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24. 黒衣の余波、街のざわめき

霜月十二日、午前。


窓口の空気は、昨日までとは明らかに違っていた。


「商会関連の依頼・帳簿・報告は、即日写しを監査部へ提出せよ」

その一文が、窓口全体の温度を一段下げていた。


監査対象はあくまで商会だ。

だが、商会が絡む依頼や取引記録の多くは、ギルドを通して処理される。

その入口が窓口である以上、影響は真っ先に現れた。


帳簿、依頼票、精算記録。

昨日までは「明日でいい」「午後便でまとめる」で済んだ。

だが今日は違う。商会の名があれば、その場で処理。


冒険者にはただの提出物でも、一枚ごとに息を詰まらせる空気があった。


朱筆を待つ列。机に次々重なる帳票。

冒険者たちが戸惑う視線を交わすたび、職員たちの手はさらに早く動いた。


「監査部が来たらしい」

「帳簿を全部持ってかれるんだってな」

「黒衣を見た」


噂はここでも影を落としていた。

署名の一文字、数字の一桁。

それが間違っていれば——監査の目に止まる。

そう意識した瞬間、手は強張り、緊張が高まる。


レイチェルの視線が鋭く走る。

射抜かれた冒険者が、思わず背筋を正した。

列は自然と整っていく。叱責の言葉はない。

だが動作の淀みのなさが、全員を沈黙へ導く。


隣でカンナは、必死に笑顔を保っていた。

差し出された帳簿を受け取りながら、小さく「だ、大丈夫です!」

緊張していた冒険者が、ほっと肩を下ろす。

張りつめた呼吸が少し緩んだ。

手は震えていたが、その笑顔に場の空気が和らいでいく。


メルシェは淡々と端末を操作し、画面に浮かぶ「即時転送済」を確認する。

無言のまま、ひとつひとつ処理を重ねる。

そのたびに端末の光が走り、列の冒険者は反射的に背筋を伸ばした。


列の後方で、若い冒険者が取り出した依頼票の端ににじんだインクを見て青ざめた。

「消されないよな……」

隣の仲間が小声で囁く。


二人は顔を見合わせ、喉を鳴らす。

紙を持つ指先がじっとり汗ばみ、インクはさらに滲んだ。ただの記録紙が、急に重く感じられた。


その時、机上の端末に再び光。

「監査部提出済」

その一文が表示されるたび、窓口の空気はさらに固くなる。沈黙と緊張を抱えたまま、それでも列は動く。


黒衣の姿はもう去っていた。

けれど昨日の影は、今日も確かに残っていた。

誰も口に出さないが、「今も見られている」ような錯覚が残っていた。


秩序を正す波が広がり始めた。——その波を最初に受け止めるのは、いつも窓口だ。



ひと山捌いて、一段落。

帳簿と依頼票の束が机の隅に寄せられる。

それでも空気の重さは抜けない。


レイチェルが朱筆を収め、眼鏡を押し上げる。

カンナは帳面を抱えたまま、胸の奥で大きく息を吐く。

メルシェは画面の「提出済」を最後に確認し、指を止めた。


その時、背後の扉が開いた。

「ご苦労なこったな」


ジークがいつもの軽さで現れる。

だが笑いは喉で止めたまま。

ライゼルも続き、場を一瞥してから視線を落とした。


「……何かありましたか」

メルシェが端末を閉じ、淡々と問う。


ジークは肩をすくめるだけで、端的に告げた。

「商会の様子を見に行く。——メルシェも来い」


「午前の処理で滞りが出ています。私はここに残るべきです」


即答。声音に一切の揺れはない。

積まれた紙束が、その判断の根拠だった。


ライゼルが続ける。

「現場を見れば、窓口の判断にも繋がる。数字だけでは見えない」


メルシェの視線がわずかに揺れ、沈む。

静けさを断ったのはレイチェルだ。

眼鏡を外し、布で一度拭う。


「ここは私達に任せて。行ってきて」

短い一言。


カンナが拳をぎゅっと握る。

「だ、大丈夫です! 任せてください!」


列に並ぶ冒険者の口元がわずかに緩んだ。

空気が少しだけ温度を取り戻す。


メルシェは二人の横顔を見渡し、短い沈黙ののちに言う。「……承知しました」


ジークが笑みを深め、顎をしゃくる。

「そうこなくちゃ」


ライゼルが通路の光を確かめる。

三人の影が床に伸び、扉が静かに閉じた。

残された窓口は、ふたたび硬く整然と動き出す。


窓口に残ったレイチェルとカンナは、再び机に向かう。

列の冒険者たちも無言で書類を整える。

「自分達にできることを」——そんな意識が、緊張の中に静かに芽生えていた。



三人は外へ出た。陽の光が一斉に視界へ流れ込む。

深く吸い込む息に、街のざわめきがもう届いていた。


石畳が昼の光を弾く。

商会通りは、いつもより人影が多かった。


行商の荷車。

買い物袋を抱えた母親。

封緘箱を積んだ荷車。


商人の呼び声も、子どもの笑い声も、どこか速く、落ち着かない。


辻で、買い物帰りの老婆が声を潜めた。

「黒衣は死人を数える……見られたら寿命が削れるよ」

隣の若い男は小声で付け足す。

「俺は聞いたぞ、夜になると黒衣は空を飛ぶって」

「やめてよ!」母親が思わず子を背に隠す。


三人は歩みを崩さない。背後では囁きが続いていた。


少し先。若い男たちが荷車に腰掛けて笑う。

「昨日の黒衣、マジで足音しなかった!」

「お前、真似して転んでただろ」

「影の兵隊ってより、酔っぱらい兵隊!」

茶化す笑い。だが空元気で、誰も「本物をもう一度見たい」とは言わない。


角を曲がると、露店の商人が声を荒げた。

「監査だか何だか知らねぇが、昨日は通りが塞がった! 荷車止められちゃ商売にならねぇ!」

怒鳴り口調。だが瞳の底には恐れがある。


ライゼルが一歩前へ。

「規定に従い、必要な検査を行っている。通行妨害は最小限に留める」

短く、揺れず。余計な言葉は足さない。

商人は舌打ちを飲み込み、荷車を押し直した。


道の反対側では、冒険者二人が報告票を手にぼやく。

「窓口、雰囲気ヤベぇ。背中が冷える」

「帳簿持ってくだけで心臓バクバク。背中に黒衣が張り付いてるみたいだ」

苦笑まじり。だが歩幅は目に見えて狭くなる。


さらに先。路地から子どもの声。

「スッ、スッ……影の兵隊が通りまーす!」

幼い列が足音を消す真似で石畳を進む。

「無音だぞー!」「止まれ!」「怖い! やめろー!」

笑い声と、ぞっとする歓声。大人は眉をひそめつつ、口元を緩めた。


ジークが苦笑して横目をやり、ライゼルは何も言わず歩調を崩さなかった。

メルシェは子どもたちの足並みを一瞥し、端末に短く打鍵を加えた。


通りの向こう、酒場の店先。

看板娘が無音のふりでジョッキを運び、最後に小さな声で「——掌握」。

客席がどっと沸いた。

台所の皿洗いの手は、不思議と早まっている。

茶化しが恐怖を丸めるのを、みんな知っていた。


ジークが空を仰いだ。

「怖がったり笑ったり怒ったり……ほんと街ってやつは落ち着かねぇな」


小間物屋の前で、別の声。

「ギルドに監査ってほんとか?」

「いや、商会にだって聞いたぞ」

「襟に“律”の刺繍、見たやつがいる」

「裁きの使者だってよ」

「いや護衛だろ」

噂は枝を伸ばし、根はどこにも届かない。

しかし“黒衣”という像だけが、勝手に歩き続ける。


通りの端で、年配の車引きが三人を呼び止めた。

「……巻き込みは、ごめんだぜ」

ジークが片手をひらひら。

「巻き込まねぇための処置だ」

軽い言い方なのに、なぜか肩の力が抜ける。

言葉だけでなく、立ち姿ごと、安心させる術を彼は知っている。


「……信じるよ」

車引きが小さく頷き、荷を押して行った。

背中に混じる呟き。「ギルドがそう言うなら」


* 


「どこ行っても黒衣の話題だな」

ジークが周囲を見回して吐き出す。


「通りすがりの会話で二十七件でした」

メルシェは端末を見ながら、淡々と数を告げた。


ジークがぎょっとする。

「……えっ、数えてたのか!?」


「数値的根拠は必要です」

一切悪びれず返すその調子に、ジークが頭を抱える。


「都度カウントしてたお前が怖い……!」


ライゼルが横からさらりと口を挟む。

「記録は正確だ」


ジークが振り返って叫ぶ。

「お前も数えてたのかよ!」


声が跳ね、近くの商人が苦笑を漏らす。

張り詰めていた空気が、ふっと和らいだ。



三人の歩みは、商会通りの中心へ。

冬の陽は傾きはじめ、石畳の継ぎ目に長い影を落とす。


「覚悟はしてたが、影響はでけぇな」

ジークが手を頭の後ろで組む。

「窓口もぴりぴりだ。こういう時こそ、元気印がいつもみたいに突入でもしてくれたら場が緩むんだが」


メルシェが首を傾げる。

「アメリアさんが来館した際の笑い声の発生率は——」


ジークが慌てて遮る。

「だから数値で言うな!」


ライゼルが淡々と口を挟む。

「……事実、よく笑いは起きる。発生率までは把握していないが——」


ジークが両手を広げて叫んだ。

「お前までそっちに乗るな!」


軽口。

そのやり取り一つで、沿道の表情がほんの少しだけ柔らかくなる。

歩きながら空気を整える術を、三人はそれぞれのやり方で持っていた。


角を折れる。

視界がひらけ、正門が見えた。


ローゼン商会本館。

扉前の石段は磨かれ、両脇の掲示板には新しい封緘札。

台車で運び込まれる封筒束。黒い蝋の封。

門番の視線は硬く、行き交う書記の足は速い。


通りの喧噪が一段遠のく。

空気の温度が、僅かに下がった気がした。


ジークが息を整え、視線を門へ。

「さ、正面から行こうぜ。裏口は似合わねぇ」

ライゼルが短く頷く。

「必要な質問だけする。——それで十分だ」

メルシェは端末を胸に当て、呼吸を一つ。

「記録は、私が取ります」


三つの影が、正門へと伸びる。

扉の蝶番は、昨日と同じく音を立てないだろう。


——場面が、街から商会へ切り替わる。

その境目に、陽の光が一度だけ強く差し込んだ。

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