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22. 黒衣の余波、窓口三者三様

霜月十一日、午後。

街はいつも通りに鐘を打ち、行き交う声と荷車の軋みで賑わっていた。

だが昨日の光景を見た者たちは、背筋の奥に冷たい余韻を残していた。


——黒衣の一団が、本館へ入っていった。

音も立てずに石畳を渡り、通路の人々が反射的に道を空けた。

理由は分からない。ただ「怖い」という印象だけが強烈に残った。


「ギルドに監査が入ったらしいぞ」

「いや、商会の当主を見た。きっとそっち絡みだ」

「黒衣に“律”の文字。規律の番人だって話だ」


断片的な証言が交わされるたび、形を変えた噂が広がる。

見たものは同じはずなのに、口にすれば違う物語になる。


路地裏の子どもたちは「影の兵隊」と囁き、

酒場では「裁きの使者」と呼ぶ者もいた。

実像を掴めないからこそ、恐怖と想像は増幅していく。


「昨日も一昨日も、商会の当主がギルド入りだってな」

「二日続けて? 裏で何かあるに違いねぇ」

「でもギルドが関わってるなら、揉み消しは無理だろ」


憶測は枝葉を伸ばし、真実からは遠ざかる。

だが黒衣が歩いたという一点だけは、事実として街に強烈に刻まれていた。


その記憶は広場を、路地を、酒場を、そして冒険者の列を伝っていった。

誰も正解は知らない。けれど全員が、その話題から目を逸らせなかった。


——街全体がざわめきの底に揺れていた。

黒衣という像だけが、独り歩きを始めていた。



窓口の列はいつも通り伸びていたが、その奥に漂う空気は昨日までとは違っていた。

冒険者たちが報告書を抱えながらも、視線はひそひそと隣へ流れていく。


「なぁ、昨日の黒衣って結局なんだったんだ?」

「監査だろ。いや、商会の件じゃねぇか?」

「ここで聞けば早いだろ。窓口の人間なら絶対知ってるって」


ざわめきが膨らみ、列の前方にまで波が届いたそのとき——


「業務に関係のない質問は不要です。……次」


ぴたり、と音が消えた。

低く澄んだ声が空気を切り裂き、列の冒険者が凍りついた。


レイチェルは眼鏡の奥から視線をすっと上げ、問いかけていた冒険者をまっすぐ射抜いた。

手は止まらない。書類を一枚めくり、朱筆を走らせる。

その一連の動作があまりにも淀みなく、周囲を支配する。


「……っ、す、すみません! 報告はこちらです!」

慌てて差し出された書類を受け取り、レイチェルは確認を済ませる。

表情は変わらない。だが印の一つを加えるだけで、冒険者の肩が一気に下がった。


背後で並んでいた者たちも息を飲み込む。

さっきまで「黒衣がどうだ」「怖いだろ」などと好き勝手に話していたのに、

今は誰一人声を発さない。


「……計算、誤差なし。依頼完了。次」


端的な言葉。

それだけで場がまた進み始める。


列の中から小さな囁きが漏れた。

「やっぱりレイチェル姐さんだな……」

「怖ぇけど、逆に安心する」


耳に届いても、彼女は反応しない。

ただ次の報告を受け取り、目を通す。

背筋は一寸も揺れず、声は澄んだまま。


黒衣の噂でざわついていた空気は、今やきっちりと整列していた。

冒険者たちの視線は前を向き、書類を取り落とす者もいない。


レイチェルの冷徹さは恐怖ではない。

無駄を許さない厳しさの先に、「必ず処理される」という信頼がある。

だから冒険者たちは背筋を伸ばし、震えながらも安堵する。


「次」


短い声が、場を再び進ませる。


——そして列は、規律を取り戻して動き始めていた。



列は一度落ち着いたかに見えた。

だがすぐに、別の窓口にざわざわと声が集まっていく。


「なぁ、昨日の黒衣のやつら……」

「絶対監査だろ? なぁ、知ってんだろ?」

「ちょっとくらい教えてくれてもいいじゃん!」


矢継ぎ早に投げられる言葉。

その標的になったのは、明るい笑顔で応対していたカンナだった。


「え、えっと……! あ、あのですね!」

書類を受け取りながら、目が泳ぐ。

両手で帳面を抱えたまま、慌てて言葉を探す。


「そ、それはですね……! あ、やっぱりお答えできませんっ!」


声は裏返り、頬はほんのり赤い。

冒険者たちは思わず吹き出しそうになるが、必死な様子にさらに食いついた。


「えぇー? なんでなんで? 昨日ギルドで見たって奴、いっぱいいたんだぞ?」

「黒衣とか絶対ただ事じゃないだろ! ちょっとヒントくらい……」


「ひ、ヒントとかも……! 駄目です、ほんとに駄目ですから!」

カンナは両手をばたばたと振る。

笑顔を張りつけながら、必死にごまかす。


それでも冒険者たちは引かない。

「カンナちゃんまでそんな冷たいこと言うなよ〜」

「お願い、一言だけ!」


「だ、だから……っ!」

カンナはきゅっと唇を結んで、次の瞬間、深く頭を下げた。

「ごめんなさいっ! 業務以外のことは本当にお答えできません!」


一拍の沈黙。

けれど、あまりに真剣で必死な謝罪に、列の冒険者たちがぽかんとした。


そして次の瞬間——

「……カンナちゃん焦ってるの可愛い」

「逆に癒やされるんだが」


後ろからそんな声が漏れ、列の空気が一気に和んだ。

カンナは耳まで赤くして「ち、違いますからっ!」と慌てて手を振る。

けれど否定すればするほど、冒険者たちの笑いは増すばかり。


「ほら見ろ、やっぱり推しだわ」

「いや、さっきの“ごめんなさい”で完全にやられた」


場のざわめきは噂話から笑い話へと変わり、空気が柔らかくなっていく。


カンナは胸に帳面を抱えたまま、頬を熱くした。

「も、もう! 次の方どうぞっ!」


声は裏返ったが、列はきちんと動いた。

彼女のわたわたした姿は、不安を拭い去るどころか、冒険者たちに安心感を与えていた。


厳しさで静めるレイチェルとは真逆。

カンナの“焦りながらも真面目”な姿勢は、今日もギルドの空気を和ませていた。



窓口の三番。

そこに立つだけで、空気が自然と張り詰める。

背筋の揺らがぬ立ち姿。

流れるような書類さばき。

——メルシェの前に並んだ冒険者たちは、緊張を隠せなかった。


彼女が目を上げたとき、思わず背を正す者が何人いたか。

その美貌と冷静さは、言葉にしなくても場を支配する力を持っていた。


だが今日、冒険者たちの頭には“黒衣”の影が色濃く残っている。

列の一人が、書類を差し出しながらおずおずと口を開いた。


「……あ、あの。昨日の……黒い人たち、なんだったんですか?」


その声に、後ろの数人も顔を上げた。

「そうだよ、無音で通って……ちょっと怖かったんだ」

「なぁ、ギルドの人なら、知ってるんだろ?」


空気が一瞬ざわめく。

レイチェルなら「業務以外の質問は不要です」で斬り捨てただろう。

カンナなら慌ててごまかしたに違いない。


だが、メルシェは違った。


端末を開いたまま、ゆっくりと顔を上げる。

一呼吸置いてから、淡々と答えた。


「……通路を、通常より一・五倍の速さで進んでいました。音を立てずに進む技術も、通常より高度でした」


場が止まった。


「いやいやいや! そういう意味じゃなくて!」

「今、分析始めた!?」

「なんで速度の数値まで出てくるんだよ!」


「観察記録として正しいと考えます」


「いやいや! 正しいけどさ! そういうことじゃねぇんだよ!」


冒険者たちが一斉に総ツッコミ。

列がざわつき、笑いがこぼれ始める。


それでもメルシェは瞬きもせず、端末に視線を戻した。


「では、……黒衣のせいでしょうか。暗黒という言葉があるように、恐怖を連想させる色です」


「色の心理学!?」

「やっぱり分析だーーー!!」


別の冒険者が慌てて補足した。

「お、俺たちが聞きたいのは……“黒衣が何者か”ってこと! 速さとか色の意味じゃなく!」


メルシェは数秒、真剣に考え込んだ。


ジークが横から割って入る。

「『怖かった』で十分なんだよ」


メルシェは一瞬きょとんとしてから、素直に言い直す。

「……怖かったです」


一拍の沈黙の後、窓口前がどっと笑いに包まれる。

「言い直した!」「真面目すぎる!」「いやいや、それ絶対怖がってないよね!」

笑いながらも視線は彼女に集まり、その整然とした横顔が余計に印象を残していた。


——その冷静さと美貌。

——そして“真面目すぎるズレ”。


それが合わさった瞬間、場の空気は緊張から笑いへと転じていた。


「傾国さん……真剣なのにズレてる……」

「やっぱ推せるわ……」


誰かがぼそりと呟き、後ろの方で笑い混じりの同意が広がった。


メルシェは一瞥もせず、次の書類を手に取る。

「次の方、どうぞ」


その声音は淡々として変わらない。

だが、彼女が残した“ズレ”の印象だけは、冒険者たちの胸に確かに刻まれていた。


美貌に支配され、冷静さに圧され、

それでいて不意に漏れる真面目な天然。


ギルドの窓口は、今日もまた一人の職員によって空気を支配されていた。



街は今日もざわめいていた。

行き交う荷馬車の軋む音、商人の呼び声、冒険者の笑い声。

だがその下で、昨日から続く「黒衣」の影が、人々の会話に静かに紛れ込んでいた。


「ギルドに入っていったのを見た」

「いや、あれは商会当主の護衛だ」

「でも音がしなかっただろ、あんな歩き方する奴、普通じゃない」


噂は尾ひれを生み、恐怖と好奇心を同時に煽っていく。

誰も真実を掴んではいない。

けれど、人々の脳裏に焼き付いたのは——無音で歩く黒衣の姿。


その像は、人々の想像の中で歩き続けていた



ギルド本館。

窓口の三者三様の応対は、その噂の熱をさらに変化させていた。


レイチェルの冷徹な一言は「怖いけど頼れる」を強め、

カンナの慌てふためく姿は「癒やしで可愛い」を深め、

メルシェの生真面目な“ズレ回答”は「美貌と天然ギャップ」を決定づける。


推し談義に熱を上げる冒険者たちにとって、黒衣の不気味ささえ“ネタ”に変わっていく。

「怖い」「謎だ」という感情は、「推しの誰に聞きたいか」という方向へと塗り替えられた。


笑いが混ざる窓口の風景。

そこに漂う緊張と安堵の入り混じった空気。

黒衣が残した冷たさと、職員たちが放つ熱。

その落差が、人々の記憶により深く刻み込まれていった。



だが、街はまだ正解を掴んでいない。

ただ「黒衣」という像だけが、一人歩きを始めている。


恐怖と憶測。

笑いと推し文化。

相反する二つの感情を孕んだまま、街は今日も動いていた。


そしてその像はやがて、掲示板の新たな議論の火種となる。

——匿名の声たちがまた、虚空に言葉を投げ合うだろう。


鐘の音が遠くで鳴り、街路に風が渡る。

旗布が揺れ、人々の会話が再び混ざり合う。


その中で、「黒衣」の影はまだ消えていなかった。


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