

風が封蝋の匂いを薄め、石段の影を延ばした。

中では紙が進み、外では噂が歩く。

どちらも、順序に従って。


——黒衣の影は、まだ商会の上を歩いている。

けれど、順序は回り始めた。

透明な手順と、少ない言葉が、場の温度を一段戻していく。


次の鐘まで、それで十分だ。



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