22. 黒衣の余波、窓口三者三様
霜月十一日、午後。
街はいつも通りに鐘を打ち、行き交う声と荷車の軋みで賑わっていた。
だが昨日の光景を見た者たちは、背筋の奥に冷たい余韻を残していた。
——黒衣の一団が、本館へ入っていった。
音も立てずに石畳を渡り、通路の人々が反射的に道を空けた。
理由は分からない。ただ「怖い」という印象だけが強烈に残った。
「ギルドに監査が入ったらしいぞ」
「いや、商会の当主を見た。きっとそっち絡みだ」
「黒衣に“律”の文字。規律の番人だって話だ」
断片的な証言が交わされるたび、形を変えた噂が広がる。
見たものは同じはずなのに、口にすれば違う物語になる。
路地裏の子どもたちは「影の兵隊」と囁き、
酒場では「裁きの使者」と呼ぶ者もいた。
実像を掴めないからこそ、恐怖と想像は増幅していく。
「昨日も一昨日も、商会の当主がギルド入りだってな」
「二日続けて? 裏で何かあるに違いねぇ」
「でもギルドが関わってるなら、揉み消しは無理だろ」
憶測は枝葉を伸ばし、真実からは遠ざかる。
だが黒衣が歩いたという一点だけは、事実として街に強烈に刻まれていた。
その記憶は広場を、路地を、酒場を、そして冒険者の列を伝っていった。
誰も正解は知らない。けれど全員が、その話題から目を逸らせなかった。
——街全体がざわめきの底に揺れていた。
黒衣という像だけが、独り歩きを始めていた。
*
窓口の列はいつも通り伸びていたが、その奥に漂う空気は昨日までとは違っていた。
冒険者たちが報告書を抱えながらも、視線はひそひそと隣へ流れていく。
「なぁ、昨日の黒衣って結局なんだったんだ?」
「監査だろ。いや、商会の件じゃねぇか?」
「ここで聞けば早いだろ。窓口の人間なら絶対知ってるって」
ざわめきが膨らみ、列の前方にまで波が届いたそのとき——
「業務に関係のない質問は不要です。……次」
ぴたり、と音が消えた。
低く澄んだ声が空気を切り裂き、列の冒険者が凍りついた。
レイチェルは眼鏡の奥から視線をすっと上げ、問いかけていた冒険者をまっすぐ射抜いた。
手は止まらない。書類を一枚めくり、朱筆を走らせる。
その一連の動作があまりにも淀みなく、周囲を支配する。
「……っ、す、すみません! 報告はこちらです!」
慌てて差し出された書類を受け取り、レイチェルは確認を済ませる。
表情は変わらない。だが印の一つを加えるだけで、冒険者の肩が一気に下がった。
背後で並んでいた者たちも息を飲み込む。
さっきまで「黒衣がどうだ」「怖いだろ」などと好き勝手に話していたのに、
今は誰一人声を発さない。
「……計算、誤差なし。依頼完了。次」
端的な言葉。
それだけで場がまた進み始める。
列の中から小さな囁きが漏れた。
「やっぱりレイチェル姐さんだな……」
「怖ぇけど、逆に安心する」
耳に届いても、彼女は反応しない。
ただ次の報告を受け取り、目を通す。
背筋は一寸も揺れず、声は澄んだまま。
黒衣の噂でざわついていた空気は、今やきっちりと整列していた。
冒険者たちの視線は前を向き、書類を取り落とす者もいない。
レイチェルの冷徹さは恐怖ではない。
無駄を許さない厳しさの先に、「必ず処理される」という信頼がある。
だから冒険者たちは背筋を伸ばし、震えながらも安堵する。
「次」
短い声が、場を再び進ませる。
——そして列は、規律を取り戻して動き始めていた。
*
列は一度落ち着いたかに見えた。
だがすぐに、別の窓口にざわざわと声が集まっていく。
「なぁ、昨日の黒衣のやつら……」
「絶対監査だろ? なぁ、知ってんだろ?」
「ちょっとくらい教えてくれてもいいじゃん!」
矢継ぎ早に投げられる言葉。
その標的になったのは、明るい笑顔で応対していたカンナだった。
「え、えっと……! あ、あのですね!」
書類を受け取りながら、目が泳ぐ。
両手で帳面を抱えたまま、慌てて言葉を探す。
「そ、それはですね……! あ、やっぱりお答えできませんっ!」
声は裏返り、頬はほんのり赤い。
冒険者たちは思わず吹き出しそうになるが、必死な様子にさらに食いついた。
「えぇー? なんでなんで? 昨日ギルドで見たって奴、いっぱいいたんだぞ?」
「黒衣とか絶対ただ事じゃないだろ! ちょっとヒントくらい……」
「ひ、ヒントとかも……! 駄目です、ほんとに駄目ですから!」
カンナは両手をばたばたと振る。
笑顔を張りつけながら、必死にごまかす。
それでも冒険者たちは引かない。
「カンナちゃんまでそんな冷たいこと言うなよ〜」
「お願い、一言だけ!」
「だ、だから……っ!」
カンナはきゅっと唇を結んで、次の瞬間、深く頭を下げた。
「ごめんなさいっ! 業務以外のことは本当にお答えできません!」
一拍の沈黙。
けれど、あまりに真剣で必死な謝罪に、列の冒険者たちがぽかんとした。
そして次の瞬間——
「……カンナちゃん焦ってるの可愛い」
「逆に癒やされるんだが」
後ろからそんな声が漏れ、列の空気が一気に和んだ。
カンナは耳まで赤くして「ち、違いますからっ!」と慌てて手を振る。
けれど否定すればするほど、冒険者たちの笑いは増すばかり。
「ほら見ろ、やっぱり推しだわ」
「いや、さっきの“ごめんなさい”で完全にやられた」
場のざわめきは噂話から笑い話へと変わり、空気が柔らかくなっていく。
カンナは胸に帳面を抱えたまま、頬を熱くした。
「も、もう! 次の方どうぞっ!」
声は裏返ったが、列はきちんと動いた。
彼女のわたわたした姿は、不安を拭い去るどころか、冒険者たちに安心感を与えていた。
厳しさで静めるレイチェルとは真逆。
カンナの“焦りながらも真面目”な姿勢は、今日もギルドの空気を和ませていた。
*
窓口の三番。
そこに立つだけで、空気が自然と張り詰める。
背筋の揺らがぬ立ち姿。
流れるような書類さばき。
——メルシェの前に並んだ冒険者たちは、緊張を隠せなかった。
彼女が目を上げたとき、思わず背を正す者が何人いたか。
その美貌と冷静さは、言葉にしなくても場を支配する力を持っていた。
だが今日、冒険者たちの頭には“黒衣”の影が色濃く残っている。
列の一人が、書類を差し出しながらおずおずと口を開いた。
「……あ、あの。昨日の……黒い人たち、なんだったんですか?」
その声に、後ろの数人も顔を上げた。
「そうだよ、無音で通って……ちょっと怖かったんだ」
「なぁ、ギルドの人なら、知ってるんだろ?」
空気が一瞬ざわめく。
レイチェルなら「業務以外の質問は不要です」で斬り捨てただろう。
カンナなら慌ててごまかしたに違いない。
だが、メルシェは違った。
端末を開いたまま、ゆっくりと顔を上げる。
一呼吸置いてから、淡々と答えた。
「……通路を、通常より一・五倍の速さで進んでいました。音を立てずに進む技術も、通常より高度でした」
場が止まった。
「いやいやいや! そういう意味じゃなくて!」
「今、分析始めた!?」
「なんで速度の数値まで出てくるんだよ!」
「観察記録として正しいと考えます」
「いやいや! 正しいけどさ! そういうことじゃねぇんだよ!」
冒険者たちが一斉に総ツッコミ。
列がざわつき、笑いがこぼれ始める。
それでもメルシェは瞬きもせず、端末に視線を戻した。
「では、……黒衣のせいでしょうか。暗黒という言葉があるように、恐怖を連想させる色です」
「色の心理学!?」
「やっぱり分析だーーー!!」
別の冒険者が慌てて補足した。
「お、俺たちが聞きたいのは……“黒衣が何者か”ってこと! 速さとか色の意味じゃなく!」
メルシェは数秒、真剣に考え込んだ。
ジークが横から割って入る。
「『怖かった』で十分なんだよ」
メルシェは一瞬きょとんとしてから、素直に言い直す。
「……怖かったです」
一拍の沈黙の後、窓口前がどっと笑いに包まれる。
「言い直した!」「真面目すぎる!」「いやいや、それ絶対怖がってないよね!」
笑いながらも視線は彼女に集まり、その整然とした横顔が余計に印象を残していた。
——その冷静さと美貌。
——そして“真面目すぎるズレ”。
それが合わさった瞬間、場の空気は緊張から笑いへと転じていた。
「傾国さん……真剣なのにズレてる……」
「やっぱ推せるわ……」
誰かがぼそりと呟き、後ろの方で笑い混じりの同意が広がった。
メルシェは一瞥もせず、次の書類を手に取る。
「次の方、どうぞ」
その声音は淡々として変わらない。
だが、彼女が残した“ズレ”の印象だけは、冒険者たちの胸に確かに刻まれていた。
美貌に支配され、冷静さに圧され、
それでいて不意に漏れる真面目な天然。
ギルドの窓口は、今日もまた一人の職員によって空気を支配されていた。
*
街は今日もざわめいていた。
行き交う荷馬車の軋む音、商人の呼び声、冒険者の笑い声。
だがその下で、昨日から続く「黒衣」の影が、人々の会話に静かに紛れ込んでいた。
「ギルドに入っていったのを見た」
「いや、あれは商会当主の護衛だ」
「でも音がしなかっただろ、あんな歩き方する奴、普通じゃない」
噂は尾ひれを生み、恐怖と好奇心を同時に煽っていく。
誰も真実を掴んではいない。
けれど、人々の脳裏に焼き付いたのは——無音で歩く黒衣の姿。
その像は、人々の想像の中で歩き続けていた
*
ギルド本館。
窓口の三者三様の応対は、その噂の熱をさらに変化させていた。
レイチェルの冷徹な一言は「怖いけど頼れる」を強め、
カンナの慌てふためく姿は「癒やしで可愛い」を深め、
メルシェの生真面目な“ズレ回答”は「美貌と天然ギャップ」を決定づける。
推し談義に熱を上げる冒険者たちにとって、黒衣の不気味ささえ“ネタ”に変わっていく。
「怖い」「謎だ」という感情は、「推しの誰に聞きたいか」という方向へと塗り替えられた。
笑いが混ざる窓口の風景。
そこに漂う緊張と安堵の入り混じった空気。
黒衣が残した冷たさと、職員たちが放つ熱。
その落差が、人々の記憶により深く刻み込まれていった。
*
だが、街はまだ正解を掴んでいない。
ただ「黒衣」という像だけが、一人歩きを始めている。
恐怖と憶測。
笑いと推し文化。
相反する二つの感情を孕んだまま、街は今日も動いていた。
そしてその像はやがて、掲示板の新たな議論の火種となる。
——匿名の声たちがまた、虚空に言葉を投げ合うだろう。
鐘の音が遠くで鳴り、街路に風が渡る。
旗布が揺れ、人々の会話が再び混ざり合う。
その中で、「黒衣」の影はまだ消えていなかった。




